ひつじ草の挑戦状

色んな思いを綴ってます。

ルネサンス(再生)の旅を終えて、

2013-10-09 | Italy-聖地巡礼の旅-
私共の新婚旅行にお付き合い下さり、
本当に本当にありがとうございます。

宗教、絵画、芸術と、
政治、政府、皇帝と、

天才たちの苦悩と歴史を歩みながら、
宗教とは…と、考えさせられました。

純粋に神のみ世界の物語なら、
素晴らしいお話なのかも知れない。
神に人間の裏という欲が絡むと、
それは、実に、実に、醜く映る。
しかし、人間は神失くして、人に成らず。
古来より神と共に歩んできた歴史である。
人間と神は、切り離せない繋がりがある。
だから、宗教のいざこざは無くならない。
堂々、神を盾にする聖職者、
仏の袈裟を被った悪行坊主、
もちろん、聖職神職仏の職を自我(エゴ)無しに、
純粋に、遂行される立派な方もおられましょう。
しかし、悲しい…それは少ない。
聖職も御仏も大きな組織となり、
教徒集めに、運営維持。
宗派派閥でいがみ合う。

神の粋から逸れて、
人間の欲が流れる。

私は幼い頃から、宗教に悩まされてきた。
だから、
人の手を介さない神の御手のみ、
坊主の邪入らない仏の御心のみ、
それだけを信ずるようになった。

裏切られてばかり、嘘つきばかりの人間社会で、
「私、人は、信じられない」
と言うと、夫はこう言いました。

「ようやく分かった」
なぜ、自分を信じてくれないのか。
私の誕生からの歴史の中に、
宗教に対する苦悩や苦しみ、
人間に対する不信感と、裏、
それに対する恐怖があると。
だから、
「それも含めて、(妻を)理解する」
そう言って下さいました。

まぁ、どこから湧くのでしょう…その自信。
でも、それが、私には、とても嬉しかった。
私の心に変化が生まれた瞬間でした。
“信頼”
私の宗教観に、新しい風が生まれた。
“安心”
そして、
私の中の神や仏が再生した瞬間でした。
“ルネサンス(再興)”

神はなぜ、私をイタリアに呼び寄せたのか、
旅を終えて、何と無く、分かり始めました。
ただ、分かり始めたばかりで、
これから、理解を深めて行かないと、
私たちは夫婦となって生けないんだ、と思います。

時おり、夫はこんなことを言います。
「なんで、俺を(伴侶に)選んだん?」
それに対して、
「うぅ…ん」
私は、深く深く悩んでおりました。
すると、
「深く悩まれんな」と。
質問しておいて、自分で勝手に、
「これで良いが」と片付けてしまいます。
正に『人間万事塞翁が馬』…
人間の未来など、
どう転ぶか、
どう成るか、
分からないモノです。

どうか、どうか、私たちの未来を、
温かくお見守り下さい。

アン王女に憧れて、

2013-10-05 | Italy-聖地巡礼の旅-
「退屈だわッ」
と女性特有のヒステリーで、
こっそり抜け出すアン王女。

あらら、こっくりこっくり、
ベンチでお休み。
気が付いたら、
ジョーも気が付いた。
「アン王女だ…」と。

さて、君が新聞記者ジョーなら、どうする?

こっそりとお金を渡して、スクープ狙うか、
王女様だろ、身分を弁えろ!と一喝するか、
やれやれ面倒を拾っちまったと苦笑するか、

正解は、王女様の性格によりけり、かな。

真実の口に手を入れて、
演技を事実と間違えて、
本気で心配してくれる、
オードリー・ヘプバーン。
私の中の、永遠の妖精で、
本当に美しい女性だと思った。
その永遠に憧れて、私は…

