本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

性戒(しょうかい)と遮戒(しゃかい)

2024-09-30 20:10:32 | 十地経

性戒・遮戒、

なかなか難しい言葉ですが、

よく見てみると人間の行動を

よく押さえた言葉です。

 

「性」という字も

仏教では(しょう)と読みます。

性質とか本性という意味や

存在のありようという意味で

使います。

 

簡単には、性戒・遮戒は

性戒ーそれ自体が悪となるような

行いです。

例えば、殺生・偸盗・邪淫・妄語

などです。

これは戒律と定めなくても

人間としてやっていはいけない

ということです。

 

それに対して、

遮戒は、状況に応じて釈尊が

定めた戒です。

例えば、飲酒(おんじゅ)

不飲酒戒というのがあります。

まあ、酒は百薬の長ということも

ありますが、

やはり、修行となるとお酒は

飲まない方がいいということで、

釈尊が定めた戒ということです。

 

そういうことを踏まえて、

講義では、

 

「性戒、これは大体戒のことが

述べてあるのは、十地では

第二地なんです。

十年も前に話したことですけどね

第二地にこの戒のことが

出ているんですがね、

そこが本場なんです。

だから今更何だ、

というような感じもするんですが、

…… 。

 

性というのは、

具わっているという意味です、

教えなくても。

別に教えて許すんじゃない。

自分で … つまり、

何というか、

フランス語でボンサンス(bon sens)良識と翻訳される。

良識ね。

我思う故に我あり、

という場合ですね、デカルトの。

コギトエルゴスム

(cogito ergo sum)、

あのコギトは何かというと、

つまりボンサンスです、良識。

つまり善悪を判断する能力、

理性ということです。

 

人間は、その、

デカルトはこういってます。

理性というのは、

これは平均化されて人間に与え

られているという。

人間に誰でも平等に廻向されとる

という。

性格とか、修行とかに関係ない

ものだ。

 

賢いとか愚かだとか、

勇気あるとか、

そういうことはみんなこれ性格に

よるんですけど、

しかし今いったように良識という

ものは

これはそういうものじゃないと。

普遍的に人間に具わっている

ものだと。

 

性として具わっているもの、

こういうものは、

デカルトの場合なんかは、

良識というんです。

良識、理性という意味なんです。

ドイツ語ではフェアシュタント

(Verstand)という意味でしょう。

この健康なる常識ですね。健康な。

(menschliche Verstand)ですか。

だから良識というものは、

低い意味では常識と同じことなんです。

高い意味では理性なんです。

 

で、我々の常という字が

そういう字でしょう。

常といえば日常的という意味だ。

だけど、平常心是道というが、

そういうことでしょう。

だから低い意味から日常性という

意味で、コモンセンスという

んですけど、

高い意味から理性で、道ですね。

両方持ってますね、日本語でも。

 

教えんでも、自然に誰でも分かる

つまり良識というのは

判断能力なんです。

善悪ということは、善悪の判断は

良心が判断するでしょう、

別に人が教えんでも。

 

しかしながら、

魚食っちゃいかんとか、

そいうことは教えられて初めて

意味のあることです。

髪伸ばしちゃいかんとか。

これは別に本来決まっている

ものじゃない。

むしろ後天的なものです。

だから

随犯随制(ずいぼんずいせい)

といって、

犯さんのにつくるものじゃない。

犯した結果つくっていく。

犯した結果、制限していくと。」

 

こういうような話が続きます。

遮戒というのは

このように犯したら順次つくる

という、そういう戒という

ことのようです。

ですから、以前のことですが

東南アジアのお坊さんは

読経の途中でもタバコを吸う、

その当時タバコがなかったから

そういう決まりがなかった

というこのようです。

面白いところですが、

人間の行動を見つめた結果

戒ということを二つの見方で

押さえたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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諸悪莫作 衆善奉行

2024-09-25 19:25:21 | 十地経

諸悪莫作(しょあくまくさ)

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)

 

諸々の悪は作すことなかれ

多くの善はすすんでせよ

 

この言葉は

七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)

といって、

お釈迦さ間を含む

七仏から伝えられてきた教え

戒律の偈ということです。

また、この言葉は一休さんも特に

大事にされたようで

一休寺にはこの言葉が掲げて

あります。

 

有名な物語があって、

白居易(白楽天)は禅を好み

禅僧の鳥巣道林(チョウカドウリン)

