陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

アリス・マンロー 「局面」その4.

2012-12-04 23:07:42 | 翻訳
その4.


 サーシャ(※ここではアレクサンダーの愛称)が一歳六ヶ月のとき、バーバラ・アンが生まれ、バーバラ・アンが二歳のとき、ディミトリが生まれた。サーシャという名前はふたりでつけたが、そのあとは、男の子が生まれたら彼が名づけ、女の子が生まれたら彼女の方が名づけるという約束をした。

 ディミトリはひとりだけ、コリック(※3,4ヶ月の赤ちゃんが夕方になると激しく泣くこと)を起こした。ドーリーは母乳が足りていないのではないか、栄養がないのではないか、と考えた。それとも栄養がありすぎる? とにかく、何かがいけないのだ。ロイドはラ・レーチェ・リーグ(※母乳育児支援団体)に頼んで、彼女に話に来てもらった。その女性は、どんなことをしても補助ほ乳瓶は与えちゃだめよ、と言った。それがきっかけになるかもしれないんだし、そうなったらすぐ、赤ちゃんはおっぱいをまったく受けつけなくなるから。あたかもそれが重大な悲劇であるかのように、そう言ったのだった。

 ドーリーがすでに補助ミルクを与えていようとは、夢にも思わなかったらしい。事実、赤ん坊はそっちの方が好きなことは確かなようで、どんどんおっぱいをうるさがるようになった。三ヶ月になるころには、まったくほ乳瓶だけになってしまい、そうなるともはやロイドに隠しておけない。なので、彼には母乳がでなくなったから、粉ミルクをあげることにする、と伝えた。かっとなったロイドが、意地になって彼女の乳房を交互にしぼったあげく、二、三滴の乳汁が、見るも哀れなようすでしたたり落ちた。彼は、おまえは嘘つきだ、とののしった。ふたりは激しく言い合った。おまえなんか、おふくろと同じあばずれじゃないか。

 ヒッピー女なんてみんな、売女さ。

 すぐにふたりは和解した。だが、ディミトリは機嫌の悪い赤ん坊で、風邪を引いたり、上の子供たちが飼っているウサギを怖がったり、お兄ちゃんやお姉ちゃんが支えなしで歩けるようになった年になってもまだ、椅子にしがみついていたりしたときにはかならず、母乳育児の失敗が持ち出された。


**

 ミセス・サンズのオフィスに、ドーリーが初めて行ったとき、そこにいたどこかの女性グループのひとりが、パンフレットをくれた。表紙は金の十字架で、金色と紫の字で「喪失の痛みに耐えられそうもないときは……」と書いてあった。表紙をめくると、淡い色調でイエスの絵が描かれてあって、細かい文字が印刷されていたが、ドリーはそれを読まなかった。

 デスクの正面の椅子に腰を下ろして、パンフレットをまだにぎりしめたまま、ドーリーはガタガタふるえだしていた。ミセス・サンズはそれを取り上げるためにドーリーの手をこじあけなければならなかった。

「誰がこんなものを渡したの?」ミセス・サンズは言った。

ドーリーは言った。「あの人」ドーリーは頭をしゃくって、閉ざされたドアの向こうを示した。

「あなたにはいらないわよね?」

「弱ってる人を見たら、手を出そうとする連中」ドーリーは言ったあとで、この言葉は母親が言っていたのに気がついた。女たちが病院に、これとそっくりのメッセージをもってやってきたときだ。「あいつら、人がひざまずいていさえすれば、万事オーケーだと思ってるんだ」

 ミセス・サンズはため息をついた。

「そうね」と彼女は言った。「確かにそんなに単純じゃないわ」

「その可能性すらない」ドーリーは言った。

「かもしれないわね」

 その当時はふたりとも、ロイドのことは決して口にしなかった。ドーリーは可能なかぎり断じて考えまいとし、そののち、自然のもたらしたひどい事故のようなもの、と思うようになった。

「たとえわたしがこんなものを信じたとしても……」と彼女はパンフレットの内容について言った。「それってただの……」

 彼女が言いたかったのは、こんなものを信じれるなら、都合はいいだろう、ロイドが地獄の火に炙られているところとか、そんなたぐいのことを考えることができるのだから、ということだったが、その先を続けることはできなかった。あまりにばかばかしい話のように思えたのである。もうひとつ、もうなれっこになってしまった、口のきけなくなる感覚、腹部をハンマーで殴られたようなあの感じが襲ってきたから。


(この項つづく)