語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【旅】アンペルマン ~統一ベルリンのシンボル~

2018年04月07日 | □旅
 <森鴎外が自らのドイツ留学時の経験を重ねたとされる小説「舞姫」を発表したのはベルリンの壁崩壊から約100年前の1890年のことである。「欧羅巴(ヨーロッパ)の新大都の中央に立てり」
 小説にも出てくるブランデンブルク門のそばにある信号機(アンペル)には「アンペルマン」と呼ばれる愛らしいキャラクターが使われている。帽子をかぶったやや太めの男性が今にも歩き出しそうにつま先をあげる緑の「進め」。思い切り両手を広げた赤の「止まれ」。壁のできた1961年、旧東独の交通局に勤めていた交通心理学者カール・ペグラウさんがデザインした。当時、帽子姿が金持ちや資本主義のイメージで受け止められないか心配したという。
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 工業デザイナー、マルコス・ヘックハウゼンさん(56)は学生時代、東ベルリンで見たアンペルマンをよく覚えている。冷戦の末期、西ベルリンから1日ビザで訪れた東側は薄暗く、すべてが灰色に見えた。その街で見たひときわ目立つ緑と赤の信号機はユーモアにあふれ、がんじがらめの東の体制とは異質な印象を受けたという。
 その後、イタリアで経験を積み、95年にベルリンに戻った彼は、粗大ゴミとして放置されたアンペルマンを見て衝撃を受ける。90年のドイツ統一後、西側の信号機に置き換えられていたのだ。「魅力的なデザインで、太めのキャラクターは西側の信号機より識別しやすいのに」
 初めは統一を喜んだ旧東独の人々は、2級市民の扱いを受けて、その後、後悔の念を抱く人もいたという。処分されるアンペルマン信号機を無料で譲ってもらい、星形の壁掛けランプを製作した。96年に売り出すと3カ月で約300個売れた。緑色のランプの周りには、東側にいた人へのエールを込めて英語でこう書いた。キープ・オン・ウォーキング(歩き続けよう)。
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 ランプ製作をきっかけにアンペルマンの生みの親であるペグラウさんとも知り合い、信号機以外の商標権を取得した。芸術家や行政を巻き込んでアンペルマン信号機の復活運動にも乗り出した。ベルリン市は05年、アンペルマンを公式に採用。いまでは市内の信号機の9割を占める。優れた西側の製品が統一後の街を席巻するなか、東側の製品のなかで過去の遺物にならずに使われ続け、統一ベルリンのシンボルへと生まれ変わった。
 数奇な運命をたどったアンペルマンの信号機は今月中旬、鴎外の縁で日本にやってくる。アンペルマン発祥の地で鴎外が住んでいたベルリン・ミッテ区の交流使節団が鴎外記念館のある東京都文京区に「平和の使者」として贈ることになったのだ。
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 ベルリンの壁崩壊から28年たった今年2月、壁が存在した期間より崩壊後の方が長くなった。東西の格差はなお残り、不安と不満につけ込んだポピュリズムがはびこる。心の壁が築かれつつあるのではないか。分断と統一を見つめてきたアンペルマン。岐路に立つドイツの行く末に、何色の信号をともすのだろうか。
 
□石合力(ヨーロッパ総局長)「(風 ベルリンから)アンペルマンが見る未来は 石合力」(朝日新聞デジタル 2018年4月2日)を引用
(風 ベルリンから)アンペルマンが見る未来は

 ①ベルリンのアンペルマン(1)
 出典:https://bonzoblog.exblog.jp/16981330/
  

 ②ベルリンのアンペルマン(2)
 出典:https://prostfamil.exblog.jp/8122479/
  

 ③アンペルマンを男女同数に - 歩行者信号の形いろいろ
 出典:http://comej.blog76.fc2.com/blog-entry-122.html
  

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