陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アリス・マンロー「局面」 その9.

2012-12-30 00:17:41 | 翻訳
その8.


 その週の終わりごろ、大きな封筒が職場にいるドーリーの下に届いた。宛先がモーテル気付けになていたのだ。中には紙が数枚入っていて、両面に渡って書きつけてある。最初、彼からだとは思わなかった――刑務所に入っている人間は、手紙を書くことなど許可されていないだろうとばくぜんと思っていたのだ。もちろん彼が収監されているのは、ちがう種類の施設だったが。彼は犯罪者ではない。触法精神障害者にすぎないのだから。

 書面には日付けも、書き出しの「親愛なるドーリー」という言葉さえなかった。いきなり彼女に向かって語りかける調子で、ちょうど宗教の勧誘ならこんなふうに始まるのだろうとドーリーには思えるような調子で始まっていた。

 人はみな、目を皿のようにして解決策を探し回っている。そのために心は傷を負っている(探し回るせいだ)。あまりにも多くのことどもに心を乱され、痛めつけられているのだ。人びとの顔は痣ができ、苦痛にゆがんでいる。悩みにうちひしがれているのだ。人びとはあちらへこちらへかけずり回る。買い物に行かなければ、コインランドリーに行かなければ、髪を切らなければならないし、生活費を稼ぐか生活保護給与を受け取るかをしなければならない。貧しい者たちはそんなありさまだし、金持ちは金持ちで、自分の手持ちを最大限有効に使う方法を探すのに必死だ。それもまた仕事なのだ。彼らは湯と冷水の出る蛇口つきの最高の家を建てなければならない。それからアウディや魔法の歯ブラシや最高級の機械製品、それから大量殺人者から身を守るための盗難予防自動警報機。金持ちも、貧乏人も、となり、いや、どちらも魂の平安など望むべくもない。「どちらも(neither)」と書こうとして「となり(neighbor)」と書いてしまったのだが、どうしてそんなことをしてしまったのだろう。ここには隣人などいないのに。少なくとも私がいまいるところではみんな、多くの混乱は超えたところにいる。自分が何を所有しているか、これから先、何を所有することになるかわかっているし、買い物をする必要も、自分の食べるものを料理する必要さえもない。所有するかどうか、選ぶこともない。選択は排除されているのだから。

 ここにいる私たちみんなが手に入れることができるのは、自分の心の中から取りだしたものだ。

 最初のうち、頭全体が混純(沌?)の極にあった。嵐が絶え間なく吹き荒れ、それを取り除けるのではないかと願って頭をセメントに打ちつけたりもした。懊悩と生命に終止符を打つために。そのせいで懲罰を受けた。ホースで水をかけられ、縛られ、血管に薬剤を射たれた。そのことに対して不平を言っているつもりはないが。なにしろ不平を言っても何の利益にもならないことを学んだからね。いわゆる現実の世界となんらちがいはないのだ。現実の世界では、苦痛に満ちた思いを消し去るために、人びとは酒を飲み、大騒ぎし、犯罪に関わったりする。そうして逮捕されたり、投獄されたりすることもあるのだが、それで向こう側に抜け出ることができるほど、長くそこにいるわけではない。だが、その向こう側とは一体、何なのだろう。完全な狂気か、それとも静謐か。          

 静謐。私は静謐な世界にたどりついたし、しかもいまだ正気でいる。おそらくあなたは、これから私がイエスや仏陀について書こうとしていると思っているだろう。まるで回心の境地に到達したかのように。そうではないのだ。私は目を閉じてはいないし、ある種の特別で崇高な力によって高められたわけでもない。そうしたものに意味があるのかどうか、私にはわからない。私が言いたいのは、「自分を知る」ということだ。

