お寺さんぽ Ver.03

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天下一の武勇 八幡太郎「源義家」

2006年07月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は通称八幡太郎こと「源義家」です。

他の時代はよく知らないけど、戦国時代は好き!
…なーんて人でも、ちょっと聞き覚えがある名前ではないでしょうか?
あの時代は系図(血筋ですね)を重視しましたんで、清和源氏の家系~とかなんとか書いてあるのを目にしたこともあるでしょう。
要するに、武家の基を築いた人なんですね。
ちょっと知っておくと戦国がより深く理解できると思いますんで、ぜひお付き合い下さいませ。

武士の誕生―坂東の兵どもの夢

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時は平安時代、その後期。
河内源氏の本拠地であります、河内石川郡壺井にて「源義家」は源頼義の長男として生まれます。幼名は源太。
…帽子かぶったカメラマンではないですよ。(←それは玄太。わかんないか)

ちなみに父頼義は「源頼信」の子ですんで、その孫にあたります。
もともと、源氏武闘派な血筋なんですね。

義家は京都郊外の「岩清水八幡宮」にて元服したところから、「八幡太郎義家」と称されるようになりました。こっちの響きのが有名です。

天喜五年(1057)
命を受けた鎮守府将軍の父頼義は兵を率い、奥州阿部氏と激突しました。これが世に言う「前九年の役」です。嫡男の義家もこれに従軍しています。
北国の寒さと長期の陣による飢えで苦しむ頼義の官軍は「黄海の戦い」にて思わぬ敗北を喫します。
しかし、自ら殿となった義家はわずか六騎ばかりで立ち塞がると、次々に敵を射落とし、それを退けるという大功を立てました。

「射る矢はまるで神の如し」

とまで絶賛され、大いにその名を上げました。
その後、奥羽の豪族「清原氏」の助けを借り、陸奥阿部氏を制圧。
その褒美として従五位下出羽守を叙任。
さらに永保三年(1083)には、父と同じ鎮守府将軍に任ぜられております。

その後、前九年では共に戦った清原氏にて内紛が勃発します。
世に言う「後三年の役」です。
清原清衡(きよはらきよひら)を支持した義家は、清原家衡(きよはらいえひら)と激突。
激しい攻防戦となりますが、抵抗が凄まじく沼の柵はなかなか落ちません。
思案を巡らせた義家は包囲を強め、家衡軍を兵糧攻めにして降伏させることに成功しております。
ちなみに、これは日本で最も古い兵糧攻めとされております。

さて、三年の長期に渡る反乱は無事おさまりましたが、朝廷はこの合戦を清和源氏の内紛として一切褒美を与えませんでした。
この時に義家は自らの私財をなげうって褒賞を与えるんですが、この一件で「さすがは源氏の頭領さまやー」という具合で、大いに信望を高めたといいます。

こうして支持を集める義家を警戒するようになった白河法皇は、対立する摂関家の戦力でもあった河内源氏一派を慣れぬ西国へ赴かせたり、荘園を没収するなどし、その勢力を削ぎました。
義家の晩年はそうした苦境の連続であったようです。
最後には九州で乱を起こした子の義親(※この人東国に地盤を築いたにもかかわらず、西国へ行かされてます)討伐を命じられますが、その直前に没しております。
享年六十七。

最後はそんなでしたが、「源義家」は上で紹介したような華々しい武功だけでなく、歌才もある文武両道の武士でした。
その名声は後世まで残り、武士の理想像として後々まで尊敬され続けることとなるのです。


[関連記事]
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」


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