ローマの中心スペイン大使館前の、
スペイン広場で、ポーズを取った。
すると、
どこからともなく、声が掛かる。
「ヘイ、ホンダ?ウチダ?」
両者とも違う。私はカネダ。
さらに、
「ナガトモ?」
もちろん、ナンパではなく、金目当てだ。
親しげにサッカーを話題に、近付いては、
バッグを強奪、スタコラサッサと逃げる、
日本人観光客を狙った窃盗団なのである。
一人だけじゃない、そこかしこにいるいる。
おちおちと、アン王女をやって居られない。
記念撮影が終わったら、
「逃げるぞっ」
スペイン広場を後にする。
ここから自由時間、
気を付けよう、スリ強盗団。

という訳で、
ツアーで一緒に参加していた女の子に、
「変なのがいっぱいいたから、気を付けてぇ」と、
注意勧告を促した。
しかし、
「しまった…」
女の子のお父様に、何の勧告も通知も発しなかった。
盗られたのは、お父様の方で、
もっと、注意すべきだった…、
と後悔しても後の祭りである。
どうにもこうにも役に立たない予感ばかりが働いて…。
添乗員さんが迅速に処理して下さったから、
「一緒に帰れて、良かったね」
パスポートも、添乗員さんがなんとかして下さったようで、

こんな時、当てにならない予感よりも、
経験の方が絶対に勝る、と思いました。
本当に、皆一緒に帰国出来て良かった。

「添乗員さん、ありがとうございます」

これもまた、皇帝アウグストゥスがエジプトから持ち帰ったオベリスク、です。

海神ポセイドン

2013-10-04 | Italy-聖地巡礼の旅-
観光名所トレビの泉です。
すごい人、人、人…

で、こちら、
泉の守護神 ポセイドン様です。

さ、寄付(コイン投げ)致しましょう。

あなたは、何枚投げますか?
一枚?
二枚?
それとも…、三枚?

それぞれの枚数に意味(願い)があり、
一枚だと、
「再びこの地に舞い戻りますように…」
です。
二枚のコインを寄付すると…、
「大切な人と一緒にいられる…永久に」
複雑です…。さて、
三枚のコインで、
別れたいと願う、そこのカップル、
必見です。
「別れられる」…そうです。
ちなみに、三枚コインの願いは、
キリスト教は離婚禁止していた、
という宗教的な歴史の名残です。

今はもっと、良くも悪くも、
自由ですよね。

happy sleep...By Leonardo

2013-10-02 | Italy-聖地巡礼の旅-
All roads lead to Rome.
(全ての道は、ローマに通ず)

栄華繁栄を誇ったローマ帝国ですが、
Rome was not built in a day.
(ローマは一日にして成らず)

なんと築くまでには約700年もの歳月を費やしたと言います。
長い苦難の歴史の上に、ローマがある。

長い苦難の歴史に比べれば、
私の歴史は短い。
しかし、歴史は動いている。
道は常に新しく、作られる。

時に思う…、
私の、この道は、
「正しいか?」
迷いもあり、
悩みも襲う。
「別の道もあるのでは…?」
疑問に足が止まる時もある。

これでいいのか?
これがいいのか?

常に、自問する。

進めば進むほどに、独り。
行けば行くほどに、孤独。
誰を信じれば良いのか?
誰を求めれば良いのか?

誰彼と人に聞いて回ると、
疲れ、惑い、思い揺らぐ。
それなら、
己を信じ、突き進んだ方が、

A well-spent day brings happy sleep.
(日をうまく使えば、良く寝れる…Byレオナルド)

結局は、
己を如何に納得させるか、なのかも知れない。

グラディエーターの、血と涙

2013-09-30 | Italy-聖地巡礼の旅-
西暦80年、ローマ帝国の栄華と、
皇帝権力を象徴するコロッセオ、
5万人を収容した古代ローマの円形闘技場。
ここでは、捕虜や奴隷を猛獣と闘わせていました。