に、仏教とは何か、と問うた

すると、その答えが

「諸悪莫作・衆善奉行」

ということを言った。

そんなことぐらい

三歳の子どもでも知っている

と、白居易が言うと、

子どもでも知っているが

それを実行することは80歳の

老人でも出来ないものだ、と。

 

鳥巣道林という人は

木の上で鳥の巣のようなところで

座禅を組んでいた、

寝むれば落ちる、

そういうところに身を置いて

修行したのでこの名前が

付いたのでしょう。

 

祇園祭の「白楽天山」は

この物語をモチーフにして

美しい織物が作られています。

 

この偈には続きがあって、

自浄其意(じじょうごい)

自ら其の意(こころ)を浄くする

是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

是が仏の教えである

と続いています。

 

 

このことを講義では

「これはね、何で有名なのかと

いうと、禅宗でいうとるけど、

ダンマパダの経言なんだ。

ダンマパダ『法句経』ホックキョウの

言葉なんです。

非常に古い仏説です。

これは龍樹が初歓喜地の解釈に

用いているんです。

それで有名なんですが。

 

その時に問題なのは善悪ではない

その意を浄くするということが

大事なんだ。

その意を浄くする

ということによって、

そこに一点の悪もない、

つまり善、

つまり最高善というのか、

悪というものの影を落とさんよう

な、善ならざるはないというよう

な世界が、その意を浄くする

というところに出てくる。

 

その意を浄くするというのが

仏道なんだ。

悪を捨てて善を求める

というのは世間道なんだ。

しかし

世間道を完成するものは、

世間道ではない。

仏道で初めて世間道が完成する。

こういうような意味です。

 

諸仏の呵(か)したまうところの

ものは、捨てると。

諸仏の誉めるところのものは、

即ち行ずると。

しかも常に行ずるというような。

呵というのは嫌ですね。

誉は妙でしょう。

だから呵するということは

悪というけど、

不善というけどもね、

ただ狭い意味の道徳的不善

というようなことでなしに、

好ましからぬものですね、

悟りにおいて。

 

それから歎ずるというのは、

ただ道徳的、倫理的な意味で、

モラリッシュな意味で善という

ことではなく、妙という意味です。

つまりいってみれば好ましい、

妙好という意味なんです。

ただモラルというような意味ではない。

 

だからして善悪の標準が

倫理というようなところで

いっとるんじゃないんです。

いえば、

仏の悟りというようなところから

善悪を決めている。

仏の去らしめるところと、

仏の勧むるところと、

こういうようなことがあります。」

 

諸悪莫作・衆善奉行

ということだけが

気になっていたのですが、

そうではなく、

自浄其意(その心を浄める)

というところに重きがあるという

ことは驚きでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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エスカトロギッシュと生死巌頭に立つ

2024-09-23 20:03:49 | 十地経

言葉ということも

三つの考え方があると

聞いたことがあります。

一つには一般語としての言葉、

もう一つは専門語としての言葉、

最後は宗教語としての言葉です。

それが混同されてくると、

宗教語も一般語として解釈して

理解が深まらないことがあります。

 

例えば、

「利益」という言葉、

普通には「ゴリヤク」といって

仏様から何かいいことを頂く

お参りしていたら宝くじに当たった

とか、あそこの仏さまは

ご利益があるとか、

 

専門語としては「リエキ」です

経済の言葉として、とても重要な

意味があります。

利益を上げるということは

とても大切なことです。

利益が出ないような商いは

しないほうがいい、とも聞いた

ことがあります。

商いをする以上、利益が上がる

ということが健康なことです。

 

これが宗教語になると

それこそ「りやく」といって

仏様から頂く大切なことです。

それは私たちの考え方を否定した

内容です。

ただ、儲けたとか、

何か良い事があったとか、

というようなことではなく、

自分自身の煩悩を対治できた

克服できたという、

そして本当の自分を見つけた

ということが、本当のご利益

でしょう。

 

ですから、私たちの考え方とは

まったく正反対です。

私たちの煩悩をくすぐるような

そういうことがご利益ではない

ように思います。

 

講義に出てきた、

福音という言葉も、

神さまからの良きたよりという

godからのgoodな知らせspell

つまり、gosupel ゴスペル

ということです。

しかし、

良き知らせというのが、

私たちが考える良い事ではなく

「神の国が近づいた、

 汝ら悔い改めよ」

という意味でしょう。

やっと神の国に入れるので

今までの罪を悔い改め懺悔して

神の国に入る準備をせよ、

ということが福音という

ことなのでしょう。

(門外漢の私が言うので

 あまり信用できませんが)

 

