このところ、あちこちで「他人は変えられない、だから自分が変わるのだ」といった物言いをよく耳にする。人間関係が煮詰まったときのアドバイスとしては、昨今の流行、といったら言い過ぎだろうか。
なんとなくもっともらしい言い分ではあるのだが、わたしには「まったくそのとおりだなあ」とは思いにくいところがある。
実は、わたしは昔、初めてこのことばを聞いて、確かにそうだなあ、と思った経験があるのだ。高校時代のことだ。
その先生の授業はおもしろい授業ではなく、教科書を通り一遍にさらうだけ、これといった特徴のない先生で、かといって積極的に嫌うほどのこともなく、この先生にまつわることで覚えているのはこれを聞いたことぐらいだ。それも、いったい何の脈絡で、この先生がこういう話を始めたのかも覚えていない。きっと授業時間ではなかったのだろう。ともかく、人との関係で、相手がいやだと思うようなことがあっても、相手を変えようとするのではなく、自分が変わっていくのだ、自分が変わることで、相手との関係が変わる、そうすればずいぶんお互いやりやすくなっていく、という話だった。
高校生だったわたしは、その話を聞いて、ほんとうにそうだなあ、と思って、学校でこんな話を聞いた、と手紙に書いたり、いろんなところで受け売りしたりしたような気がする。
以来、人間関係が煮詰まって、相手の批判、というか悪口をくどくど言っているような人間を見るたびに、このときの先生のことばを思い出し、悪口をいう暇があれば、自分が変わっていけばいいのに、と思ったりした。たぶん、口に出すようなことはしなかったと思うのだが、もしかしたら偉そうにそんなことを言ったかもしれない。
だが、それからずいぶんの時を経て、さまざまな経験もし、実際にわたし自身がずいぶん変わりもして思うのは、「変わる」というのはそんなに都合良くいくものではない、ということだ。
相手との関係が煮詰まってくる。たとえば、相手のこういうところがイヤ、ああいうところがイヤ、そういうときに、イヤなところは直してほしいと思う。
だが、それは、わたしからすれば「ちょっと直してくれたらいいのに」という程度のことかもしれないが、相手からすれば、これまで相手が生きてきたさまざまな事情が総合的に絡まり合ってそういう行動に出ているわけだ。わたしから見れば「些細なこと」であっても、相手からすれば「来し方」を反映した、のっぴきならない必然の反映であるのかもしれない。
自分が指導する責任を負っている子供や生徒ならともかく、自分と対等の、一個の人格としてある相手に「こういうところを直してほしい」と言うことは、あまり好ましくないのではないか、というのが、「他人は変えられない、だから自分が変わるのだ」という発想の根本にある思想だろう。そうして、この発想自体は、やはりいまでもその通りだと思う。
問題は「だから自分が変わるのだ」ということなのである。
相手の行動をイヤだと思ってしまうのも、自分がこれまで生きてきたこと、経験したり考えたりしてきたことの反映なのだ。それを「変える」ということは、「相手との関係をうまくやっていく」という目的のもと、イヤだと思わないようにする、つまり、自分が我慢する、ということに短絡させてしまうことになるのではないか、と思ってしまうのである。
「変わる」というのは、そんな簡単なものなのだろうか。何か目的があって、その目的を達成するために、人間はほんとうに変わったりできるものなんだろうか。それは実は「変わる」ではなく、我慢とか、ほんとうはイヤだイヤだと思いながら、イヤではない、と思いこもうとしたり、自分に無理を強いているだけではないのだろうか。
相手との関係が煮詰まったら、結局は相手を一個の人格と認めた上で話し合って、相手を理解し、納得でき、受け入れられるポイントを共同作業で探っていくしかないのだと思う。そうして身の回りの小さな不条理は、そういうかたちでひとつずつ、そのたびごとに解決していくしかないように思う。
おそらく、そういうことと、自分が変わっていく、というのは、位相のちがう話なのだ。
実は、わたしたちはそんな固定的なものではない。実に些細なことで気分はころころ変わるし、くだらないことで一喜一憂するし、自分でも思いもかけないことを言ったり成したりする。そういった意味で、自分というのは変わり続けている、とも言える。
そういうこととはまた別に、わたしたちはあることを境に、思いがけないほど変わってしまうこともある。たとえばブラッドベリの作品には、そういう少年たちがずいぶん出てくるのだが、彼らは望んで変わるわけではない。ある出来事を経験するなか、これまでの自分では対処ができなくなってしまう。そんなとき、ぎりぎりのところまで考え抜き、苦しみながら行動する。そうして、否応なく変化を強いられ、新しい自分となって、対処していくのである。
それは、かつての自分がこうなったらいい、と思っていた延長上には決してないだろう。
思いがけない変化であり、もしかしたら望ましい変化ではないのかもしれない。けれど、それこそが「変わる」ということなのだと思う。
だから、そんなふうに簡単に「自分が変わ」れるものなのかなあ、と、高校時代と変わってしまったいまのわたしは思うのだ。
