陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

W.W. ジェイコブズ 『猿の手』その3.

2008-02-09 22:17:21 | 翻訳
その3.

 曹長は、中年の人間がぶしつけな若い者を見るような目つきでハーバートのことを見やった。「やりましたよ」静かにそう言ったときのしみの浮き出た顔は、血の気がなくなっていた。

「で、その三つの願い事はかないましたの?」ホワイト夫人が尋ねた。

「かないました」曹長が言うと、グラスが彼のがっしりした歯に当たって音を立てた。

「それで、だれかほかの方も願い事をなさったんですか」老夫人は重ねて聞いた。

「ええ、最初の男は三つの願い事をかなえたんです」というのがその答えだった。「一つ目と二つ目の願いが何だったかは知りませんが、三つ目は死だった。だからこの手がわたしのところにまわってきたのです」

 あまりに沈痛な口調だったために、一同は静まりかえった。

「ではモリス君、もう三つの願い事がかなったんだったら、もう君にはそれは必要ないだろう」とうとう老人が口を開いた。「では何のために君はそれを持っているのかね?」

 曹長は首を横に振った。「好奇心、というところでしょうか」おもむろにそう答えたのだった。「実際、売ろうと思ったこともあったんですが、結局はそうしない方がいいように思えたのです。これにはもう充分悩まされましたから。それに、買いたがるような人間はいやしないでしょうしね。たいていの人はおとぎ話ぐらいに思うだろうし、そうでない人にしたところで、まず最初に試してみて、金を出すのはそれからあとだと思うでしょうし」

「もし仮にもう一度三つ願いがかなうとしたら」老人は相手を鋭く見据えて聞いた。「やってみるつもりはあるかね?」

「どうでしょう。私には何とも言えません」

 モリスは猿の手を取って親指と人差し指でぶら下げたかと思うと、急に火のなかに放りこんだ。ホワイト氏は小さく驚きの声をあげると、かがみこんでひったくった。

「そのまま燃やした方がいいんです」ひどく真剣な声だった。

「モリス君、君がいらないんだったら私がもらっておこう」

「いけません」モリスはかたくなに言い張った。「私は火の中にくべたんです。それを取っていて、仮に何かが起こっても、わたしのせいではありませんからね。ここはひとつ分別を働かせて、火のなかに戻してください」

 ホワイト氏は首を横に振って、自分の手に入れたものをしげしげと眺めた。「どうやったらいいんだ?」

「右手で高く掲げて、声に出して願うのです」曹長は言った。「だが、そのあとどうなるかは知りませんよ」

「まるでアラビアン・ナイトみたいね」ホワイト夫人はそう言うと、夕食の準備に立ち上がった。「あなた、わたしに手を八本くださるように願掛けなさるおつもりじゃないんですか?」

 夫がその不思議な手をポケットから引き抜いたので、三人はどっと笑った。するとモリス曹長は顔に緊張の色をうかべて、ホワイト氏の腕をつかんだ。

「どうしても願掛けをしなければならないのでしたら」つっけんどんに言った。「せいぜい分別を働かせることです」

 ホワイト氏はポケットにそれを戻すと、椅子を移動させて客をテーブルに着かせた。夕食のあいだは不思議な手のことはなかば忘れられた格好になり、家族三人は曹長のインドでの冒険談にふたたび夢中になって聞き入ったのだった。

「猿の手の話も、さっきみたいな法螺半分だったら」息子のハーバートは、最終列車に間に合うように出ていった客を送り出したあと、扉をしめながら言った。「たいしたことにはなりそうにないな」

「あなた、さっきの方に何かお礼をしたんですの?」ホワイト夫人は夫をしげしげとながめながら聞いた。

「ちょっとばかりな」少し顔を赤らめて夫は答えた。「やつはいらんと言ったがな、受けとらせた。だが、捨てろ、捨てろと言っておったよ」

「さもありなん、ってとこだな」ハーバートはわざとらしく震えてみせた。「ま、これから金持ちになって、有名になって、幸せになろうっていうんだ。手始めに皇帝にしてください、って願掛けしてみてくださいよ、父さん。だったらもう母さんの尻に敷かれることもなくなりますよ」

 椅子カバーを手に、殴りかかろうとするホワイト夫人から逃れようと、息子はテーブルのまわりを走った。

 ホワイト氏は猿の手をポケットから取りだし、疑わしげに眺める。「いったい何を願えばいいもんだが、実際のところわからんもんだな」ぽつぽつとそう言った。「ほしいものはもう何だって揃っとるような気がするしな」

(さて、彼らはまず何を願うのか。それは明日)