alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

giveの思想とtakeの思想

2012年03月20日 |  カフェ的な場で考えたこと


 「せっかくだから一緒にモーニング行ってみよっか」
ということで お世話になった友人と 朝から京都の喫茶店。
候補地は2コあったけど、はじめに店の前を通ったパンケーキの
有名な町屋カフェ で モーニングをすることにした。


 前日の夜はうまく話せなかったのに その日の朝は
カフェの開放感のおかげかなんだか話がノリにのり、
なんて素晴らしい議論!というのができて京都に来た甲斐を感じてた。


 沢山の話をしていた中で ふっと思い出したのは
広尾のセガフレードに居た時影山さんが話してくれた 
giveの思想とtakeの思想の話であった。


 今の社会はほとんどtakeの思想をもとに作られている。例えばカフェだと
この時間にお客さんが来たらいったいいくらお金がとれるか
一人が何時間居るとして じゃあ値段設定はどうしようか
原価率を考えて利益を生み出すためには どんな値段にすればいいのか
つまり「一人当たりいかにとれるか」という思想で成り立っている。
それが今の 当たり前な社会というわけなのだけど

giveというのは 時計の針の回転の仕方を逆方向にするようなもので
takeが不安に基づく思想であるなら giveは信頼に基づく思想?
これだけのものを与えれば、お客さんは喜んで、実はこちらが
考えていたよりも多くのものを支払ってくれるかもしれない。
例え値段が高く設定されていなくても 「これだけの空間で
この値段なんて!」と嬉しくなって誰かに伝えてくれるかもしれないし
お土産にお菓子を買ってくれるかもしれない。



 うちの息子は どうしてこんなに毎日幸せで楽しそうなんだろう、、、と
様々な不安を抱えてはよく泣きそうになっている母は彼を見て考えた。
そして疑問を投げかける。「なんで蓮太郎っていつもそんなに楽しそうなの?」
いつか素敵な「なるほど!!」という答えが返ってくるのを期待しながら。
今回は彼はこう言った。「おもちゃがあるから。カーズとか
ママもフィンマックミサイルのトミカ買ったらいいんじゃない?」
「そうかーママもおもちゃがあったらいいのかー」

 そんなことを言いながら 息子は母と置かれている星の下は同じであっても
別に明日の心配みたいなものを全くしていないからいいのかな と思わされ
心配や悩みがなければ 今しかなくて こんな風に笑えるのかなと考えた。


 もちろん人間が狩猟とか農業だとかを行ったりたくさんの発明をしたのは
「明日食えるのか」という心配ごとがあったから で それは悪いことじゃない。
だけどもう少し 心配事や不安が少なかったなら?
「明日住む家がなかったらどうしよう」と不安を抱えながら生きるのではなくて
「住む家もある 暮らして行くのに足りるお金も充分にあるし楽しめる」と
思っていたら そりゃあ気持ちやそれに伴う行動も ずいぶんと変わることだろう。


 頭の中の半分くらいがつい「心配」になってしまうのは
1つだけの道を踏み外してしまった人にとっては 特に東京みたいな場所では
生きてく術がないからで その恐ろしさといったら半端ない。
だから自分のやりたいことをもう少ししたいと思ってみても
この選択肢のない中で「そんなの無理!」としか思えない。
そして不安がもっと増大していき 人々は守りに入る。
まず家を買わなきゃ そのためにはいい企業に入って35年ローンを払って
夢なんてもうどうでもいいから お金の支払いをしなければ、、、


 不安は不安を増大させる。そして人々が不安になったら?
誰が特をするのかって それはだいたい物を売る側だ。
不安で頭がおかしくなりそうな時「これさえあれば!」と
思わせておけば彼らはそれを買いに走る。それが100万の壷であっても
1万円の化粧品だとしても それらが恐ろしい不安から守ってくれるなら
少しでも幸せになるために 人びとはポーンとお金を払える
だって不安に満ちた生活は本当に苦痛に満ちているから。


 だけどもし そうじゃないあり方があったなら?
信頼は人を元気にさせて 才能を伸ばしてくれる。
そこにお金がつくのなら?そのスピードは倍増される。
キャトルセゾンの社長さんが私にコラムの執筆をお願いしてくれた時
私はあることに気がついた。なんだ才能なんて関係ないんだ。
それよりむしろ信頼なんだ。そこでだれかが「わかった あなたに
任せましょう。」と言ってくれたとき しかもそこにお金が関わる時に
人はそれに応える自分になれるように必死に伸びて行こうとする。
あの人の信頼に添えるように 私に任せてくれたんだから。
そうしてく中でその人の才能の芽がどんどん開花されていく。
何度も壁にぶちあたり、何度もダメだしされてく中で。



 思えばパリのカフェツアーもコラムの執筆もパリビストロの
仕事も全ては「信頼」が先に立っていた。それらはgiveの
発想だった。それは「私に十分な才能があるから」ではなくて
だれかが「きっとやってくれるだろう」と信頼してくれたお陰で
結果として形になったものだった。giveの思想にはリスクが伴う
もしかして うまくいかないかもしれない。だけどそこに
賭けてみる。自分の判断や信頼というのに賭けて何かをまず与えてみた時
沢山のものごとは 今までの社会のものの見方と全然違った方向に
回転をしていくのかも。


 giveの社会とtakeの社会。どちらもこわいしリスクは伴う。
でもgiveはリスクをとる方で takeの社会はリスクを避けて
保身に走る方かもしれない。giveの方には神様や人、そして自分の
やろうとすることに対する信頼感があるのかも。
固定観念にがんじがらめな方よりも 私はgiveの社会に
きっと魅力を感じてる。不安にがんじがらめにならないで
ちょっとずつでもコトを起こすこと もしかしてもっと幸せな未来が
giveの社会にはあるのかも。

