お寺さんぽ Ver.03

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宮尾城の意味 「厳島の戦い」 <中編>

2006年07月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は日本三大奇襲戦の一つ、元就の凄さがよくわかる「厳島合戦」について。


歴史に残る中国地方の覇者「毛利元就」
兄の死によって偶然当主となった元就に待っていたのは、同族と争う苦難の道でした。それを乗り越え、安芸国を統一した元就は周囲の大勢力、東の尼子・西の大内に挟まれる、厳しい生き残りの戦略を強いられます。
と、そんな元就のもとに届いたのは、傘下となっていた当主「大内義隆」死去の報だったのです。
中国地方はにわかに不穏な空気が流れていました。


毛利元就

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※元就はおじいさんなイメージが強いのは私だけでしょうか…。


謀反に成功し、大内家の実権を握った「陶晴賢」
毛利元就はこの頃は大内の傘下でありましたから、当初はいんぎんにその下でおとなしくしておりましたが、後に離反。
主人を害した逆賊”陶晴賢”を討つ
そう、旗色を鮮明にするのです。

天文二十三年(1554)
侵入した陶の軍勢を本国にて迎え撃った元就はこれを撃退。(※折敷畑合戦)
陶本軍はその頃は石見の攻略中でして、これには加わっておりません。
そのため、初戦に勝利したとは言っても、陶軍のほんの一部を全力で撃退できただけのことでした。
危機はまだ続いています。
その後も陶軍との小競り合いがありましたが、いずれも大規模な戦にはなっておりませんでした。
気になる存在ではあったでしょうが、陶晴賢としては他の足固めを優先したのでしょう。
戦上手で出ごわい存在の元就ではありますが、安芸一国をようやく従えた程度の毛利家は、彼にしてみれば取るに足らない存在だったのです。

そんな頃、元就は厳島の宮尾に「宮尾城」を築きました。
皆様ご存じでしょうが、こちらには平清盛が”平家の氏神”として崇拝した、厳島神社があります。
ぽつりと浮かぶ厳島は水路での要所で、この城は生命線を守る存在として重要な意味をもっていました。
しかし、これにはもう一つの意味があったのです。

「宮尾に城を築いたがあれは失敗であった。あれを押さえられたら我が勢はひとたまりもない」

重臣が居並ぶ酒宴の際、元就はふとそんなことを言って嘆きました。
なるほど、確かに宮尾城は安芸のすぐ真下にあるため、付城(攻略の際に築く城)としての機能も期待でき、また重要な水路を押さえることもできます。
確かにここを奪ったならば、喉元に刃を突き付けるようなものなので、戦況をより有利に進められるに違いありません。

…元就の漏らしたその弱音は、やがて陶晴賢の元へ伝えられます。

さらに、毛利方の重臣からは寝返りを約束した書状が届き、偶然手にいれた書状には配下の者が毛利方へ内応する旨がしたためてあったのです。

陶晴賢は若いながらも文武に通じた名将で、また陶家も代々大内家で重きをなしてきた家柄した。
謀略戦は合戦の常であるため、おそらく即決はしなかったでしょうが、幾重にも重ねられた情報に確信を持つと、内応したとされる家臣を切り捨て、軍を動かしてしまうのです。
…これらが、巧妙に仕組まれた元就の謀でした。

元就は陶方に内通している者がいると知りながらもこれを放置し、しかもわざと相手へ届くよう、事あるごとに偽情報を提供しつづけていたのです。

謀の多きは勝ち、少なきは敗れる
とは元就の言葉ですが、相手の裏の裏をかく巧妙な手口に、さすがの名将陶晴賢もまんまと引っ掛かってしまうのでした。
⇒つづく


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