そいうことが終末論

エスカトロギッシュということで

バルトという人が

毎日をこの世の終わりとして

生きています、

ということはそういうことを

いってるのでしょう。

 

ということは仏教では

「生死巌頭に立つ」という言葉が

あるように、

生まれてやがて死ぬのではなく

いつでも死に立って生きている

ということです。

崖っぷちに立って生きている

ということでしょう。

 

安全な所に立っていると

考えると、生がボケてしまいます

常に死を抱いて生きている。

生老病死の「生」ということが

分かりにくいのは、

そういうことのようです。

 

病気で死を宣告された人が

見舞いに来る人来る人に

もう次の出会いは

ないかもしれないと、

見舞いに来られて帰っていかれる

姿をドアを少し開けて

その姿が見えなくなるまで

拝むようにお見送りされた

ということを聞いたことが

あります。

 

一期一会ということも

そういう意味あいでしょう。

もう次の出会いはない

自分の生涯でこの出会いは

一回限りであると、

そういう意味あいを含んで

いるようです。

 

形としては、

お見送りするとき

姿が見えなくなるまで見送る。

本山にいる時、

玄関に座ってお見送りする

すると、分かっている人は

門を出る時、こちらに振り返り

もう一度礼をして失礼される。

そういう形が「一期一会」

ということでしょう。

 

何か似ているような、

しかし、キリスト教の終末論とは

もっと違った内容をもっている

のかもしれませんが、

そこには内面的な面と

神という

外からの大きな力というか

勅命みたいなものを感じます。

 

この世の終わりと考えるにしても

それを仏教では

自分の内面の問題として考えるか、

外からの神の力、命令と考えるか

大きな違いがあるようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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阿耨多羅三藐三菩提(アノクタラサンミャクサンボダイ)

2024-09-21 19:00:10 | 十地経

「阿耨多羅三藐三菩提」

この一句は宗派を問わず

お経には必ずといっていいほど

出てくる言葉です。

ところが、書けといわれると

すんなりかけない

言葉でもあります。

anuttara-samyaku-sambodhi

アヌッタラ-サムヤク-サムボーディ

を音写した言葉です。

あえて訳さず。

私もパソコンですと、

「あ」と入れると

阿耨多羅三藐三菩提、と

一瞬で変換しますので、

書く機会も少なくなりました。

 

訳すと、

無上正等正覚

ムジョウショウトウショウカク、とまたは

無上正真道ムジョウショウシンドウ

無上正遍知ムジョウショウヘンチ

となります。

この上なく優れ正しく平等円満

なる智慧ということで、

仏教徒の目的になります。

まあ、究極のさとりの智慧と

言うことにもなります。

 

それで講義は昨日の続きで、

バルトの話が出てきます。

 

「バルトはちょうどナチスの迫害

に遭って、その時、

日本から留学しとった人が、

ドイツを追われてスイスへ行く時

あのような激しい第二次世界大戦

の中、さなかにですね、

どういうような気持ちで先生は

毎日を送っておられますかと、

聞いたら、

私はエスカトロギッシュに

(eschatologisch)

生きていますと。

エスカトロギッシュ、終末論ね。

この世の終わりというところに

自分は毎日生きとると。

毎日毎日をこの世の終わり

として生きていますと、

こういうことを言っている。

 

つまりそれは原始キリスト教の

立場なんだ。

神の国が全部出てきたわけで

ないけど、

神の国というものが射してきた、

この世が終わった、

そして神の国が近づいてきた、

その近さの中に毎日生きています

ということを言ったんですがね、

バルトが。」

 

エスカトロギッシュという言葉

ドイツ語の辞書にも出てない

もう一つのを見ると、

eschatologi エスカトロジー、とあって、

ギリシャ語の eschata 最後のもの

が語源のようです。

日本でも、

この世の終わり、というような

歌のグループがありましたよね、

何と変な名前と思っていたのですが

こういうところから取っている

のかもしれません。

 

それから続いて、

 

「このようなことがね、

今言ったように、畢竟ヒッキョウ

といったら、もう仏果を。

仏菩提ですね。

仏菩提というものが、この、

これが

つまり究竟クキョウというんです。

アルティメットultimate ですね。

究竟を表す概念です。

 

ここまでいったら仏教は済んだと。

これからは、

ということはないのです 。

仏教というのは究竟の道であって

終わりのない道なんです。

ここまで行ったら

もう終わりということはない。

 