いわば見世物、当時の娯楽施設です。

コロッセオ内に歓喜と熱狂の叫びが渦巻き、
視点の先には、一人の孤独なグラディエーター。
彼は、何と思うでしょう?
「何のための、闘いか?」

すべて、ローマ帝国のため、でした。
娯楽に目を向けさせ、
政治から目を逸らす。
皇帝権力を確立するために、
グラディエーターたちは利用された。
市民を守るはずの皇帝が、
市民を欺き、権力に固執するなんて…。

そんな政治おかしい。
長く続くはずもない。

4世紀、ローマ帝国がキリスト教を公認し、見世物は禁止。
5世紀、剣闘は完全禁止。
コロッセオから人が消え、廃墟と化した。
しかし、歴史は風化させてならない。
事実を、受け止めなければならない。

19世紀、本格発掘調査が始まり、
コロッセオは保護されるようになりました。

人間が歩んだ歴史とは、
汚点だらけに思われる。

ただ、
それを乗り越え、生き繋いできたのも、
同じ人間である。

グラディエーターたちの流した血と涙は、
決して無駄ではない、そう信じています。

大いなる太陽神(アメン・ラー)よ、

2013-09-28 | Italy-聖地巡礼の旅-
突如、神の裁きは終わった。

「時間ですので…」

裁きの間に入るに、
時間的な制約と、
人数制限がある。

次の裁きが始まりますので、
さっさと、外に出ましょう。

大聖堂の正面「ファサード」では、
聖人たちが、私たちを見ています。

天使やら、聖人たちに、
“見られている”
という感覚は、ここでもまとわり付きます。

裁きが終わっても、
怒りが鎮まっても、
時の感情により、私たちは左右される、
神の裁き一つで、私たちの道が決まる。

なんだか怖い…聖書という神の物語でした。

さて、
聖書という物語から出た私は、
「おろ?」

懐かしい光景を目にしました。
6、7年前でしょうか、
エジプトで目にした、

“オベリスク”

ローマ帝国の悲しき時代に、
エジプト侵攻、征服により、
遠路遥々運ばれたオベリスク。

ピラミッドの代わりに作られた、
太陽神の象徴と王位権力の象徴。
オベリスクは、ギリシャ語で“串”という意味で、
つまり、日本でいえば、諏訪の御柱でしょうかね。
Many countries,many Customs.
所変われば、品変わる。

えらく遠くまで旅したなと思ったけど、
同じ人間の発想なんだなと思いました。

エジプトを旅して、イスラムの神に触れ、
インドを旅して、ヒンズーの神に触れて、
イタリアを旅して、カトリックに触れて、
日本の魂 神道や、仏教にも触れて、
そこらへん色々絡めて絡めて…、

「アメン・ラー(大いなる太陽神)よ、世界をお守り下さい」

こういう時だけ、

無神論者が、
敬虔な太陽神に信者となって、

「やれやれ…」

やはり神頼みかと、
苦笑していました。

宇宙のような…

2013-09-27 | Italy-聖地巡礼の旅-
大きなシスティーナ礼拝堂の中は、
丸ごと、新旧約の聖書の中である。

天地創造から太陽と月の誕生と、
神が作りたもう愚かな人間の誕生から楽園追放、
気付いた者だけが救われるという、ノアの方舟、
ノアから飛び出すピジョン(ハト・平和の象徴)。

そして、
キリスト、モーセの伝承と、
神による、悲しき裁きまで。

神の教えは、深い。
神の慈悲も、深い。
されど、
神の裁きは、辛い。

神は、どんな思いで、
裁きの手を上げなさるのか。
今なら、ルシファーの気持ちが分かる、
と、そう言って下さるように思います。

つらつらと記憶を辿って…
神とご縁があるのだろうか、仏教徒の私は、
幼少の頃、日曜ミサに顔を出していた。
しかし、
司祭様が、どうも苦手で、
てててとミサを抜け出し、
外の遊技場で遊んでいた。

