ひつじ草の挑戦状

色んな思いを綴ってます。

グラディエーターの、血と涙

2013-09-30 | Italy-聖地巡礼の旅-
西暦80年、ローマ帝国の栄華と、
皇帝権力を象徴するコロッセオ、
5万人を収容した古代ローマの円形闘技場。
ここでは、捕虜や奴隷を猛獣と闘わせていました。


いわば見世物、当時の娯楽施設です。

コロッセオ内に歓喜と熱狂の叫びが渦巻き、
視点の先には、一人の孤独なグラディエーター。
彼は、何と思うでしょう?
「何のための、闘いか?」

すべて、ローマ帝国のため、でした。
娯楽に目を向けさせ、
政治から目を逸らす。
皇帝権力を確立するために、
グラディエーターたちは利用された。
市民を守るはずの皇帝が、
市民を欺き、権力に固執するなんて…。

そんな政治おかしい。
長く続くはずもない。

4世紀、ローマ帝国がキリスト教を公認し、見世物は禁止。
5世紀、剣闘は完全禁止。
コロッセオから人が消え、廃墟と化した。
しかし、歴史は風化させてならない。
事実を、受け止めなければならない。

19世紀、本格発掘調査が始まり、
コロッセオは保護されるようになりました。

人間が歩んだ歴史とは、
汚点だらけに思われる。

ただ、
それを乗り越え、生き繋いできたのも、
同じ人間である。

グラディエーターたちの流した血と涙は、
決して無駄ではない、そう信じています。

秋ですね

2013-09-30 | お知らせ
金木犀の香りに誘われt、
お庭を散策中、

「おろ?」

紫陽花です。

どこの世にも、風変わりがおるようで…。

紫式部です。







秋の花も、美し。

さて、
明日から、プログラム変わります。


大いなる太陽神(アメン・ラー)よ、

2013-09-28 | Italy-聖地巡礼の旅-
突如、神の裁きは終わった。

「時間ですので…」

裁きの間に入るに、
時間的な制約と、
人数制限がある。

次の裁きが始まりますので、
さっさと、外に出ましょう。

大聖堂の正面「ファサード」では、
聖人たちが、私たちを見ています。

天使やら、聖人たちに、
“見られている”
という感覚は、ここでもまとわり付きます。

裁きが終わっても、
怒りが鎮まっても、
時の感情により、私たちは左右される、
神の裁き一つで、私たちの道が決まる。

なんだか怖い…聖書という神の物語でした。

さて、
聖書という物語から出た私は、
「おろ?」

懐かしい光景を目にしました。
6、7年前でしょうか、
エジプトで目にした、

“オベリスク”

ローマ帝国の悲しき時代に、
エジプト侵攻、征服により、
遠路遥々運ばれたオベリスク。

ピラミッドの代わりに作られた、
太陽神の象徴と王位権力の象徴。
オベリスクは、ギリシャ語で“串”という意味で、
つまり、日本でいえば、諏訪の御柱でしょうかね。
Many countries,many Customs.
所変われば、品変わる。

えらく遠くまで旅したなと思ったけど、
同じ人間の発想なんだなと思いました。

エジプトを旅して、イスラムの神に触れ、
インドを旅して、ヒンズーの神に触れて、
イタリアを旅して、カトリックに触れて、
日本の魂 神道や、仏教にも触れて、
そこらへん色々絡めて絡めて…、

「アメン・ラー(大いなる太陽神)よ、世界をお守り下さい」

こういう時だけ、

無神論者が、
敬虔な太陽神に信者となって、

「やれやれ…」

やはり神頼みかと、
苦笑していました。

宇宙のような…

2013-09-27 | Italy-聖地巡礼の旅-
大きなシスティーナ礼拝堂の中は、
丸ごと、新旧約の聖書の中である。

天地創造から太陽と月の誕生と、
神が作りたもう愚かな人間の誕生から楽園追放、
気付いた者だけが救われるという、ノアの方舟、
ノアから飛び出すピジョン(ハト・平和の象徴)。