京の生活の豊かさ

2012年03月20日 | 京都とカフェの物語


 ちょうど1年ぶり の あの街に降り立って
せっかくだから!とカフェ巡りをはじめてみると
なんだこの都市、、、やっぱりすごい と 奥深さを感じることになる。


 京都はカフェの質が高い。

 そして京都にはカフェのある生活が当たり前に存在してる。


 そう そんなの当たり前だったけど 1年間あの場所を離れてみて
違う土地で生活をすると なんだかあれってぜいたくなことだったんだ、と
ようやくわかってみたりする。




 京都に住みたい はじめてそう思ったのは 大学1年の時だった。
環境活動を通して出会った京大生の友達が カフェを活動の場に使っていたこと
大学生であるというのに けっこうみんなおすすめカフェを持っていて
カフェが日常の一部に組み込まれているということ
それが私には驚きだった。京都、、、なんだか東京とはずいぶん違う。
私は京大生にはなれないけれど 大学院なら可能性はなくもないかも?
そう思ってダメもとで出した書類が何故だか通って私も京大院生になってしまった。


 大学生のころに私が知ってた京都というのは 銭湯があり
自転車があり 誰かに自転車を貸してもらったり 誰かの後ろにのせてもらったり
日常にカフェがあり 友人たちはその店のマスターと気軽に口をきいていて
おすすめの店が何軒かあり 彼らはたいていシェアハウスみたいなところに住んでいて
家賃は3万円前後でいい暮らしをしたりしていた そんなのが私の憧れた京都であった。


 懐かしい、、、6年くらい住んでいたはずなのに どうして?と思うけど
子供が生まれて京都の郊外にうつってからは 例えちょっとカフェに行けても
大学院の時のようにゆっくりすることなんてできなかった。
でも今回はカフェに入って特に明確な目的もなく、まあちょっと絵でも
描いてみようかとか そう 「カフェに行くためにカフェに行く」だなんて
とても贅沢なことを堪能できた。


 なんだかバカみたいな話だけれど パリ パリ と言っていたのに
京都のカフェには出会いがあった。ライブに子供を連れて来て その子は
絵本を読んでいる?そんなカフェがあるというのか そうかここなら
遅くなっても自転車ですっと帰ればいい。満員電車なんてないから
東京みたいに夕方4時すぎたら子連れでどっか行くのはアウト!なんて
ことがない。シェアハウスに子連れで住んでいる人もいて そうしたら
私みたいな客人がやってきたときに 子供を2階で寝かせて自分は
みんなとお酒のみながら会話 なんてことも可能らしい。
なんだ 京都 いいじゃん、、、!!


 インフォーマルパブリックライフ?そういえばここにはそんなのがあったらしい。
商店街は歩く人たちで賑わってるし けっこう色んなイベントもあるし
ゆるい空気もただよっている。有名な百万遍の手作り市なんて
インフォーマルパブリックライフそのものかもしれない。ここから生まれた
有名なカフェ 御多福珈琲は四条にカウンター中心の店を出してそのお店は大賑わい。
手作り市にはアーティストもいればパン屋さんも 小さなカフェみたいなのも
マッサージサロン?も変な人たちも溢れてた。老若男女の溢れるお寺構内の
手づくり市は アーティストたちの登竜門。


 そんなのがあったなあ、、、あったんだよなあ


 今更だけど 京都っていいところだなあ
パリへの想いは相変わらずあるのだけれど でも
いつか住めたらそのあとここに戻ってこようかな
そしたらそのころにはフランス語の先生にでもなれるだろうか
京大かどこかで少し雇ってもらえないかな?そういえば
フランス人のガイドの資格もあるから それを活かして
何かをするのも面白いだろう。フランス人が夢見る京都
私は京都という場所にいながら いつもパリを夢みてしまって
御所を縦断しながらフランスのラジオを聞いていたけど
いつの日か 相互作用みたいなものが起こせたのなら
それは面白いかもしれない。




 京都の町家 お金のかからないシェアハウス
交通費のいらない自転車暮らし 子連れでも行けるカフェでのライブ
やたら色んな店で出会う玄米のごはん 質の高い珈琲と喫茶店
そして人と話すのが好きな人たち 青春時代を例え過ぎても
ここでは18歳のころと大して変わらぬ話があった。
喫茶店のカウンターと主人との会話 常連さんの変わらぬ日常
緑の中を流れる鴨川 そしてもうすぐ咲く桜。 鴨川沿いでのゆるいお花見
着飾っていない舞妓さん。京都では当たり前の町家カフェや
中庭にある灯籠 そしてやたらセンスのよすぎる文具店。


 京都はなんだか等身大だ。こんなにお金をかけずに生きることが
可能なら 私だって生きられるかも こんなにお金をかけずに
生活ができるなら もう少し好きなことに力を注いでても生きられるかも
そんな可能性を匂わせてくれる街。 もし今度京都に住むなら
今度は荷物をぐっと減らして 街中に住もう。そして15年後も
やっているはずの ゴゴの常連さんにもう一度なろう。


フランスに行くなら

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