お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

教章

2008年04月23日 | 仏教
 浄土真宗聖典(赤の表紙のお経本)の0ページ(つまり、開いてすぐ)に記載されているのが「浄土真宗の教章」です。

 「教章」とは、「浄土真宗はこんな教えですよ~」という表明ですね。

 その「浄土真宗の教章」が、このたび新しくなりました。

 と、言っても、内容が変わったわけじゃなく(教えが変わるわけはない)、表現が、やさしく、わかりやすくなりました。(と、私は思う。聖典を開いて見比べてください
 宗名  浄土真宗
 宗祖  親鸞聖人
(ご開山) ご誕生  1173年5月21日(承安3年4月1日)
      ご往生  1263年1月16日(弘長2年11月28日)
 宗派 浄土真宗本願寺派
 
 本山 龍谷山 本願寺(西本願寺)
 
 本尊 阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)

 聖典  ・釈迦如来が説かれた「浄土三部経」
      「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」
     
     ・宗祖 親鸞聖人が著述された主な聖教
      「正信念仏偈」(「教行信証」行巻末の偈文)
      「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」
     
     ・中興の祖 蓮如上人のお手紙
      「御文章」

 教義 阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏となり、迷いの世に還って人々を教化する。

 生活 親鸞聖人の教えにみちびかれて、阿弥陀如来の み心を聞き、念仏を称えつつ、つねにわが身をふりかえり、慚愧と歓喜のうちに、現世祈祷などにたよることなく、御恩報謝の生活を送る。

 宗門 この宗門は、親鸞聖人の教えを仰ぎ、念仏を申す人々の集う同朋教団であり、人々に阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団である。それによって、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献する。

と、なっています。

「教義」「生活」「宗門」についての文は、初めてご覧になられた方には、「抹香臭い」ちょっと引いてしまう表現でしょうか

 まあ、短い文章で教義を表現するには、こういう表現しかないのでありましょうが・・・

 老婆心ながら、誤解がないようにお伝えしたいのは、「教義」のなかの「迷いの世に還って」という箇所。

 悟りの世界(浄土)に対して、娑婆世界(この世)を「迷いの世界」と申します。「迷いの世界に還る」のは、幽霊となって戻ってくるわけじゃありません。

 悟りの仏と成って、この世で迷っている(本人は迷っている自覚すらないのですが)人々を悟りに導くため、人々の心に「はたらく」ことを意味します。

 
 
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7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
喜んで (法専寺)
2008-04-25 20:22:04
私「お寺のオバサン」でお役に立つことがございましたら、どうぞ、どうぞ。 
よろしくお願い申し上げます。
返信する
お寺のおばさまへ (ひろべえ)
2008-04-24 21:44:54
ご丁寧なる回答有難うございました
お寺の住職様にお尋ね下さい とのことですが
あいにく懇意にしているそういった方がいません。
また 法事などの席では時間的にもまわりの雰囲気からもそのような質問ができる場がないのが現状です。
それに 住職様にざっくばらんな世間話も出来ないほどかしこまっておられるように見受けられます。

自分のことを( お寺のおばさん )って言って下さる方は そんなに見つかるものではありません
よろしければ 
また 教えて下さいネ
 合掌 
返信する
檀家寺へ (法専寺)
2008-04-24 18:25:59
くろべえさん、

私ごときお寺のオバサンが回答するのも何だか僭越でしたので、ぜひ、お寺のご住職に、何でも遠慮なくお尋ねください。
喜んでお答えくださると思いますよ。
返信する
仏徳讃嘆 (法専寺)
2008-04-24 11:17:24
ひろべえさん、

ようこそ、ご質問ありがとうございます。
「葬儀でお経をあげるのは誰のためか?何の意味があるか?」のご質問ですが、

結論から申しますと、お経をあげるのは、故人のためではなく、残された私たちのためです。

(浄土真宗の場合)阿弥陀仏のお徳を敬い讃えるため、それから、私たちが、新しく仏さまと誕生された(往生成仏された)故人のご葬儀を「縁」として、阿弥陀仏に心を合わせるためです。
 阿弥陀仏に心を合わせる言葉が「南無阿弥陀仏」と言う念仏です。

Unknownさん、

>親鸞聖人はお経を読まなくて良い、寺も建てるな」と言われていますよね。だのになぜ?