そして、
キリスト、モーセの伝承と、
神による、悲しき裁きまで。

神の教えは、深い。
神の慈悲も、深い。
されど、
神の裁きは、辛い。

神は、どんな思いで、
裁きの手を上げなさるのか。
今なら、ルシファーの気持ちが分かる、
と、そう言って下さるように思います。

つらつらと記憶を辿って…
神とご縁があるのだろうか、仏教徒の私は、
幼少の頃、日曜ミサに顔を出していた。
しかし、
司祭様が、どうも苦手で、
てててとミサを抜け出し、
外の遊技場で遊んでいた。

神の、大切な教えそっちのけ、
やれやれ…と神は呆れていた。
では熱心な仏教徒か?と言われれば、また困る。
仏に対してさほど篤い信仰心を向け、合掌する、
と、いうわけでもない。似非坊主の一派である。

そんな無神論者の私に、神や仏は、
『信仰とは、宗教を超えた所にある』と言う。

神や仏は、
宗教の枠を超えて、優しい。
それが御慈悲なのであろう。

神の裁き

2013-09-26 | Italy-聖地巡礼の旅-
ユダの裏切りにより、
処刑されたイエスは、
その三日後、復活した。まるで、
日本神話『天岩戸』の天照大神を彷彿させるような復活劇である。それからイエスは、使徒に神の言葉を広く伝えるように言った。それが『福音書』である。
使徒に伝道を言い渡し、
イエスは天に召された。

天から人間を見つめる神は、
すくと、立ち上がり、
す…、右手を挙げた。

人間は愚か、神の慈悲にも気付けない。
神は嘆き、悲しみ、そして、
最後の審判を下した。

これが、ミケランジェロの『最後の審判』である。

新約聖書に記されている、
この世の終わり、「終末論」の図。

魂は篩(ふる)いに掛けられ、
救われ昇天する者、
地に落とされる者に、分けられる。

まるで…、
立山曼荼羅地獄絵図。

「神よ、待ってくれ」
十二聖人ペトロが幸福のカギを手に、叫ぶ。
「私にはまだやり残した事がある」
殉教した聖人バルトロマイが我が身の皮を剥いで、叫ぶ。

(バルトロマイは、ミケランジェロの自画像で、当時、裸体ばかり描いていやらしいと非難され、困惑したミケランジェロの
心情を表したとも言われています)

今ここに、神がいるなら、
私も、訴えるであろう。

「人間、まだまだ捨てたものではない」
その裁きの手を、お怒りを鎮めて下さいませ、と。

Pieta(慈愛)

2013-09-25 | Italy-聖地巡礼の旅-
果たして、一度裏切られたら、
「許せるものなのだろうか?」

ユダに裏切られたイエスは、磔の刑。
その後、
磔から降ろされ、マリアの胸で眠る。

これがミケランジェロのピエタ像。
ピエタとはイタリア語で、
“哀れ”とか“慈愛”の意味。

23歳の、若きミケランジェロの傑作と名高い作品で、
マリアの胸には生涯唯一の彼のサインが残っている。

この像からマリアの哀しみは見えるが怒りは無い。
果たして、
冤罪や濡れ衣に対して、
このような感情だけで、
抑えられるのだろうか?

もし、自分が裏切られたら…、

哀しみが怒りを呼び、
泣き叫び、怒り狂い、
その裏切りに対して、
また、神に対しても、
己の定めに対しても、

許せない気持ちで一杯になるのではないか。

聖書には神と同じく、天使という存在が登場する。
人間の“業”に対して、深く感情を入れない彼らだが、
熾天使ルシファーだけは、違っていた。
人間の仕業に哀しみ、そして、怒った。
この怒りによって暴徒となったルシファーは、
天使から追放、天国から追われ、地に堕ちた。
堕天使の烙印を押された彼は、地の底で国を作った。
その国の名は、地獄(地国)。
ルシファーは、名を悪魔(サタン)に変え、
地獄王に君臨したと堕天使の記録が残る。
なんとも、ルシファーというサタン様は、
人間に近い感情の持ち主だと、私は思う。

裏切られたら、辛い、悲しい。
悲しみの向こうで怒りの感情が、
マグマのように、沸々と沸き…、

自らの心に問う、
「あの行いを許せるか?」
「あの言葉を許せるか?」
「あの存在を許せるか?」

『許しなさい』
神は許せるのだろう。

裏切りを知っていたキリストは、ユダに、
『しようと思うことを、今、しなさい』
こう言った。

その人の心に任せた、この言葉、
それこそが、神の審判のようで、
なんだか怖い…。