その8.
自分が何を思っていたのか、はっきりと理解したときに、ドーリーはバスを降りるべきだった。入り口で引き返すこともできた。実際、重い足取りで車寄せを歩いてきたのに、ゲートのところで引き返す女たちも数人いたのだから。道路を渡って市内に戻るバスを待てばいい。きっとあの人たちはそうしているのだ。面会のために来てはみたけれど、やめようと思った人たち。きっと人間はいつだってそういうことをしているのだもの。
そうはいっても、そのまま行ったことがよかったのかもしれなかった。ひどく奇妙で、憔悴した彼に会ったことが。どう考えても、わざわざ非難するまでもない人間じゃないか。いや、人間とはいえない。夢のなかの登場人物のようなものだ。
ドーリーはよく夢を見た。ひとつの夢では、子供たちを見つけたあと、家から飛びだしたところ、ロイドがなつかしい、気楽な調子で笑い出す。するとサーシャも背後で笑っている声が聞こえて、初めてドーリーにも、なんとすばらしいことに、みんなでいたずらをしかけていたことがわかるのだ。
「あの人に会ったら、気分が良くなるか、それとも悪くなるかって、おっしゃいましたよね? 前の面談で、質問なさいましたよね?」
「ええ。しました」とミセス・サンズは答えた。
「一応、考えてみたんです」
「そうなの」
「きっとそのせいでわたしの気分は悪くなってると思うんです。だからもう行ってないんです」
ミセス・サンズがほんとうは何を考えているか、なかなかわからないのだが、うなずいているところを見れば、悪い気はしていないか、同意しているかではあるのだろう。
だからドーリーがもういちど面会に行こうと決めたときには、そのことは口にしない方が良いように思われた。なんであれ、起こったことを話さずにいるのは――たいていのときは、何も起こりはしないのだが――たやすくはなかったので、ドーリーは電話でミセス・サンズとの面談をキャンセルした。休暇を利用して出かけることにする、と言ったのだ。夏に入っていたから、休暇を取ってもおかしくはなかった。友だちと一緒です、とドーリーは言った。
「ジャケットが先週とはちがうな」
「先週じゃない」
「そうだったか?」
「三週間前よ。いまはもう暑くなってる。こっちの方が薄手なんだけど、ほんとはもういらないの。ジャケットなんていらないぐらい」
彼は道中のことを聞いた。マイルドメイからだと、どのバスに乗らなければならないのか。
ドーリーは、もうそこには住んでない、と言った。自分がいまどこに住んでいるかを教え、三台のバスを乗り継いでくることを話した。
「それじゃちょっとした旅行だな。大きな街に住む方が好きなのか?」
「その方が仕事を見つけやすいもの」
「そうか、働いているんだな」
ドーリーは前に来たときにも、自分が住んでいるところやバスの話、どこで働いているかを話していた。
「モーテルの部屋を掃除してるの」と言った。「前にも言ったけど」
「ああ、そうだったな。忘れてたよ。すまん。学校に戻ろうとは思わないのか? 夜間学校は?」
考えてみたことはあるけど、そのために本気で何かしようとは思ってない、と言った。いまやってる仕事はそんなに悪いものじゃないから、と。
そこから先はふたりとも、何も話題を見つけられなくなってしまったらしい。
ロイドはため息をついた。「悪いな。ごめんよ。人と会話するのに慣れてないんだ」
「だったらいつもは何をしてるの?」
「本はしょっちゅう読んでる。瞑想もな。思いつきで」
「そうなの」
「ここに来てくれてありがたいと思ってる。おれにとっちゃ大きな意味があることだ。だが、これを続けなきゃいけないとは思わないでくれ。おまえが来たくなったときだけで十分なんだ。来たくなったときだけでな。何かあったとか、そんな気分になったりしたら――つまり、おれが言いたいのは、おまえが来てもいい、と思ってくれたっていうだけで、たった一回でも来てくれたってだけで、おれには法外な贈り物なんだよ。おれが言いたいこと、わかってくれるか?」
ドーリーは、ええ、わかると思う、と答えた。
ロイドは、おまえの人生に干渉しようとは思ってないんだ、と言った。
「あなた、そんなじゃない」
「おまえが言おうとしていたのは、ほんとにそういうことか? 何か別のことを言おうとしてたんじゃないのか?」
ほんとうは彼女が言いかけたのは、どういう人生よ? ということだった。
ううん、そんなことない。ほかに言いたいことなんてないわ、と言った。
「それならいいんだ」
三週間後、ドーリーに電話がかかってきた。事務所の誰かを通さず、ミセス・サンズ本人が直接電話をくれたのだ。