究竟の道を仏菩提と

こういったんです。

だからして無上正真道と

いってある。

阿耨多羅三藐三菩提と

いってある。

アルティメットという意味です。

究竟クキョウ、

つまりやがてはその身口意の

三業をですね、

身口意の三業というのは究竟を

表す概念でしょう。

 

それは究竟の世界というものを

語っとるんでしょ。

身口意の三業というもので、

三業清浄ということは。

けどその究竟の果を、

畢竟じては究竟するという。

畢竟じて究竟するという。

究竟畢竟という言葉がある。

 

ついには、

今ではまだ

究竟まで至ってないけど、

ついには究竟というものまで

至るべき一歩の中に

自分はおると。

このような含蓄があるんです、

ここには。」

 

修業というのは、

ここまで行ったら終わり

ということがあるのです。

一つのプロセスを終えたら。

ところが修行は、

終わりがない、ここまでいったら

終わりということはない、

終わりのない道なんです。

そういうことを「究竟」という

言葉で表しているのでしょう。

 

 

 

 

 

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中間時(中間のとき)

2024-09-19 20:13:17 | 十地経

講義の中でこういう

「中間時」という言葉が

出てきたのですが、

よく分かりませんが、

キリスト教の言葉なのか、

バルトが言っている言葉なのか、

しかし、なるほど面白い言葉です

 

お釈迦さまが涅槃に入られ、

無仏の時代に入ってきます。

次の仏さまは

弥勒菩薩ミロクボサツです。

その無仏の時代を見守って頂く

仏様が地蔵菩薩です。

そういこともあってでしょうか、

道の辻々に立たれて私たちを

守って頂いているようです。

 

次の弥勒菩薩が現れるのは

56億7千万年後ということです。

そういう意味で

無仏の時代でもあるし、

中間の時でもあるのでしょう。

 

講義は、

「こういうことは仏教でも

いえることではないかと思う。

仏教の方でも初期の仏教ですね、

日本の。

飛鳥時代に仏教ですね。

その時、仏足石歌、仏足石、

仏の足を刻んだ彫刻が

よくありましょう。

一番初めの仏教のね。

後になってからこのような

仏さんの像を造り出したんです

けど、初めは仏教に

そういうものはなくて、足ですね。

ガンダーラの仏像なんか、

一番初めは。

仏の足を石に彫った、

それが一番初めです。

つまりいってみれば象徴ですね、

仏法の象徴としての絵画は。

 

それで仏足石の歌というのが

ありますね。

万葉じゃないですけど、

いい歌ですね、あの歌は。

哀婉切々アイエンセツセツというような

ものを伝わってくるような歌です。

残ってますね、日本の上代の歌に。

 

それは、

仏はすでに過去となったと。

釈迦はね。

すでに過去となったと。

しかし未来の仏はまだ現れない。

未来の仏は弥勒です。

56億7千万年に、

未来に第二の仏が現れると。

 

そういうように、

現在は何かというと、

未来の仏はまだ来ないし、

過去の仏は既に入滅されたと、

その中間時です。

 

我々はですね、

その過去の仏の教えを

未来の仏が出世されるまで、

維持しなきゃならんと。

こういうような、

この悲愴な気持ちといいますか、

そこに絶望してしまわずに、

過去の仏の残された、

いわば仏が歩んだ道をね、

八正道でしょう。

それをやっぱり我々が行じて、

当来の仏まで、

我々がこれを続ける

責任があるんだと、

道に遇うた我々には。

 

そういうことを歌った歌です。

 

ちょうどいうと仏教の中間時です。

こういう哀婉切々たる中間時

というものの自覚なしにですね、

現在が絶対だというようなことを

言っているのは、楽天主義です。」

 

よくよく読めば

大きな責任を感じるような

ことです。

呑気になんかしておれない、

聞き続けてきた教えを

歩み続けなければならない

という、

私たちはそういう中間時に

生きているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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話しの展開

2024-09-17 19:38:39 | 十地経

第七地に出てきた「深淨なる三業」

ということから

話が展開していきます。

先生の考え方でしょうか、

言葉を繰り返しながら思考が

展開していくという。

 

「深淨なる三業、

深淨。深く淨らかなというよな。

ただ三業といううのじゃない、

深淨なる三業、それから成就する、

畢竟じて成就する。

深淨なる三業を畢竟じて成就すると。

畢竟じて深淨なる三業を成就する。

畢竟成就というようなことですね。

ついにはというような字ですね、

畢竟は。

 

今、

全部やっとるというんじゃないと。

ついには、ついにはその

深淨なる三業を成就すると。

今やっとると

いうんじゃないけども、

そうかといって、

その深淨なる三業というものが、

よその方からぽんと

出てくるものじゃない、

奇跡としてね。

 

