語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【原発】事故直後に東京から逃げ出した経産官僚たち ~官僚の利権~

2012年05月24日 | 震災・原発事故
 3・11から1週間ほどたち、霞が関では、経済産業省を中心に、旅行ブームが起きた。役人や政府の仕事をしている関係者が、3月19日に始まる3連休のあいだ、家族旅行をしたのだ。なかには、遠く南の島まで出かけ、バカンスを楽しんだ人までいた。
 しかも、経産省内では給油マップまで出回っていた。
 当時、震災によりガソリンの供給に支障が出ていた。首都圏ですぐに給油できるガソリンスタンドは限られていた。そういう状況のなかで、石油業界を所管する経産省の役人という立場を利用し、給油マップを作成して、被曝を逃れようと西へ西へと車を走らせた役人がいたら、国賊ものだ。

 こうした役人たちが進める原子力行政は、国民の安全など前提としていない。
 あの原発事故の原因がハッキリと分かっていないまま、しかも地震学者の警告には目もくれないで、原発を再稼働しようとする。しかも、その再稼働によって責任が生じないよう、姑息な手を打つ。
 2006年9月、原子力安全委員会は1978年の指針を改定し、原子炉の耐震設計に係る新たな審査基準を発表した。このなかに、「残余のリスク」という聞き慣れない表現が登場する。
 原発は推進したいが、事故が起きたときの責任は取りたくない経産省の官僚による苦肉の表現だ。起こり得る事態の想定レベルを引き下げるために考え出された。つまり、事故が起こる可能性を承知の上で、事故が起きたときは言い逃れするために捻り出した方便がこの奇妙な表現だ。いかにも霞が関の役人らしい悪知恵だ。

 原子力行政が国民の安全など二の次にしていたことは、SPEEDIがまったく役立たなかったことからも明らかだ。
 SPEEDIは、スリーマイル島原発事故をきっかけに開発が決定し、1980年度に日本原子力研究所(現・独立行政法人日本原子力研究開発機構)において、気象研究所の協力の下、開発が始まった。
 翌年、基本開発を終了した。
 ついで、実用化のための調査、整備が1984年度後半から始まり、1985年度後半から文部省(現・文部科学省)所管の原子力安全技術センターが運営している。
 3・11後、SPEEDIのデータが原子力安全委員会から初めて発表されたのは、事故後1週間以上経った3月23日だ。それも、各地で測った放射線量をもとに原発からの放出量を逆算し、放射線量の積算値を地図上に示した「過去からの予測」だった。
 発表しなくても、適切な危険区域が設定されていれば、まだよかった。しかし、形式的な同心円状の区域設定になった。SPEEDIのデータを使えば、飯舘村に対して、もっと適切な対応がとれたはずだ。
 なぜ、このような役立たないシステムができあがったのか。
 開発に着手して30年以上経つにも拘わらず、予測できない予測システムしか作れなかったのは、そもそも実用化が目的ではないからだ。
 霞が関にとって意味があるのは、SPEEDI開発そのものではなく、それに関連する天下り先をつくること、そしてそのための予算をいかに分捕るか、だ。
 霞が関には、民間のように、完成度の高いシステムをできるだけ短時間で実用化する、という発想はない。むしろ、時間がかかればかかるほど予算を分捕り続けられるので開発スピードが遅いほうが好都合だ、とすら考える。これが官僚の発想なのだ。
 そして今、日本原子力研究開発機構では第三世代のSPEEDI-MPの開発が進められている。SPEEDIの開発・運用に113億円もの予算が注ぎ込まれている。

 政府が立ち上げたプロジェクトは、長々と基礎研究を続け、実用化までにはなかなか至らない、というのが一つの定型になっている。
 1974年7月にスタートした「サンシャイン計画」もそうだ。

 以上、高橋洋一(元大蔵相理財局資金企画室長)『財務省が隠す650兆円の国民資産』(講談社、2011)に拠る。
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