親鸞聖人がお経を読まなくていいと仰ったのでしたら、それは、「自力修行のためとか追善供養のための経」を読む必要がないと言う意味で仰ったのではないでしょうか。

浄土真宗のお寺は、僧侶が勝手に営業店舗のように建てたわけではありません。親鸞聖人の教えを歓ぶ者たちの集会所、仏道を聞く「道場」として、始まり、教団となってから、今の形になってきたのだと思います。

そもそも、その昔、葬儀と仏教は関係がありませんでした。
お寺が葬儀に立ち合うようになったのは、江戸時代の檀家制度からではないか・・・仏法を歓び、仏教と共に生きてきた同朋の死に際し、僧侶・遺族・仲間で一緒に故人を偲び、仏徳讃嘆する・・・そういう気持ちから今の「葬儀」という形式ができたのではないか・・・(これは、私の想像ですが・・・)

今はそれが、形式のみの「葬儀」だけ残り、本来の「仏法を聞く場」「道場」としてのお寺の存在意味が忘れ去られているのではないかと思っております。


ひろべえさん、

よろしければ(と、厚かましく宣伝ですが)昨年2月に出版した拙著
「お寺は何のためにあるのですか?」法蔵館 

をお読みくださったら、そのあたりの疑問を少し解決していただけるのではないかと思います。




維真尽さん、

そうですね。同じ仏教でも、宗派によって考え方がずいぶん違うようですね。
ただ、「仏教」ですから、
「この私が、悟りを開いて仏となる」教え・仏道 
である点に変わりはありません。






返信する
いろんな宗派の~ (維真尽(^.^))
2008-04-24 08:12:18
法事に出る機会がありますが
聞けば答えてもらえると思いますよ

詳しくはわかりませんが
でも~宗派によって
それぞれ~考え方が違うようですね
返信する
私も訊きたい! (Unknown)
2008-04-23 23:53:42
ひろべえさんの疑問に如何なる答えが出るのか?

>たぶん 昔からのしきたりだから 厳粛な場だから
ただただ 丸ごと受け入れて 疑問の余地をもたないのでしょうね

そうでしょうな。親鸞は「お経は読まなくても良い、寺も建てるな」って言われていますよね。だのになぜ?
返信する
ご教示願いたい (ひろべえ)
2008-04-23 20:36:00
今日は妻の祖父の葬儀に参列してきました
葬式ほど やるせない気分になる日はありませんね。
そんな訳で本日は 仏教に関するブログを検索している間にこちらにたどり着きました。
私は広島のいわゆる安芸門徒と言われている 代々浄土真宗を信仰している家の生まれで 56才になる男です。
子供の頃から両親に連れられよくお寺参りはしていましたが 自分で特に勉強したわけでもありませんので仏教に関する知識はとても貧弱なものです。
しかし この歳になり多くの葬儀を経験しいろいろ考えるようになりました
仏教については疑問だらけですが 心のよりどころとして最終的におすがりしてゆきたい場所であると考えています
そのため 少しでも疑問にお答え頂けるサイトがあれば嬉しいと思っているのです。
さて 質問ですが
葬儀でお経をあげるのは 誰のためですか?何の意味がありますか?
非常に基本的なことだけど 参列者の中でこの事に正確に答えうる人がどれだけいるでしょうか
また なぜ教えないのでしょうか
そして 誰も尋ねる人もいないのはなぜでしょう
たぶん 昔からのしきたりだから 厳粛な場だから
ただただ 丸ごと受け入れて 疑問の余地をもたないのでしょうね
ご意見 よろしくお願いします
==ひろべえ== 
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