「汝自身を知れ」というのはどこかの戒律か何かで、たぶん聖書なんだろうが、そうなると、少なくともこの点に関しては、私はキリスト教の教えに従っていると言えるのかもしれない。もうひとつ、「汝自身に正直であれ」、これも聖書にあるのなら、私はこの教えも努力しようとしている。自分のうちのどの部分か、良い面か悪い面かということにはふれていないので、これは道徳律へと導くためのものではない。「汝自身を知れ」というのも道徳律とは関係がないね。私たちの理解する道徳律というのは、「行為」のうちに現れるものだから。だが「行為」などというものに、私はまったく関心がないのだ。なにしろ私はまちがいなく、“どう行為すべきかの判断力に信頼がおけない人間”と判断されたがために、ここにいるのだから。

「汝自身を知れ」の「知る」という点に戻ろう。私は完全に冷静だし、自分自身を知っている。自分になしうる最悪のことも知っているし、実際にそれを自分がやったことも知っている。私は世間に裁かれ、「怪物」とされたが、そのことに文句をいうつもりもない。ついでに言うなら、たとえ爆弾を雨のように降らせたり、都市を焼き払ったり、何百、何千という人びとを飢えさせたり殺したり殺すような手合いは、たいてい「怪物」とはみなされないで、勲章を授けられたり表彰されたりする。少人数に対してなした行為だけが、おぞましいだの、邪悪だのとそしられるのだ。私は言い訳をしているのではなく、ただ見解を述べているだけだが。

 私が自分自身を知っている、というのは、私自身の邪悪さを知っているということだ。それが私の平安の秘密なのだ。私は自分の最悪を知っている。ほかの人間の最悪より、まだ悪いかもしれないが、実際のところ私はそのことについて考えたり心配したりする必要がない。言い訳をしているつもりはないんだ。私は平穏な気持ちでいる。私は怪物だろうか? 世間はそうだと言うし、そう呼ばれれば、私は否定もしない。けれども私にとって世間など、現実に意味などないのだ。私は私自身であって、ほかの自己の出番はない。あのときは頭がおかしくなっていた、ということもできるが、そのことに何の意味がある?狂気。正気。私は私だ。あのとき私の「自我」を変えることはできなかったし、いまなお変えることはできない。

 ドーリー、もしここまで読んでくれているのなら、私には話しておきたいことがある。だが、ここに書くことはできないのだ。もし、ここにまた戻って来てもいい、と思ってくれるなら、話すことができるだろう。冷たいと思わないでもらいたい。やろうと思えばできるのに、それを変えようとしない、というわけではないのだ。

 これを君の仕事先に送るつもりだ。職場と街の名前は覚えているところをみると、私の頭もいくつかの部分では、まともに働いているらしい。


 ドーリーは、つぎの面会のときには、この手紙の話をするのだろうと考えて、何度も読み返してはみたけれど、何も言うべきことが浮かんでこなかった。ところがつぎに面会に行ったとき、ロイドは手紙など書いたこともないかのようなそぶりをしている。ドーリーは話題を探して、その週モーテルに泊まった、かつては有名だったフォークシンガーのことを話した。驚いたことに、ロイドはその歌手の経歴については、ドーリーよりも詳しかったのだ。ということは、彼のところにはテレビがあるか、少なくとも見ることはできて、いくつかの番組と、もちろんニュースも定期的に見ているのだろう。つまり、話ならほかにいくらでもあるということだ。だが、ドーリーはもうがまんできなかった。

「顔を合わせてからじゃないと話せないことって何?」

 そっちからそんなことは言わないでほしかった、とロイドは言った。そのことについて、話す準備ができているかどうか、わからないんだ、と。

 だからドーリーは、自分には手に負えないようなこと、何か、耐えられないようなこと、たとえば、まだおまえのことを愛している、といったふうなことではないかと怖れた。「愛」という言葉を聞くのはたまらない。

「わかった」とドーリーは言った。「きっとその話はしない方がいいのね」

それから続けて言った。「やっぱり、話した方がいい。もしあたしがここを出てから車に轢かれたら、あたしには金輪際、わかりっこないし、あなただってもう二度とあたしに話すチャンスなんてなくなってしまうから」

「確かにそうだ」

「それで、何なの?」

「つぎだ。つぎのときに。ときどき、おれはこれ以上話せなくなってしまう。話したくても、出てこなくなる。言葉が」


(この項つづく)