お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

お寺嫌い

2012年10月17日 | 仏教
 若い頃、東京生活が長かった夫(住職)。

 最近、その当時の先輩(仮にA氏とします)から、頻繁に電話が。

 高校卒業後、故郷を離れ、そのまま都会暮らしをなさっているA氏。
 故郷は、真宗のご法義が篤い土地柄ですが、A氏は、都会で、お寺とは全く無縁の生活してこられた方です。

 一人故郷に残っておられた母上が亡くなられ、長男であるA氏は、初めて、喪主となることに・・・

 葬儀をどうするのか、遠い故郷の今までのお墓をどうするのか・・・などなど、後輩(夫)が、真宗の住職になっていることを思い出され、相談の電話です。

 四十九日を終えたら、故郷のお寺から、先に納骨されていたお父様のお骨も引き上げ、都会の霊園にご両親を埋葬され、故郷のお寺とは縁を切られるおつもりです。それは、距離の問題もあり、しょうがないことです。

 でも、その後、新たに近くで、どこかのお寺の門徒に属するお気持ちは、全くないご様子です。

  生きている間にこそ、かかりつけの医院ならぬ、寺院を・・・と思うのですが、
残念だな~ お寺のイメージって、悪いのでしょうか~

 
 

 

 
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 絵手紙 | トップ | 仏教讃歌コンサート »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (案山子)
2012-10-18 17:35:55
嘗て基督教に接していた頃、内村鑑三が主唱する「無教会主義」に共感していました。
伝統宗派の 本質から離れた儀式偏重、些末な教条主義、世俗的な力学に違和感を覚えたからです。

浄土真宗もそうだ とは決して思いませんが、
信心は、お寺の門徒でなければ成り立ち得ないものなのでしょうか。
また、信心に儀式は必須なものでしょうか。
(釈尊も親鸞も、儀式・形式を否定されたと認識します)

いのちの拠り所として お寺はこの上なく大切です。
しかし、さる知己とお寺との状況(法事を行わない事に対し、門徒ではない との発言など)を見て、
例外と思いたいのですが、「本質」と「形」の在りようについて こころの片隅に疑念も抱くのですが・・・。
浅薄、独善をお許し下さい。

返信する
お寺の存在理由 (法専寺)
2012-10-18 20:34:10
案山子さん

すみません、私の書き方が誤解を招きました。

私は、A氏が、今後、お寺で、儀式(法事)を行わないことをイカンと思っているのではありません。

私が悲しかったのは、
A氏が、お寺は葬式をするところ であって、故人の葬式が済めば、後、お寺は、普段の自分の生活に何も関係のない所・・・と誤解なさっていることを、とても残念に思ったのです。

それまで、お寺や仏教と全く無縁だった方も、最愛の家族の死を通して、初めて、自分が仏法に出遇う機縁となることが多いものですから・・・

仰るとおり、特定のお寺の門徒にならなくても、いろいろな場で、聞法に励む信徒さんであるならば、尊く有難いと存じます。

ただ、
お寺が何のためにあるのか?
お寺は誰のためにあるのか?

は、誤解が多いので、それを、とても残念に思い、書かせていただきました。







「聞法の道場である」
返信する
Unknown (案山子)
2012-10-18 22:11:37
すみません。私こそ誤解を招く書き方を致しました。

御記事と全く関わりなく、
お寺様から「法事の依頼がないので、貴方は門徒とは思はない」と 告げられた知己が 現実にありましたので、抱いた疑念です。

仰るとおり、
お寺は、聞法の道場 と心得ます。
そして、より多くの方々がご縁を持たれることを願っております。


返信する
Unknown (法専寺)
2012-10-19 08:29:29
案山子さん

ありがとうございます。
お知り合いにそういうことがおありだったのですね。
推察ですが、そのお寺様は、法事の依頼がないから、門徒とは思わない のではなく、普段、全く、お寺の法座や諸行事にお参りなさることがなく、お寺と疎遠だったことを残念に思われてのご発言かと、思います。
勝手な推察ですので、間違っていましたら、すみません。
返信する

コメントを投稿