もちろんちっとも変わってないところもあるのだけれど、どこがどう変わっていくかなんて予測もできないから、おもしろいんじゃないんだろうか。
なんとなくもっともらしい言い分ではあるのだが、わたしには「まったくそのとおりだなあ」とは思いにくいところがある。
実は、わたしは昔、初めてこのことばを聞いて、確かにそうだなあ、と思った経験があるのだ。高校時代のことだ。
その先生の授業はおもしろい授業ではなく、教科書を通り一遍にさらうだけ、これといった特徴のない先生で、かといって積極的に嫌うほどのこともなく、この先生にまつわることで覚えているのはこれを聞いたことぐらいだ。それも、いったい何の脈絡で、この先生がこういう話を始めたのかも覚えていない。きっと授業時間ではなかったのだろう。ともかく、人との関係で、相手がいやだと思うようなことがあっても、相手を変えようとするのではなく、自分が変わっていくのだ、自分が変わることで、相手との関係が変わる、そうすればずいぶんお互いやりやすくなっていく、という話だった。
高校生だったわたしは、その話を聞いて、ほんとうにそうだなあ、と思って、学校でこんな話を聞いた、と手紙に書いたり、いろんなところで受け売りしたりしたような気がする。
以来、人間関係が煮詰まって、相手の批判、というか悪口をくどくど言っているような人間を見るたびに、このときの先生のことばを思い出し、悪口をいう暇があれば、自分が変わっていけばいいのに、と思ったりした。たぶん、口に出すようなことはしなかったと思うのだが、もしかしたら偉そうにそんなことを言ったかもしれない。
だが、それからずいぶんの時を経て、さまざまな経験もし、実際にわたし自身がずいぶん変わりもして思うのは、「変わる」というのはそんなに都合良くいくものではない、ということだ。
相手との関係が煮詰まってくる。たとえば、相手のこういうところがイヤ、ああいうところがイヤ、そういうときに、イヤなところは直してほしいと思う。
だが、それは、わたしからすれば「ちょっと直してくれたらいいのに」という程度のことかもしれないが、相手からすれば、これまで相手が生きてきたさまざまな事情が総合的に絡まり合ってそういう行動に出ているわけだ。わたしから見れば「些細なこと」であっても、相手からすれば「来し方」を反映した、のっぴきならない必然の反映であるのかもしれない。
自分が指導する責任を負っている子供や生徒ならともかく、自分と対等の、一個の人格としてある相手に「こういうところを直してほしい」と言うことは、あまり好ましくないのではないか、というのが、「他人は変えられない、だから自分が変わるのだ」という発想の根本にある思想だろう。そうして、この発想自体は、やはりいまでもその通りだと思う。
問題は「だから自分が変わるのだ」ということなのである。
相手の行動をイヤだと思ってしまうのも、自分がこれまで生きてきたこと、経験したり考えたりしてきたことの反映なのだ。それを「変える」ということは、「相手との関係をうまくやっていく」という目的のもと、イヤだと思わないようにする、つまり、自分が我慢する、ということに短絡させてしまうことになるのではないか、と思ってしまうのである。
「変わる」というのは、そんな簡単なものなのだろうか。何か目的があって、その目的を達成するために、人間はほんとうに変わったりできるものなんだろうか。それは実は「変わる」ではなく、我慢とか、ほんとうはイヤだイヤだと思いながら、イヤではない、と思いこもうとしたり、自分に無理を強いているだけではないのだろうか。
相手との関係が煮詰まったら、結局は相手を一個の人格と認めた上で話し合って、相手を理解し、納得でき、受け入れられるポイントを共同作業で探っていくしかないのだと思う。そうして身の回りの小さな不条理は、そういうかたちでひとつずつ、そのたびごとに解決していくしかないように思う。
おそらく、そういうことと、自分が変わっていく、というのは、位相のちがう話なのだ。
実は、わたしたちはそんな固定的なものではない。実に些細なことで気分はころころ変わるし、くだらないことで一喜一憂するし、自分でも思いもかけないことを言ったり成したりする。そういった意味で、自分というのは変わり続けている、とも言える。
そういうこととはまた別に、わたしたちはあることを境に、思いがけないほど変わってしまうこともある。たとえばブラッドベリの作品には、そういう少年たちがずいぶん出てくるのだが、彼らは望んで変わるわけではない。ある出来事を経験するなか、これまでの自分では対処ができなくなってしまう。そんなとき、ぎりぎりのところまで考え抜き、苦しみながら行動する。そうして、否応なく変化を強いられ、新しい自分となって、対処していくのである。
それは、かつての自分がこうなったらいい、と思っていた延長上には決してないだろう。
思いがけない変化であり、もしかしたら望ましい変化ではないのかもしれない。けれど、それこそが「変わる」ということなのだと思う。
だから、そんなふうに簡単に「自分が変わ」れるものなのかなあ、と、高校時代と変わってしまったいまのわたしは思うのだ。
もちろんちっとも変わってないところもあるのだけれど、どこがどう変わっていくかなんて予測もできないから、おもしろいんじゃないんだろうか。