今は成就しとるというわけでは

ないけれども、

成就する第一歩の中に

あるんだと。

つまり成就するのは畢竟ですから、

永遠の未来かも知らん。

 

しかし未来というものの鍵を

握っているんだと。

こういうわけですね。

未来があるが、その未来という

ものが現在の向こうの方から、

外から来るんじゃない。

 

もう未来の中に自分を置いた、

それが現在なんだと。

未来はここから始まっている。

未だ来らざる未来も

今の中にちゃんとはや、あの、

展開しとるんだと。

未だ未来に到達せずして、

未来をつかんどるんだと。

こういうような意味がここに

あるわけです。」

 

「深」という字から、

仏教ではおもに(じん)と読み

ますが、

安田先生の名前も「理深」リジン

といいます。

また先生がよく書かれた言葉に

「深心妙行」ジンシンミョウギョウ

があります。

深いところに立って自由にはたらく

さとりの世界を表現した言葉です。

単なる深という言葉一つでも

深く考察される。

ということもあってでしょうか。

 

同じ言葉を繰り返しながら

考えを進めていかれます。

 

そして、今は成就してないが

成就するという未来の鍵は

今握ったと。

未来が今の現在に始まっている。

という展開から、さらに進みます。

 

話しは混乱するかもしれんけど

と前置きして、

 

「福音書の中に『神の国』

ということが出てくるんですが、

神の国が近づいたというのが

キリストの福音です。

仏教の方は、

苦悩を解脱する道が見つかった

というのが、仏教の初転法輪。

キリスト教の方では

神の国は近づいた。

悔い改めよ。

というのがキリストの福音の

初めです。

その神の国が近づいたという、

近く来たという言葉ですね。

非常に含蓄あるでしょ。

 

神の国はどこへ来たんかと。

汝等の内にありと。

内というようなこともあるんです

汝等のそこに来ているという

ような意味ですね。

 

神が来るということは、

喜ばしい音信というけど、

それは、

人間の批判というものを

もっとるんですから。

最後の、

人間の最後の審判ですね。

 

ちょうど、

今の原子核みたいなものだ。

これは保守党も革新党も

全部が絶滅するような意味を

もっているのが核でしょう。

どちらの、イデオロギーを

超えているでしょう。

その矛盾対立の全体を包んで、

一挙に殺してしまうものが核です。

 

今言った神の審判というのは。

それを終末論的というのです。

だから汝の内とかね、

汝の近くという意味が、

終末論的な表現なんです。

 

つまり今日の言葉で言えば、

バルトという人が、神学者ですが、

バルトは我々今、信仰を得とるが、

それで信仰の全てが

終わったんじゃないと、

完成したんじゃない。

完成は未来だと。

 

今我々は、しかし我々は

救われとらんのじゃない。

救いの中に入っとるんだと。

しかしながら救いが

完成しとるんじゃないと。

だから中間時というんですが。

中間時や。

中間的な時間ですね。

 

我々が生きているのは

中間時に生きているのだと。

もう迷っとる中に

おるわけじゃない。

迷いは超えた。

しかしながら、

それは完成した

というわけじゃないと。

中間時というような。」

 

何か難しいですが、

こういうように話が展開して

またもとの問題、

三業清浄ということに戻ってくる

こういうような形で

話しが円を描くように展開する

ということが面白いところです。

 

 

 

 

 

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身・口・意の三業

2024-09-14 19:40:01 | 十地経

在家の方でも一番初めに読む

勤行法則の最初は、

開経偈(かいきょうげ)があり

それから、三帰サンキ・三竟サンキョウ・

十善戒ジュウゼンカと続きます。

ですから十善戒といえば

一番初歩的なお経です。

その十善戒が『十地経』では

第七遠行地に出てきます。

遠行地といえば、

次の地が第八不動地といって

もう仏の世界です。

その一歩手前の七地になぜ、

誰もが読む「十善戒」が出てくる

のか面白いところです。

 

今読んでいるのは

『十地経論講義』です。

ですからこの論のもとになる経は

『十地経』です。

『十地経論』の中では、

「経に曰く」(きょうにいわく)

という言葉で始まり、

その経に対する論が、

「論じて曰く」(ろんじていわく)

と、世親菩薩の解釈が始まる、

という構成になっています。

 

今問題になったところの

経の部分を紹介します。

 