「まあ、ドーリー。まだ出かけたままかもしれないと思っていたわ。戻ってたのね」
「ええ」とドーリーは言いながら、どこに行っていたことにしようかと考えていた。
「つぎの面談の日を決めてなかったでしょう?」
「はい、そうですね」
「大丈夫よ。ただ、確かめておきたかっただけだから。調子は悪くない?」
「元気です」
「それは良かった。もしわたしの手が必要だったら、ここに来ればいいってこと、わかってるわね。ちょっと話をしたくなったようなときに」
「わかってます」
「それじゃ、元気でね」
ミセス・サンズはロイドのことはふれなかった。まだ会いに行くことを続けているのか、とも聞かなかった。もちろんドーリーは、もう面会には行かない、とは言っておいた。だが、ミセス・サンズはふだんから、ものごとのなりゆきを感知するのがとてもうまい。それ以上聞いても、もう何も引き出せないとわかったときに、引き下がるのもとてもうまいのだ。もし聞かれていたら、自分はなんと答えただろう。ドーリーにはよくわからなかった。前に言ったとおり、嘘を重ねただろうか。それともほんとうのことを話していただろうか。実際にはロイドから来ても来なくてもかまわない、といった意味のことを言われたそのつぎの日曜日、ドーリーはまた面会に向かったのだった。
ロイドは風邪をひいていた。いったいどうやって風邪なんか拾ったんだか、わけがわからない、とも言った。
ひょっとしたら前におまえと会ったときにはもう風邪にかかっていて、だからあんなに陰鬱だったのかな、と。
陰鬱だなんて。近ごろではそんな言葉づかいをする人と、ほとんど交わることもなかったので、ドーリーの耳にその言葉はひどく奇異に響いた。だが、彼はいつだってそんな言葉をつかう癖があったし、当然ながら、その当時はそんな言葉を聞いても、とりたてて奇妙に思うこともなかった。
「おまえにはおれが別人になったように見えるか?」とロイドは聞いた。
「そうね。見た感じは変わった」ドーリーは注意深く答えた。「わたしはどう?」
「きれいだよ」彼の口調は悲しげだった。
ドーリーの内部で、何かがほぐれた。けれどもドーリーはそれを拒んだ。
「何かが変わったような気がするのか?」と彼が聞いた。「ちがう人間になったような気分か?」
わからない、とドーリーは答えた。「あなたは?」
「完全にな」と彼は言った。
(この項つづく)
自分が何を思っていたのか、はっきりと理解したときに、ドーリーはバスを降りるべきだった。入り口で引き返すこともできた。実際、重い足取りで車寄せを歩いてきたのに、ゲートのところで引き返す女たちも数人いたのだから。道路を渡って市内に戻るバスを待てばいい。きっとあの人たちはそうしているのだ。面会のために来てはみたけれど、やめようと思った人たち。きっと人間はいつだってそういうことをしているのだもの。
そうはいっても、そのまま行ったことがよかったのかもしれなかった。ひどく奇妙で、憔悴した彼に会ったことが。どう考えても、わざわざ非難するまでもない人間じゃないか。いや、人間とはいえない。夢のなかの登場人物のようなものだ。
ドーリーはよく夢を見た。ひとつの夢では、子供たちを見つけたあと、家から飛びだしたところ、ロイドがなつかしい、気楽な調子で笑い出す。するとサーシャも背後で笑っている声が聞こえて、初めてドーリーにも、なんとすばらしいことに、みんなでいたずらをしかけていたことがわかるのだ。
「あの人に会ったら、気分が良くなるか、それとも悪くなるかって、おっしゃいましたよね? 前の面談で、質問なさいましたよね?」
「ええ。しました」とミセス・サンズは答えた。
「一応、考えてみたんです」
「そうなの」
「きっとそのせいでわたしの気分は悪くなってると思うんです。だからもう行ってないんです」
ミセス・サンズがほんとうは何を考えているか、なかなかわからないのだが、うなずいているところを見れば、悪い気はしていないか、同意しているかではあるのだろう。
だからドーリーがもういちど面会に行こうと決めたときには、そのことは口にしない方が良いように思われた。なんであれ、起こったことを話さずにいるのは――たいていのときは、何も起こりはしないのだが――たやすくはなかったので、ドーリーは電話でミセス・サンズとの面談をキャンセルした。休暇を利用して出かけることにする、と言ったのだ。夏に入っていたから、休暇を取ってもおかしくはなかった。友だちと一緒です、とドーリーは言った。
「ジャケットが先週とはちがうな」
「先週じゃない」
「そうだったか?」
「三週間前よ。いまはもう暑くなってる。こっちの方が薄手なんだけど、ほんとはもういらないの。ジャケットなんていらないぐらい」
