alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

社会不適応?

2012年03月02日 | カフェと社会変革


 「i phoneのことなんだけどね、オーストラリアで買おうかと
思ってるんだ。オーストラリアで買って、日本でシムカードを入れて
フランスでもシムカードを変えて」
「それってうまく行くの?オーストラリアのi phoneってフランスでも
使えるの?」「使えると思うよ。でも日本のはフランスでは使えない。
僕が使いたいのは3GのGPSだから。wifiじゃだめなんだ」
「フランスのiphoneを日本で使っても国際電話扱いになっちゃうしね
あなたはインターナショナルな人であっても
世界はあなたほどインターナショナルになってないってことね」

 と 笑いながら私は言った。


 そう 世界はまだそこまでインタナショナルになってない。
3カ国にビザを持って行き来している人がいるとしても
国の壁はまだ厚く、同じiPhone1つをとっても、色んな壁が待っている。


 広尾のカフェで 昨日はいろいろ考えていて
あるときはっと気がついた。


 もしかして、、、 私たちが社会に適応できてないんじゃなくって
社会が私たちに合っていないのだとしたら??


 こんなこというと男性陣にバカにされそうではあるけれど
でももしそれがそうだったなら これはコペルニクス的転換だ。


 そもそも社会って誰がつくっているんだろう?
社会って誰のためにあるんだろう?子育てを再生産と言ったりするけど 
もしかして私たちは子育てよりも 物事を深く考えることなく、
社会こそ再生産を繰り返してはいないだろうか?
チャップリンが私たちは歯車になってるんだよと警告しても
あまり深く考えることもなく 「こんなものだ」ということで
ただ与えられた 所与のものとして再生産を繰り返し
それを子供に教えて行くけど さて それで本当にいいのだろうか?


 正気って何なのだろう?と私は昨日考えた。
シュールレアリスムの創始者アンドレ・ブルトンは
「私たちの属しているこの社会は私には気が狂っているという印象を
与える」と言っていた。社会からおかしいといわれていた
ブルトンが狂っていたのか はたして社会が狂っていたのか?
今の日本は 私の本を読んでくれた人も言うけれど
ブルトンやボーヴォワールが「そんなのおかしい!!」と思っていた
社会的制圧の強すぎる社会に似ていて 私が本の中で示した彼らの
苦しさを 自分のものとして感じてくれる人もいる。


 私はずっと自分がおかしいのかと思ってた。でも
正気といわれるものは結局その時点の社会構造にうまく
適応できているかどうかであって それは社会や時代によって変化する。
エーリッヒ フロムはこう書いていた。

 「よく適応しているという意味で正常な人間は、人間的価値については
しばしば、神経症的な人間よりも、いっそう不健康であるばあいも
ありうるであろう。かれはよく適応しているとしても、それは
期待されているような人間になんとかなろうとして、その代償に
かれの自己を捨てているのである。

 これにたいして、神経症的な人間とは、自己のためのたたかいに
けっして完全に屈服しようとしない人間であるということもできよう。」
(『自由からの逃走』p.156)

 そしてアーティストといわれた人たちは自己を捨てるくらいなら
「病気」と言われる方がましだと思って生きた人たちだった。


 『cafeから時代は創られる』を書いてからだいぶ時がたち
私は最近思うけど アーティストなんて 実は特殊な才能を
持った人ではなかったんじゃない?クリエイティビティって人間に
備わった素質なんじゃない?誰かはそれを諦めなかった。
多くの人はどこかで諦めて「適応」する道を歩んだ
違いというのはそれだけのことではないのだろうか?

 だけど本当は 人間はこの社会に簡単に「適応」できるほど
シンプルになんてできていない。本当はもっと渦巻いていて
沢山の悩みや思いや才能があり 産業社会で求められるような
単純なことをずうっとしてたら幸せになれるようなもんじゃなく
もっとカオスで複雑なのが人間なのだろう。
人間はただのホモエコノミクスじゃないと思う
経済活動さえしてればそれで満足なんてことないのだろう
だからどこかで私たちは問題を抱えたまま生きる
そこである人たちは病気になって ある人たちは鬱になり
ある人たちは引きこもる。ある人たちは海外に脱出を試みる。
どこかがきっとおかしいのだけど 私たちはこう思う。
「適応できない私がおかしい」そうして自分を責め続ける。



 本当にそうなのだろうか?



 今朝ものすごくリラックスした気持ちで蓮太郎と
バカなことをやって遊んでいたら 2人とも
大笑いの連続で 私たちはとても気持ちがよかった。
ああそうか 蓮太郎ってやわらかくてしなやかで
なーんだこれくらいリラックスしてるから
だからいっつも笑っているのか!とやっと彼の人生を楽しむ秘訣を
理解できたような気がした。
彼はいつもバカでアホなことばかりするのだけれど
もしかしたらバカなことが本当で まじめくさって
しかめっつらした大人の社会が 実はおかしいのかもしれない。
子供は吸収が速いというけど それは子供の脳みそが
大人と全く構造が違うとかじゃなく もしかして
これだけリラックスしてまだ丸い頭でいられるから
スポンジのように沢山吸収できるのかもしれない。
だったら大人も?もっと子供のようにバカになりアホになり
力をだらりと抜いてみたら すごく変わるのかもしれない。
そしたら子供と同じくらい 創造的になれるのだろうか。
そうしたらリチャード・フロリダのいうような
かなりのクリエイティブな都市が生まれていくんじゃない?
(彼の理論ではそうして都市が活性化され経済的に成長する)


 19世紀末ウィーンも 大人は真面目くさってた。
ブルトンがいたころのパリの大人もそうだった
だけどカフェに集った彼らは挑発してって後の社会を
変えてった。だからだろうか 今はウィーンもパリも
そのころに比べればよほどリラックスして芸術にも寛容で
人々が生きやすい街に思える。日本もカフェから
何かが変わっていくのだろうか?
私たちの社会がもっと 私たちに合っていく日
もっと自然な顔して大人も笑える日というのが来るのだろうか
それが遠い未来であっても いつかそんな日が来てほしい



フランスに行くなら

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