「経に曰く、

是の菩薩は此の

第七の菩薩遠行地の中に住して、

畢竟じて深淨の身業を成就し、

畢竟じて深淨の口業を成就し、

畢竟じて深淨の意業を成就す。」

 

こういう形で出てきます。

十善戒でいうと

身業にあたるところが、

 不殺生・不偸盗チュウトウ・不邪淫

の三つです。

口業(くごう)にあたるのが、

 不妄語・不綺語・不悪口アック・

 不両舌、の四つです。

意業にあたるところが、

 不慳貪ケンドン・不瞋恚シンニ・

不邪見の三つになります。

 

身が三、口が四、意が三で、

口に関する戒めが四つあります、

やはり、口は禍の元ということでしょう

 

畢竟(ひっきょう)というのは

究極というか、

英語ではアルティメット

ということです。

 

こういうことを踏まえて講義では、

 

「この経文を

世親は戒淨とこういう。

なぜ戒ということをいっているか

というと、

今読んだ内容がですね、

三業が清浄であると。それから

善、不善の今度は業道ですね。

業とか業道とかいうことが

語られとる、

それで戒といったんでしょう。

 

ま、こんなことがね、

第七遠行地というものの果として、

あまりに平凡じゃないかと。

今更善悪というようなこと

いっているのは

どういうことかと。

身口意の三業というようなことは

いかにも平凡なことのように

見えるけど、

経文をよく注意してもらうと、

 

三業は三業に違いないけど、

深淨(じんじょう)と書いてある。

深淨なる三業。

それから成就する、

畢竟(ひっきょう)じて成就する。

深淨なる三業を畢竟じて成就する。

畢竟じて、

ついにはというような字です。」

 

ここらは、先生も読み解いて

いかれるところです。

言葉を繰り返しながら、

思索を深められるのでしょう。

なかなか話がすんなりと進まない。

こういうことが、

聞いている私たちも三昧の世界に

引き込まれていくところです。

 

「深淨」という言葉一つでも

深くて清らかな、というような

簡単な意味では終わらせないで

繰り返しながら考えていかれます。

 

 

 

 

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物質の中に意味を見出す、それが宗教経験

2024-09-12 18:49:00 | 十地経

水は命を支える大切なもの

それで、水の中にも魂を感じ

水神様としてお祀りし、

山には山の神、川にも川の神、

そういうように物もただの物

として見ずにそこに精神を感じる

そういうことがあるようです。

 

サッカーでもグランドに入る前に

一礼してはいる、

西洋の選手は十字を切って

天を見上げて祈ってから

入っている。

勝つように神さまに祈っている

のか分かりませんが、

東洋の考え方では

グランドを自分を磨く道場と

見るのでしょう。

デパートでも職員の人が

職場に入る時、一礼して入られる

たぶん無意識にされている

のでしょうが、

思うに、職場は戦場であり

また神聖な場所、自分を磨く、

そういう意味が根底にはあると

思うのです。

 

この講義とは意味は

違っているかもしれませんが、

 

「この仏教というものは、

自分というものを超えたような

法というものをですね、

自分の内面に持っている

ということですね、外でなしに。

 

そういう思想が自性唯心なんです。

自性唯心ということが実は

純粋な仏教の教えなんじゃないかと

思いますね。

 

我々が一つの、親鸞の場合、

我々が念仏を通してそこに、

我々の根元の声に触れる

わけです。

魂に触れるわけだ、念仏を通して。

念仏の本モトに触れるわけです。

念仏の本になっているものが

実は我々の根拠なんです。

 

ただ、念仏そのものといったら

物質なんです。

発音とかね。

もっと言うなら文字とかね。

 

真言宗でもそうなんでしょう。

『声字実相義』ショウジジッソウギ

といって、声と字とね、実相と。

『声字実相義』て、弘法大師に

ありましょう。

やっぱり声とか字とかは物質

ですね。

実相は物質じゃない。

この物質というものに

意味があるわけじゃないんです。

 

その物質の中に、

実相というものを見出してくる。

物質に、物質を超えた実相

というものを結合する概念を

自覚というんです。

経験といってもいいかも知れん

ですね。

 

その物質の中に

意味を見出してくるんです。

それが宗教経験というもの

なんです。

物質というものが、

そこに直結さしてくるんです。

物質と実相というものを

直結させるような経験が

宗教経験というものなんです。

 

そういうものに

我々が何か一つのですね、

経験をするんだ。

そこに自己を見出すというか、

一つの経験というものを

もってくるととですね、

ああ、

あの言葉が語られとったのは

これであったかと。

言葉を、初めて言葉を、

その言葉を初めて、

その言葉のいおうとしとった

ことを我々が確証することが

できるんです。

 

