米原子力艦に慣らされた 横須賀寄港1000回
2019/11/26
米海軍横須賀基地(神奈川県横須賀市)への米原子力艦の寄港が、通算千回に達した。原子力艦は国内三カ所に寄港するが、群を抜いて多いのが原子力空母が配備されている横須賀だが、そもそも被爆国日本に、なぜ原子力艦がわが物顔で出入りするのか。米政府の解禁文書をたどると、半世紀前の日米交渉も「寄港ありき」で進められていた。
「五十三年間で千回。原子力艦がこんなに多くやってくるなんて異様だ」
五日午後の京急線横須賀中央駅前。基地問題に取り組む市民グループが道行く人に訴える。横須賀基地に配備されている原子力空母「ロナルド・レーガン」が今月二日に帰還し、横須賀の原子力艦寄港は千回に達した。「五十三年前と空気がまったく違う」。「原子力空母の母港化を阻止する三浦半島連絡会」の新倉泰雄さん(67)が、抗議チラシを手にため息をつく。
初めて横須賀にやってきた原子力艦は、一九六六年五月の原子力潜水艦「スヌーク」。十四歳だった新倉さんは、通っていた中学校の教員に原潜の寄港を教えられ、基地対岸の公園で開かれた抗議集会に参加した。「全国から人が集まってね、子ども連れで参加した人もいた。みんな『原潜反対』『来るな』と叫んでいた。絶対に許さないという張り詰めた空気があった。なのに今は…」。差し出されたチラシを興味深げに受け取る人はいる。しかし多くは目もくれない。「原子力艦が来ることに慣らされちゃったんだね」と新倉さんがつぶやく。チラシを受け取った同県三浦市の女性(79)は「東京湾で原子力艦に何かあったら大変。頻繁な寄港は決していいことじゃないけど、簡単に解決できることじゃないのよね」と言う。
日本に初めて米原子力艦が寄港したのは、六四年十一月に佐世保港(長崎県佐世保市)に入った原潜「シードラゴン」。国内の寄港地は佐世保、横須賀、ホワイトビーチ(沖縄県うるま市)の三カ所で、今月二日時点で佐世保に四百六十回、ホワイトビーチは五百九十八回訪れている。横須賀はその二倍近くに上る。
横須賀は、七三年から計五隻の空母が事実上の母港にしてきた。二〇〇八年に配備された四代目「ジョージ・ワシントン」以後は、原子炉を動力源にする原子力空母に代わった。それからは原潜とともに原子力空母の入港は日常の光景になった。それに伴い、〇九年以後は滞在日数も年間三百日前後に増えた。
米軍の動向を監視する市民団体「リムピース」の頼(らい)和太郎編集長は「横須賀は他の二カ所より、空母も原潜も滞在日数が長いのが特徴。艦船修理廠(しょう)の技術者が優秀で、米軍の重要なメンテナンス拠点になっているためだ」と指摘する。横須賀を拠点にする米第七艦隊との連絡調整がしやすく、東京や横浜など大都市に近く、乗員の休養地に向いていることも一因。頼さんは「原子力艦は燃料補給がいらず、長期の航行ができる。米国の戦略上、空母と潜水艦を原子力艦に切り替えていくのは自然の流れ。今の日米安保体制が続く限り、原子力艦の寄港も続いてしまう」と嘆く。
◆日米交渉「寄港ありき」
横須賀など三カ所で二千回を超える原子力艦の寄港。非核三原則を掲げる日本で自由に出入りする背景は、半世紀前の日米間交渉にある、と国際問題研究者の新原昭治さんは言う。「政治的判断で原潜の『安全性』について重大な問題を残したまま受け入れた」
新原さんは米政府の解禁文書約三百点をもとに、六三年一月に始まった寄港問題を巡る日米のやりとりを分析した。
同年二月、日本政府は原潜の安全性を確認できるデータの提供や、寄港前後の放射能調査の有無、調査に日本の専門家が参加できるかなどを質問。しかし米政府は「ノー。すべての関連データは機密扱い。米政府が安全を保証する」などと回答した。米海軍に原子炉引き渡し時の「検査証明書」を提出できないか日本側が尋ねても、「存在しない」とにべもなかった。
当時、日本学術会議が「寄港は望ましくない」と声明を出すなど世論は厳しかったが「安全性を自ら確認したいという日本の再三の要望を、米は頑として拒んだ」と新原さん。米は六四年八月、原潜の安全性に関する覚書として「エード・メモワール」を示した。
だが、内容は「原潜は推進系統の違いを除き、現在日本に寄港している米海軍艦船となんら異ならない」「外国の港に百回以上寄港したが、事故もなく米国の保証に基づいて受け入れられた」など一方的な主張の繰り返し。それでも日本政府は「安全性に確信を得た」と寄港を認めた。新原さんは「寄港ありきで原潜の安全性を日本の法的規制の対象外に置いた。それが今に続いている」と語る。
さらに新原さんは、エード・メモワールは覚書ではなく、日米で練り上げた外交文書だとみる。例えば六三年二月十五日、在日米大使館は母国に「(日本の)外相は米国の(寄港)要請に、早く『イエス』を与えたがっている」と報告。他にも数々の解禁文書から、日本が寄港容認に向け、世論を抑え込む策を考えていたと読み取れるという。
一方、日米関係に詳しいジャーナリスト吉田敏浩さんは「米艦船の寄港は日米地位協定で認めている。原潜の寄港も本来は事前協議対象ではないと、日米両政府は考えていた」と指摘。エード・メモワールは「国民の懸念が強いため日本が『保証』を求めた」とみる。
事前協議は、六〇年の日米安全保障条約改定時に設けた看板制度。ただ、条約の条文にはなく、岸信介首相とハーター米国務長官との交換公文で定めた。在日米軍の配置、装備の重要な変更、日本から行う作戦行動の基地に国内の施設を使う際、米国と日本で協議するという取り決めだ。
六〇年一月、藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使の了解事項で、協議対象の「装備の重要な変更」は核弾頭、中・長距離ミサイルの持ち込みとその基地建設とするなど、制度の詳細を決めた。その内容は国会答弁で口頭で読み上げられたが、文書化されたものは日米両政府の申し合わせで非公開となっている。
吉田さんは「協議対象を核兵器などに限定し、それ以外は対象外だと抗弁できる。原子炉を動力源にする原子力艦も『核兵器』ではないから、協議しないという理屈だ」と、寄港ありきの交渉は安保改定時の画策が下地だと指摘する。
それだけではない。この時、核を搭載していても寄港や通過という一時的なケースは協議対象にしないという、密約も交わしたことが、二〇一〇年三月の外務省有識者委員会報告で分かっている。「岸政権は安保を変えたように見せつつ、米の庇護(ひご)で政権維持を図った。だから米が譲歩したように見せかけ、裏で米の実利を守った」と吉田さん。事前協議制度は骨抜きだとし、原子力艦や核搭載艦が寄港する日常を危ぶむ。
「原子力艦は環境や人体に影響をもたらす恐れがつきまとう。核搭載艦はもちろん、原子力艦の寄港も事前協議の対象にするべきだ」と訴える。
(中沢佳子)