性戒・遮戒、
なかなか難しい言葉ですが、
よく見てみると人間の行動を
よく押さえた言葉です。
「性」という字も
仏教では(しょう)と読みます。
性質とか本性という意味や
存在のありようという意味で
使います。
簡単には、性戒・遮戒は
性戒ーそれ自体が悪となるような
行いです。
例えば、殺生・偸盗・邪淫・妄語
などです。
これは戒律と定めなくても
人間としてやっていはいけない
ということです。
それに対して、
遮戒は、状況に応じて釈尊が
定めた戒です。
例えば、飲酒(おんじゅ)
不飲酒戒というのがあります。
まあ、酒は百薬の長ということも
ありますが、
やはり、修行となるとお酒は
飲まない方がいいということで、
釈尊が定めた戒ということです。
そういうことを踏まえて、
講義では、
「性戒、これは大体戒のことが
述べてあるのは、十地では
第二地なんです。
十年も前に話したことですけどね
第二地にこの戒のことが
出ているんですがね、
そこが本場なんです。
だから今更何だ、
というような感じもするんですが、
…… 。
性というのは、
具わっているという意味です、
教えなくても。
別に教えて許すんじゃない。
自分で … つまり、
何というか、
フランス語でボンサンス(bon sens)良識と翻訳される。
良識ね。
我思う故に我あり、
という場合ですね、デカルトの。
コギトエルゴスム
(cogito ergo sum)、
あのコギトは何かというと、
つまりボンサンスです、良識。
つまり善悪を判断する能力、
理性ということです。
人間は、その、
デカルトはこういってます。
理性というのは、
これは平均化されて人間に与え
られているという。
人間に誰でも平等に廻向されとる
という。
性格とか、修行とかに関係ない
ものだ。
賢いとか愚かだとか、
勇気あるとか、
そういうことはみんなこれ性格に
よるんですけど、
しかし今いったように良識という
ものは
これはそういうものじゃないと。
普遍的に人間に具わっている
ものだと。
性として具わっているもの、
こういうものは、
デカルトの場合なんかは、
良識というんです。
良識、理性という意味なんです。
ドイツ語ではフェアシュタント
(Verstand)という意味でしょう。
この健康なる常識ですね。健康な。
(menschliche Verstand)ですか。
だから良識というものは、
低い意味では常識と同じことなんです。
高い意味では理性なんです。
で、我々の常という字が
そういう字でしょう。
常といえば日常的という意味だ。
だけど、平常心是道というが、
そういうことでしょう。
だから低い意味から日常性という
意味で、コモンセンスという
んですけど、
高い意味から理性で、道ですね。
両方持ってますね、日本語でも。
教えんでも、自然に誰でも分かる
つまり良識というのは
判断能力なんです。
善悪ということは、善悪の判断は
良心が判断するでしょう、
別に人が教えんでも。
しかしながら、
魚食っちゃいかんとか、
そいうことは教えられて初めて
意味のあることです。
髪伸ばしちゃいかんとか。
これは別に本来決まっている
ものじゃない。
むしろ後天的なものです。
だから
随犯随制(ずいぼんずいせい)
といって、
犯さんのにつくるものじゃない。
犯した結果つくっていく。
犯した結果、制限していくと。」
こういうような話が続きます。
遮戒というのは
このように犯したら順次つくる
という、そういう戒という
ことのようです。
ですから、以前のことですが
東南アジアのお坊さんは
読経の途中でもタバコを吸う、
その当時タバコがなかったから
そういう決まりがなかった
というこのようです。
面白いところですが、
人間の行動を見つめた結果
戒ということを二つの見方で
押さえたのでしょう。