言葉が言葉になるんです。

 

それまでは言葉だけど

記号に過ぎんのです。

内面的な経験というものによって

初めて記号の言葉を表現にする

ことができるんです。

 

ああこの言葉の語ろうと

しとった意味はこれだったのか、

とこういっとたときにそれ、

表現になる。

初めて自分の言葉になるんです。

 

我々に過去から伝えられた

トラディションとしてあった

言葉がですね、

概念がですね、初めて自己表現を

もってくる。

これいっとったんかと

こう気がつかなきゃですね。

それは概念でしょう。」

 

難しいようですが、

何か初めは点としてあった言葉が

繰り返し読んだり書いたり

していると、次第に

じゅじゅつなぎの様につながって

何か自分の言葉になっていく

そういうことがあるようです。

 

 

 

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波羅提木叉(はらだいもくしゃ)

2024-09-10 21:03:29 | 十地経

波羅提木叉、プラティモークシャ

律のことですけど、

あえて訳さず音写した言葉です。

お経の中ではこの言葉で

よく出てきます。

仏教には戒律ということが

ありますが、熟語として使う場合

と戒と律というように分けて

使う場合とがあります。

 

簡単には、

戒というのは自分で自分を

いましめていくもので、

律というのは

教団とか僧伽ソウギャの中での

決まりです。

大きく違うのは

律には犯したら罰がある

ということです。

「随犯随制」ズイハンズイセイ

といって、

お釈迦さまの時代最初は簡単な

ものだったのでしょうが、

弟子たちが犯すたびに

お釈迦さまが定められていった

ということがあります。

 

三蔵法師の「三蔵」ということは

経・律・論といって

お釈迦さまの説かれた教えが経蔵

で、教団として守っていくべき

決まりが律蔵、

経を解釈したものが論蔵という

ことです。

三蔵法師はこの三蔵をおさめた人

ということですが、

三蔵法師といえば玄奘を

指すようになりました。

 

経と論があればそれいいような

気もしますが、

律ということがとても重要

なのです。

鑑真はこの律を伝えるために

何度も渡航を失敗しながら

艱難辛苦の末やっと日本へ到着し

その時には鑑真の眼は見えなく

なっていました。

それで、唐招提寺において

日本に戒を伝えたのです。

 

今では、法要というと

先祖供養とか願い事を叶える

祈願法要ということが盛んですが

古い時代は

いかにして戒を保つかという

ことが法要の中心でした。

奈良の東大寺のお水取りも

修二会シュニエという、悔過ケカの

法要です。

つまり、罪を懺悔するお勤め

なのです。

 

講義では

「釈尊がその法を残したという

『涅槃経』の場合はですね、

プラティモークシャ波羅提木叉と

いって律のことなんです、律ね。

だから今日の律法ですね。

あるいは法律といってもいい

かも知れんね。

律という一つの法なんです。

 

律の中に定も慧も含んでいる。

これは戒といってもいいですね。

戒律。戒といっても、

戒だけ述べているわけじゃない。

戒の中に包んで止観です、

止観が与えてあるのでしょう。

戒の中に定も慧も包んである。

 

だから戒をやめてもう、

手っ取りばやく定と智慧とを

得るというような、戒はやめやと。

そういうわけにかんのです。

戒をくぐって定に触れ、

定によって慧というものを

明かにしていくんです。

 

戒定慧というものは、

横に並んでいるものじゃない。

縦に連続しているものです。

何でも縦に連続しなきゃ、

行ということはいえんのです。

 

だからそこに、波羅提木叉、

律のことを、

それは自分が今死ぬのは色身、

色身ですね。肉体。

仏陀の肉体は今入滅する。

が、しかし、

残した波羅提木叉は法でしょう。

これは法身です。

 

仏の残した法が実は、

それが法としての仏なんだと。

法身です。

色身は入滅してもですね、

汝等が法を行ずるならば、

法身は永遠不滅なんだと。

汝等が法を行ずる時、

法身は生きとるんだと。」

 

お釈迦さまの最後の言葉も

戒律をよく守りそれを行ずる

ならばそれが仏だと、

いうことです。

戒律・波羅提木叉それが

法身なんだということです。

 

 

 

 

 

 

 

