御厨貴らによる「オーラル・ヒストリー」は、『後藤田正晴回顧録』【注1】という傑作をものしている。本書もその手法による回顧録だ。野中広務という一種、筋のとおった政治家の面貌をよく伝える。例えば、野中はパーティを一切開かなかった。この手の集金を拒否したのだ。
野中には別に自ら顕した回想録【注2】もあり、併読すると「聞き書き」のほうは同じ事実もオブラートにくるんで語っている印象を与える。例えば、『私は闘う』では小沢一郎に筆誅を浴びせているが、聞き手の牧原出らによる編纂が加わっているせいか、穏やかなものだ。それでも、掘り起こされた事実は、事実それ自体が辛辣なものだ。例えば・・・・
政務次官なぞ盲腸みたいに思っていた。官僚たちは今でもそう思っているだろう。今は副大臣とか政務官が2人、3人いるから、ますますそう思っているだろう。役所にとっては非効率だ。あんなお守りをしなければならないというのは。
それでも政府高官になったような顔をしているやつもいる。だから役人は政治不信、政治家不信が増幅してきた。
<僕は小沢さんの政務官・副大臣という構想は本当に間違っていたと思います。むしろ、いかに人間同士の信頼関係をつくっておくか、ということが大切なんです。時には壁になってやり、ときにはお互いに意見交換して信頼度を醸成していくということが、政務次官等をやっているあいだ、あるいは副知事として中央官庁に来て話をしているあいだの、われわれの身の処し方だと思って、それが財産になっったと思っております。/いまでも、役所の連中が来てくれる。農水省は関係があるけれど、ほかの関係のないところの人もみな来てくれるのは、そういうときの信頼関係などが生きているからだと思うんですね。>(p.54)
1991年11月、宮澤内閣の下で自民党の総務局長に就いた。党の総務局長は幹事長の直轄で、選挙を扱うポストだ。締め切りの直前、比例名簿の順位を決めて自治省、選挙管理委員会に届ける。当時の参議院選挙は、今のような投票ではなく、党員・党友をどれだけ集めて濃密な組織を動かすかが重要だった。比較的強い組織を持った人から順番をつけていく。10日間ぐらいかけて決めた。
職員は2人。野中は、夜の会合が終わった後、21時半か22時頃、赤プリの部屋に行って、集まったデータを見た。ところが、前の晩に見たものが、翌日見ると変わっている。調べると、野中が帰宅した後、小沢一郎がやってきて、これを変えろ、と指示していたのだ。小沢はそれほど参議院の比例区の順位にこだわって、野中らに言わないで関与していた。<嫌な面を見せられたことをいま思い起こします。>(p.85)
小沢は、どういった人を上にしようとしたのか。そこまでは覚えていないが、<そこまで覚えていませんが、小沢さんが気に入った人でしょう。>(p.85)
人で見ていたのか、後ろの団体で選んでいたのか。そこはわからんが、人で見たんだろう。
順位決定は総務局長の権限で、党の幹事長に報告し、党の選対に諮ってデータはこれだ、ということを決める。小沢は、選対でやるのではなく、データから動かそうとした。
野中が総務局長のとき、金丸信が東京佐川急便からの5億円授受を認めて副総裁を辞任する記者会見を開いた。記者会見は小沢がお膳立てした。野中が党本部の当番の日を狙ってやった(1992年8月27日)。
<そういう点では、小沢さん一派にやられた。そのとき、綿貫幹事長はおらない、佐藤孝行総務会長もおらない、そういうときを狙って、党の当番は野中の時だ、ということがあったんだと思います。(中略)国対委員長の梶山さんは、野党も入れた欧州旅行に出て、ロンドンにおったんだ。あのとき梶山さんがおってくれたら、だいぶ違ったと思います。いまから思うと、やはり司法試験を二回も落ちた小沢さんはある程度司法に対する偏見を持っておったと思うんですね。だから金丸さんに「もらいました」と言って、記者会見をさせた。>(p.94)