彼は道中のことを聞いた。マイルドメイからだと、どのバスに乗らなければならないのか。
ドーリーは、もうそこには住んでない、と言った。自分がいまどこに住んでいるかを教え、三台のバスを乗り継いでくることを話した。
「それじゃちょっとした旅行だな。大きな街に住む方が好きなのか?」
「その方が仕事を見つけやすいもの」
「そうか、働いているんだな」
ドーリーは前に来たときにも、自分が住んでいるところやバスの話、どこで働いているかを話していた。
「モーテルの部屋を掃除してるの」と言った。「前にも言ったけど」
「ああ、そうだったな。忘れてたよ。すまん。学校に戻ろうとは思わないのか? 夜間学校は?」
考えてみたことはあるけど、そのために本気で何かしようとは思ってない、と言った。いまやってる仕事はそんなに悪いものじゃないから、と。
そこから先はふたりとも、何も話題を見つけられなくなってしまったらしい。
ロイドはため息をついた。「悪いな。ごめんよ。人と会話するのに慣れてないんだ」
「だったらいつもは何をしてるの?」
「本はしょっちゅう読んでる。瞑想もな。思いつきで」
「そうなの」
「ここに来てくれてありがたいと思ってる。おれにとっちゃ大きな意味があることだ。だが、これを続けなきゃいけないとは思わないでくれ。おまえが来たくなったときだけで十分なんだ。来たくなったときだけでな。何かあったとか、そんな気分になったりしたら――つまり、おれが言いたいのは、おまえが来てもいい、と思ってくれたっていうだけで、たった一回でも来てくれたってだけで、おれには法外な贈り物なんだよ。おれが言いたいこと、わかってくれるか?」
ドーリーは、ええ、わかると思う、と答えた。
ロイドは、おまえの人生に干渉しようとは思ってないんだ、と言った。
「あなた、そんなじゃない」
「おまえが言おうとしていたのは、ほんとにそういうことか? 何か別のことを言おうとしてたんじゃないのか?」
ほんとうは彼女が言いかけたのは、どういう人生よ? ということだった。
ううん、そんなことない。ほかに言いたいことなんてないわ、と言った。
「それならいいんだ」
三週間後、ドーリーに電話がかかってきた。事務所の誰かを通さず、ミセス・サンズ本人が直接電話をくれたのだ。
「まあ、ドーリー。まだ出かけたままかもしれないと思っていたわ。戻ってたのね」
「ええ」とドーリーは言いながら、どこに行っていたことにしようかと考えていた。
「つぎの面談の日を決めてなかったでしょう?」
「はい、そうですね」
「大丈夫よ。ただ、確かめておきたかっただけだから。調子は悪くない?」
「元気です」
「それは良かった。もしわたしの手が必要だったら、ここに来ればいいってこと、わかってるわね。ちょっと話をしたくなったようなときに」
「わかってます」
「それじゃ、元気でね」
ミセス・サンズはロイドのことはふれなかった。まだ会いに行くことを続けているのか、とも聞かなかった。もちろんドーリーは、もう面会には行かない、とは言っておいた。だが、ミセス・サンズはふだんから、ものごとのなりゆきを感知するのがとてもうまい。それ以上聞いても、もう何も引き出せないとわかったときに、引き下がるのもとてもうまいのだ。もし聞かれていたら、自分はなんと答えただろう。ドーリーにはよくわからなかった。前に言ったとおり、嘘を重ねただろうか。それともほんとうのことを話していただろうか。実際にはロイドから来ても来なくてもかまわない、といった意味のことを言われたそのつぎの日曜日、ドーリーはまた面会に向かったのだった。
ロイドは風邪をひいていた。いったいどうやって風邪なんか拾ったんだか、わけがわからない、とも言った。
ひょっとしたら前におまえと会ったときにはもう風邪にかかっていて、だからあんなに陰鬱だったのかな、と。
陰鬱だなんて。近ごろではそんな言葉づかいをする人と、ほとんど交わることもなかったので、ドーリーの耳にその言葉はひどく奇異に響いた。だが、彼はいつだってそんな言葉をつかう癖があったし、当然ながら、その当時はそんな言葉を聞いても、とりたてて奇妙に思うこともなかった。
「おまえにはおれが別人になったように見えるか?」とロイドは聞いた。
「そうね。見た感じは変わった」ドーリーは注意深く答えた。「わたしはどう?」
「きれいだよ」彼の口調は悲しげだった。
ドーリーの内部で、何かがほぐれた。けれどもドーリーはそれを拒んだ。
「何かが変わったような気がするのか?」と彼が聞いた。「ちがう人間になったような気分か?」
わからない、とドーリーは答えた。「あなたは?」
「完全にな」と彼は言った。
(この項つづく)