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三浦先生と安田先生の出会い

2024-09-09 20:37:23 | 十地経

三浦先生が創設された幼稚園

「西京極幼稚園」では毎月

『たんぽぽ』という新聞が

発刊されています。

そこには三浦先生の言葉が

紹介されています。

洛南高校の生徒に毎月話された

講話なのです。

 

『人生は苦なり』という題で、

本日は、

洛南高等学校を建て直そうと

決心したことの

お話をさせて頂きます。

私はあるご縁により、

よき師にお逢いできて仏教精神

というものに触れさせて

いただいたように思っております。

小さい時から大変我の強い人間で

これと思ったら

思いを通さなければ

諦めぬ癖がありますが、

師のお話を聞き、

この話には嘘がない、

この人のおっしゃるとおりに

すなおに実践してみようと

思ったわけです。

 

それがちょうど昭和37年の3月

のことでした。

しかし、その年の11月には突然

あることで教育に疑問を抱き、

壁に突き当たってしまいました。

 

「私はよその人の子どもを育てて

何になるのか」

「何の生きがいがあるのか」

と思いついたら寝込んでしまい、

何日もご飯を食べずに過ごした

ことがあります。

しかしこの時、師から

「自分の一生はかけがえのない

ものではないか。

三浦は広い世界でただ一人だけだ

このかけがえのない自分を

空しく過ごしてはいけない」

とはげまされて、

途中でやめてなるものかと

思い直して立ち上がったわけで

ございます。

 

たとえ誰がなんといいましょうとも

責任者は絶対に弱音を吐いてはいけない。

自分のような者でも頼ってくれる

人がいる間は弱音を吐いたら

おしまいだ

ということはわかっています。

しかし

本当に人間は弱いものですから

泣き言もいいます、愚痴も出ます。

 

自分が壁にぶち当たった時、

人に過度の期待をかけるものではない、

世話をして自分の思い通りにさせ

ようとする心が背かれるのだ、

ということを

つくづく思い知らされたわけで

ございます。

 

釈尊が6年間の苦行の内容は

「世間は苦なり」でございました。

人生は楽から出発しているのでは

ありません。

世間は苦以外にはない。

苦を背負うよりほかに道はない

ように思います。

結局は、

いつ死んでもいいのだから

死ぬまでこの道を叫び続けようと

思い定めたわけでございます。

 

ただ、このように決心がついた

からといって、二度と迷わない

といわけにはまいりません。

 

ついこの間までは

東寺で師を囲んでの仏教の勉強会

がございまして、いろいろな問題は

その会で師のお話を聞けば、

なんという愚かなことに

迷っていたのだと、

気がついたものでしたが、

その師が突然に倒れられました。

その後、同志も一人去り、

二人去りというわけで

ちょうど仕事の方も難関に

ぶつかりかけてきましたし、

この時ほど

「教えを聞く場があればこそ

救われていた」のだと

思い知らされたことはありません

でした。

 

聞くことそのものが救いであって、

聞いてそれをどうしよということが

救いではなかったわけでございます。

 

中略…

 

最初の「十地経講義」は

ここにありますように

昭和37年3月です。

この当時は先生も泊りがけで

二日にわたっての講義でした。

この時が一番講義も熱が入り

喧々諤々、話も盛り上がり

その話が実践に移され

洛南高等学校の建設の礎に

なったのです。

この時は先生の声を残すという

考えはなく、

ただ聞いてその言葉をいかに

実践するかということに

力がそそがれたようです。

 

講義として本になったのは

先生が退院されてからの

昭和46年3月28日からです。

先生の言葉を残しておくべき

必要があると思ったからです。

 

三浦先生の言葉にあったように、

聞いてどうこうしようとする

のではなく、

聞くこと自体が救いであった。

ということです。

講義が途絶えた途端、

それこそいろいろな問題が起こり

苦難の時代が続いたのです。

 

話しは続きます、

 

けれども現実には、今の暮らし、

生活する場を守らなければなりません。

またこの国土を破壊してはなりません。

釈尊にしろ、弘法大師にしろ、

最後まで努力を放棄されなかった

欲生心の深い方であったと思います。

 

いやになったら

何時でもやめることのできる人は

しあわせです。

しかしそういう腰かけの意識では、

どんな小さな仕事でも成就する

とは思えません。

そこからは耐えるという力強さは

出てこないでしょう。

私どもは逃げ出したいという

思いが強い。

私も逃げたいのが本音です。

でも私は逃げることはできません。

また逃げてはいけないと思います。

 

後略します。

 

という

当時のことを思い出すような

話しですが、

安田先生と三浦先生の出会いは

昭和37年の3月ということです。

 

 

 

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