alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

他人の目

2012年03月21日 | 日本の「空気」


 先日友人が住んでいるシェアハウスに 
京都でカフェをしている共通の友人を呼び その子と
話をしようと思っていたら あれよあれよという間に
沢山の人が集まって、「私も話したい!」「私もききたい!」
まぜてまぜて 私も人生の転機やねん、、、というわけで
コンビニに日本酒を買いにでかけて1時すぎまでみんなで
いろいろ語ってた。


 どうしてこのタイミング で? 

 どうしてこのタイミング で なんだかうまくコトが運んで
私たちはここで話す機会を得たのだろう?


 彼女がそのカフェを辞めるのか それともまわりの
ちょっとした期待に沿ってそのまま続けてくれるのか は 
私にはわからないけれど その時出会った女子たちの
話をきいててわかったことは 他人の目 って
おそらく私たちが意識してるほどには 意味がない ということだ。


 
 外国に行って自由で開放的な気分になっても
そのあと日本人女性の胸をいちいち締め付けるのは
私たちががんじがらめになってる日本的な価値観で どうやらそれは
宇多田ヒカルが歌ったように 外国や遠くに行っても
追ってくる。「だって私は私なんだから」というもので
自分がそれを自身で乗り越えない限り どこまでも私たちにつきまとう。

 内在された他人の目。それものすごくリアルだけれども実体はない。
そういえばフーコーはパノプティコンって言っていたっけ
本当は監視されていなくても 監視する人がどこかに外出してても
「監視されてる」そう思うだけで 人は萎縮してしまう、、、


 そしてそんな内在された監視の目である「他人の目」が
おそらく世界中のどこの国よりも強く働くのが日本だろう。
私はフランスで政治について勉強したとき ピンとこなかった。
「人間は自然状態ではオオカミである?だから法で規制を
しないとならない?」どうして?日本では法なんてたいして働かなくても
たいていの場所に秩序があった。そう 全ての外国人が地震の後で絶賛したのは個々の
日本人に内在されてる秩序の力。でもそれは他人の目 という恐ろしいものでもあるわけだ。



 フランス人のすることは 日本人には理解できないことも多い。
「フランス人は子供を産んだ後 母乳をとめる薬を飲んだりするらしい」
という話をしたらそれを聞いた人は鼻で笑った。彼らのやることなすことは 
日本人には突拍子もなく聞こえ、バカじゃない?と嘲笑われることになる。


 だけどようやく私はわかった。私たち は 本当は
それをやってみたっていいかもしれない。それも悪くないかもしれない。
だけど自分の中にすごくブレーキがかかっているから
とてもじゃないけど想像できない。まさに彼らは「想定外」。
だけど彼らの頭がおかしいわけでも人間としていかれてるわけでもなくて
もし自分にも それだけの環境やそういう状況があったなら
そうなることもあるかもしれない。その方が気持ちいいかもしれない
その選択だってありかもしれない。もっと自分の気持に素直になってみたのなら、、



 だけど幼少の頃から執拗に内在された他人の目 は 私たちを律し続ける。
私が京都で話をした人は大学3年くらいのときにワークショップで
「人にこう見られたい自分」と「本当の自分」のようなものを書いていくとき
「こう見られたい自分」しかなくて愕然したのだと語ってくれた。
その時彼には「自分」がなかった。それは「他人の目からどう見られるか」の
自分でしかなかったわけで 彼の家で出会った女の子は「もう自分の本心なんか
わからへん!」と叫んでた。本心がわからない!その気持ちはわかるけど
でもそれってまわりを気にして合わせよう合わせようとしすぎた結果のことだろう。


 この国の社会のなかで 自分を見失っているのは 何も母親だけじゃなかったようだ。
若い働き盛りの女性も 大学生も もしかして高校生も?そして年間3万人という
自から命を絶つ人たちも 自分を失い、何が一体大切なのか さっぱりわからなくなっている。
そして一番大事と思わされて来た 内在されてる他人の目 は自分のことを
責めつづける。だけど本当のまわりの人は?


 「あんたに苦しんでほしくてフランスに行かせたわけじゃない」と
うちの母は留学中に国際電話で話してくれた。「そんなに苦しいなら
カフェにでも行ってればいいじゃない」って
そこからカフェの研究がはじまった。行ってもいいの?私は彼女のために
母を喜ばせるがために苦しみながらも勉強を続けて来たと思ってた。
でもそんな母が大どんでん返しみたいなことを電話で言った。
私には何がなんだかわからなかった。

 でも今にして思えばそりゃそうだ。実在しているまわりの人や友達は
誰もその人に苦しみつづけてほしくない。苦虫をかみつぶしたような顔して
生きられるより いつか見せてくれたような素敵な笑顔でいてほしい。
内在されているのではない 実在している他人の目 は 
自分が想定しているよりも 意外と理解があるものなんだ。


 だからもう 本当は活き活きしてればまわりの人も
嬉しいんだって 人のためとかいって偽って苦しい顔をしてないで
あの時みたいな活き活きした顔で楽しいことやって
まわりを笑顔にさせたらいいんだ
まわりの人は 本当はそんなくらいに思っているなら
内在されてる他人の目なんてゴミ箱に捨てたほうがいいんじゃない?

 私たちを縛って苦しめるのは 結局自分の中にある 他人の目でしかないわけで

自分が勝手に「まわりの目」を気にし始めた瞬間に 歯車はギシギシと変な音をたて
おかしい方向に回転していく。そうしてそれは止まらなくなり
どれが本当で どれが嘘かも わからなくなり 深く貼付いた仮面は
自分一人ではもうはがせないほどになっている。


 他人の目 は まだまだ私たちを縛ってる。でも足をひっぱりあうんじゃなくて
もっとみんなが活き活きできたら?私もあなたも 応援するよ!
そんな風にやっていけたら 人間もっと沢山の力を発揮できるんじゃなかろうか。

フランスに行くなら

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