昨日は2年に1度の法専寺総追悼法要でした。
ご講師に、T組のM・R師をお迎えし、味わい深いご法話をいただきました。
なかなか自分から進んで、仏前に座ることのない私が、先に往生された最愛の家族をご縁として、
お寺にお参りし、仏前に座らせていただく身になったこと
また、悲しみも苦しみの中にも阿弥陀さまがご一緒であること
を 心にしみるエピソードを交えお話いただきました。
若いご遺族も多かったのですが、皆さん、うなずいて、熱心にお聴聞しておられました。
私自身も大変有り難いご縁を賜りました。
ご法話の中の言葉を1つご紹介します。
「有り難い」 の反対語は 「当たり前」
今、私が生きていることは、決して当たり前ではない、
大いなる惠みやおかげさまに鈍感、自己中心の心ばかりにとらわれず、生かされ生きていることに感動をもって、生きていきたいと、あらためて感じました。
南無阿弥陀仏
ご講師に、T組のM・R師をお迎えし、味わい深いご法話をいただきました。
なかなか自分から進んで、仏前に座ることのない私が、先に往生された最愛の家族をご縁として、
お寺にお参りし、仏前に座らせていただく身になったこと
また、悲しみも苦しみの中にも阿弥陀さまがご一緒であること
を 心にしみるエピソードを交えお話いただきました。
若いご遺族も多かったのですが、皆さん、うなずいて、熱心にお聴聞しておられました。
私自身も大変有り難いご縁を賜りました。
ご法話の中の言葉を1つご紹介します。
「有り難い」 の反対語は 「当たり前」
今、私が生きていることは、決して当たり前ではない、
大いなる惠みやおかげさまに鈍感、自己中心の心ばかりにとらわれず、生かされ生きていることに感動をもって、生きていきたいと、あらためて感じました。
南無阿弥陀仏