ひつじ草の挑戦状

色んな思いを綴ってます。

大姫

2010-06-11 | 義経絵巻-芭蕉夢の跡-
一の谷の合戦から5年後、「壇ノ浦の合戦」で快勝した義経の許に嫁いでいる。二羽の鳩と共に京へ向った。しかし、二羽の鳩が京に行った事は聞いていない頼朝は激怒。
頼朝「鳩は大姫に与えようと思っていたのにっ!!」と、自分の鳩でもないのに変な言い掛かりを付けて来た。
その大姫とは頼朝と政子の間の長女で、早くに夫を亡くし未亡人となっていた。彼女は頼朝と木曾義仲※の間で取り交わされた和睦のために、義仲の長男 木曾義高(源 義高)と婚姻関係を結んでいた。
※木曾義仲(源 義仲)は越中 砺波山の[倶利伽羅峠の合戦]で平家を打ち破った武将であり、頼朝と義経とは従兄弟にあたる。
結婚後、義高は鎌倉で過ごしていた。つまり、和睦のための人質だった。しかし、大姫と義高が結婚してすぐ頼朝と義仲との間の不和が生じ、戦が起こり、義高にも誅殺指令が飛んだ。その指令を密かに聞いた女中は政子や大姫にそれらのことを告げた。そこで義高を武蔵国の縁者(比企氏)へ逃そうとした。しかし、牙を向いた頼朝は義高を武蔵狭山の山中で捕らえ、家臣によって殺させた。当時、義高11歳。
(彼の慰霊は、武蔵 狭山(さやま)の「清水八幡神社」で弔われている)
幼い大姫にとって5つ年上の義高は、4つ違いの兄 頼家のような存在だった。次第に義高に心開くようになり、二人で遊ぶ姿が見られるようになっていた矢先の出来事だった。
なぜ、義高を殺さねばならなかったのか…。
その理由は、頼朝の胎で渦巻く大きく膨らんだ野望にあった。“大姫を天皇の后にする”
そのことで朝廷との親族関係を結ぶ魂胆だったのだ。今まで平家がそうだった様に頼朝もお家安泰を図りたい。そのためには、大姫を朝廷に嫁がせる必要があった。そのための義高暗殺だったのだ。
親の野望に子を利用され、振り回され…。大姫は、巷ではこんな風に言われていた。
「罪人の子は罪人…」「頼朝の操り人形…」
ただ頼朝の子として生まれただけなのに影で蔑まれ、冷たい視線を向けられ続け、そんな環境に置かれた大姫は、大人が作り上げた環境の変化にとても敏感になっていた。
心打ち解ける相手もなく一人で部屋に篭もることが多くなり、巷の噂話を耳にしては心を痛めていた。郷の母である比企尼は頼朝の長男 頼家の乳母をしていたので、頼家と共に大姫を武蔵の実家に連れて来る事が多かったので、郷も頼家や大姫の面倒を見ていた。郷は義高との経緯を知っているだけに、塞ぎ込む大姫を気に掛けていた。