<小沢さんが、「眠たくてしょうがない。もう午前二時だ、おやじのつき合いで佐川の渡辺広康と飲んで、おれもついて行かされて」と言って、何回も悔やんでいたのを僕は知っているんだ。その彼が、金丸さんに「五億もらいました」という記者会見をさせた。そして金丸さんの家に来ては、「おやじ、私は命にかけておやじを守りますから。私のバッジでは駄目です。小沢一郎の命にかけて守りますから」と言ってハラハラと泣くんだ。本当に涙を流す。その時、僕と西田司さんの二人は、小沢さんが金丸さんの家に来たときにほかの部屋に隠れて聞いておった。しかし、もう大きくなっているけれど、金丸さんの孫がおって、そのあと、「うちにはたくさんの政治家が来るけれど、おじいちゃんの前で声を出してワンワン泣きながら、スーッと横目で僕ら子供の顔を眺める、怖い政治家がおる」と言ったんだから。孫もよう見ていたんだな、と思う。>(pp.94-95)
1994年12月に新進党が結成された。奥田敬和は野中が国対副委員長の時の委員長だったが、<「小沢に騙されてこんなところに来てしまって、俺はもう取り返しのつかんことをした」と涙を流して言っておった。>(p.164)
奥田以外に不平不満を漏らした人はたくさんいた。熊谷弘もそうで、自民党に戻った。徐々に新進党から自民党に議員が戻っていくのは、不平不満の声があったからだ。野党であることに対する不満というより、<小沢さんに対する不満だ。独裁者だからね。あれは政策は知らないで、政略だけだということだ。>(p.166)
小沢は、細かい政策については言わない。ところが、国家のありようとか、防衛のあり方だとか、そんなことはよく言う。例えば、日韓議連で合意した外国人参政権の問題など、小沢も合意して法案として出てきたのに、途中で引き上げてつぶしてしまったりする。ところが、今それを民主党のマニフェストに入れている。<まあ、変わる人だな、と思って僕は眺めているんだけれど。僕は、あの人は政局に強いと思うが、政策には一貫性がない。どう考えているのかわからんのです。>(p.271)
それで細かい話が突然出てきたりする。<途中で席を外してしまうときがある。だから内部で、あの人に近い人ほど離れて行くんですよ。前の自由党のときがそうでしたからね。>(p.271)
野中らが自由党と自民党の連立政権を工作していたとき、自由党の小沢は無理難題を言い立てた。自民党の内部分裂を惹き起こすために無理を言った。<小沢さん自身は、連立政権では副総理を狙っていたのかなと思うね。彼は総理をやる気はないからね。それは答弁できへんもの。あの人は、あれだけ長いあいだ座って、いちいち根気よく答弁はできんわ。自分で答弁するのがいやだから、あの人は答弁の問題を出すんですよ。>(p.276)
2000年3月5日、小沢が、八重洲で劇団四季が公演したときに竹下・小渕・小沢と会わせた人と、二人で公邸に訪ねてきた。小沢は、「とにかく自民党もつぶしてくれ、自由党もつぶす、そして一大連合をやろう、期日は3月31日、月末だ。そうでなかったら、俺は連立から離脱させてもらう」と言ってきた。
交渉そのものを担当したのは、小渕、小沢、青木と公明党の神崎武法。これだけで総理室でやった。
自由党も与党の中に入っているこの時期、あえて合併したがった小沢の意図は奈辺にあるのか。<結局、大連合じゃないですか。僕はさっき公明党との連立をやるときに、二つポストを要求したといったでしょう。一つは自治大臣と言ったけれど、もう一つは言わなかった。それを考えたら、僕の推測だけれど、小沢さんは自分の副総理を狙ったんじゃないか。>(p.307)
ただ単に副総理になりたいということか、のちのち総理になりたいということなのか。<僕は、彼が総理になるという意志は全くなかったと思う。(中略)それでフィクサーとなって、好きなように動かしたい。国会なんかでは答弁しなくてもいい、そういうポストですね。>(p.307)
【注1】「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(1) ~行政改革~」
「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(2) ~震災復興と危機管理~」
「【読書余滴】後藤田正晴回顧録(3) ~政治家の質疑応答能力~」
【注2】「【読書余滴】野中広務の、小沢一郎批判」
「【読書余滴】野中広務の健康法 ~金槌で叩く~」
「【震災】原発>政権中枢が反省する事故処理の不手際 ~自民党の場合~」
以上、御厨貴/牧原出・編『聞き書き 野中広務回顧録』(岩波書店、2012)に拠る。
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