語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【原発】社会的境界を横断するネット型の情報 ~3・11後の構造的変化~

2012年07月15日 | 震災・原発事故
 従来、自然災害時にもっとも頼れるメディアはテレビだった。テレビがプラットホームとなって、それなりに信頼できるし品質の保証された情報を提供した。多くの市民がその情報を共有することで、事態に対応してきた。
 が、そのあり方が3・11の大震災と原発事故を境に、根本的に変化した。

 (1)ライフスタイルや文化の消費に関わる領域にとどまらず、災害や大事故といった社会の構成員全体に関わる事態においてさえ、「マスメディアを介して、マス=大衆がほぼ同一の情報を供給するという構造」が崩れ去った(歴史的転換)。
 (2)この構造的変化のなかに、従来のマスメディアがプラットホームとなった情報の生産・移動・受容とは異なる別の社会情報の回路が、萌芽的なものとはいえ、生まれた。その回路を基盤にして新しい知(「共同の知」/「集合知」)の付置の関係が生まれつつある。

 「集合知」(Collective Intelligence /Collective knowledge /Wisdom of Crowds)の概念は、異なる文脈で成立し、使用されてきたが、およそ2つの学問的系譜がある【注1】。両者には発想やアプローチに違いはあるが、個体あるは個人を前提として諸個人が相互に触発し合うことで、そこに創発的特性が生まれ、個人の能力の総和以上の集団的知性が生まれる、という仮説に立つ点で共通する。
 原発事故に対するネット上の情報発信、移動、情報の共有という事態には、「集合知」を彷彿させる知の形態の現代的な生成の萌芽をかいま見ることができる。日常的な活動の分野も違えば、専門も違い、立場も違う個人が、それぞれ自ら伝えたい情報を選択し、転送し、他の誰かに伝える。複数のさまざまな情報が無限のループを描くように折り重ねられた情報環境の成立だ。この環境にコミットする者たちにとっては、さまざまな知がネットワーク状につながり、そのバーチャルなデジタル空間上に「共同の知」/「集合知」が成立する。

 この「集合知」は、ジル・ドゥルーズのいわゆる「分子的な微粒子状」の情報の流れ【注2】、「分子的」コミュニケーションの生成と考えることもできる。
 (a)情報の生産が技術的にも経済的にも制約された段階(3・11の原発事故の初期段階)では、情報発信はマスメディアという企業体とその「専門家」集団によって担われ、そのプラットホームから伝達された情報を受容することで、オーディエンス(視聴者)は結果的に同じ情報を分かち持った(20世紀のマスメディア型社会の基本構造)。しかも、新聞・テレビなどマスメディアは、国境という境界を暗黙の前提にして情報を伝達した。
 (b)他方、ネットは、基本的にはボトムアップ型の情報の流れを構成し、社会的境界を横断し、国境すらやすやすと越境していく特性を持つ。その横断性が、異質な個人同士の接触、異質な意見や主張の相互接触を生み出すことで「集合知」が生成する基盤を構成していく。それは、従来のマスメディア型社会の知の配置(トップダウン型の情報流通によって結果的に同じ情報を分かち持つ)とは、まったくその様相を異にする。

 【注1】①細菌、動物からコンピュータまで、個体と他の複数の個体との会田の協調・協力・競争関係から、その個体が帰属する集団自体に一つの精神/知性が存在するかのように見える現象を Collective Intelligence ととらえる。②Wisdom of Crowds の Crowds は、19世紀後半にG・タルドやG・ル・ボンらが街頭デモや政治的蜂起・暴動に注目して呼んだ「群衆行動」の「群衆」に根ざし、「群衆」は感情的で非理性的存在と見なされた。が、それでもある条件が整えば、個々の思考が相互に作用して協調すれば構成できるところの、ある種の「叡智」だ。
 【注2】組織された集合体の内部の理路整然とした情報の流れ(「モル」的コミュニケーション)に対し、性、階級・階層、専門分野、国境といった境界領域を横断して情報が広範囲に、しかも予測不能な効果を生み出しながら移動する特性を持つコミュニケーション(「分子的な微粒子状」の情報の流れ)。

 以上、伊藤守『ドキュメント テレビは原発事故をどう伝えたのか』(平凡社新書、2012)の「第7章 情報の「共有」という社会的価値」に拠る。
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