神の、大切な教えそっちのけ、
やれやれ…と神は呆れていた。
では熱心な仏教徒か?と言われれば、また困る。
仏に対してさほど篤い信仰心を向け、合掌する、
と、いうわけでもない。似非坊主の一派である。

そんな無神論者の私に、神や仏は、
『信仰とは、宗教を超えた所にある』と言う。

神や仏は、
宗教の枠を超えて、優しい。
それが御慈悲なのであろう。

神の裁き

2013-09-26 | Italy-聖地巡礼の旅-
ユダの裏切りにより、
処刑されたイエスは、
その三日後、復活した。まるで、
日本神話『天岩戸』の天照大神を彷彿させるような復活劇である。それからイエスは、使徒に神の言葉を広く伝えるように言った。それが『福音書』である。
使徒に伝道を言い渡し、
イエスは天に召された。

天から人間を見つめる神は、
すくと、立ち上がり、
す…、右手を挙げた。

人間は愚か、神の慈悲にも気付けない。
神は嘆き、悲しみ、そして、
最後の審判を下した。

これが、ミケランジェロの『最後の審判』である。

新約聖書に記されている、
この世の終わり、「終末論」の図。

魂は篩(ふる)いに掛けられ、
救われ昇天する者、
地に落とされる者に、分けられる。

まるで…、
立山曼荼羅地獄絵図。

「神よ、待ってくれ」
十二聖人ペトロが幸福のカギを手に、叫ぶ。
「私にはまだやり残した事がある」
殉教した聖人バルトロマイが我が身の皮を剥いで、叫ぶ。

(バルトロマイは、ミケランジェロの自画像で、当時、裸体ばかり描いていやらしいと非難され、困惑したミケランジェロの
心情を表したとも言われています)

今ここに、神がいるなら、
私も、訴えるであろう。

「人間、まだまだ捨てたものではない」
その裁きの手を、お怒りを鎮めて下さいませ、と。

Pieta(慈愛)

2013-09-25 | Italy-聖地巡礼の旅-
果たして、一度裏切られたら、
「許せるものなのだろうか?」

ユダに裏切られたイエスは、磔の刑。
その後、
磔から降ろされ、マリアの胸で眠る。

これがミケランジェロのピエタ像。
ピエタとはイタリア語で、
“哀れ”とか“慈愛”の意味。

23歳の、若きミケランジェロの傑作と名高い作品で、
マリアの胸には生涯唯一の彼のサインが残っている。

この像からマリアの哀しみは見えるが怒りは無い。
果たして、
冤罪や濡れ衣に対して、
このような感情だけで、
抑えられるのだろうか?

もし、自分が裏切られたら…、

哀しみが怒りを呼び、
泣き叫び、怒り狂い、
その裏切りに対して、
また、神に対しても、
己の定めに対しても、

許せない気持ちで一杯になるのではないか。

聖書には神と同じく、天使という存在が登場する。
人間の“業”に対して、深く感情を入れない彼らだが、
熾天使ルシファーだけは、違っていた。
人間の仕業に哀しみ、そして、怒った。
この怒りによって暴徒となったルシファーは、
天使から追放、天国から追われ、地に堕ちた。
堕天使の烙印を押された彼は、地の底で国を作った。
その国の名は、地獄(地国)。
ルシファーは、名を悪魔(サタン)に変え、
地獄王に君臨したと堕天使の記録が残る。
なんとも、ルシファーというサタン様は、
人間に近い感情の持ち主だと、私は思う。

裏切られたら、辛い、悲しい。
悲しみの向こうで怒りの感情が、
マグマのように、沸々と沸き…、

自らの心に問う、
「あの行いを許せるか?」
「あの言葉を許せるか?」
「あの存在を許せるか?」

『許しなさい』
神は許せるのだろう。

裏切りを知っていたキリストは、ユダに、
『しようと思うことを、今、しなさい』
こう言った。

その人の心に任せた、この言葉、
それこそが、神の審判のようで、
なんだか怖い…。