お寺さんぽ Ver.03

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名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <後編>

2006年07月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
闇あるところに光あり、悪あるところ正義あり…前があるなら、後ろもある。
ってな感じで、やっぱり「前編」があるので「後編」があるんですねー。
ということで、本日は源氏祭りを飾る合戦「後三年の役」の後半戦です。
さっそくどうぞ。

>あらすじ!
「前九年の役」での功労者清原家では、国を二分する内乱が起きていました。
清原家の養子となった清衡(2)、そして父が違う弟の家衡(3)
相続にて不服を覚えた家衡(3)の奇襲によって起こった争いは、鎮守府将軍「源義家」の助けを借りた清衡(2)らが攻めあぐねて撤退するという、大番狂わせとなっていました。


※さて、この清原家は”ひらひら”として実にややこしい(笑)ので、以下に登場人物紹介を再びしておきますね。
見やすいように、名前の後ろには通し番号をふっております。

1・真衡(さねひら)は武貞の嫡男、前九年で活躍した武則の孫です。
2・清衡(きよひら)は武貞が前九年の後に敵将(藤原経清)の未亡人を妻とした際の連れ子。清原家とは血縁ではありません。
3・家衡(いえひら)はその未亡人との間に出来た子供。清衡(2)とは父が違いますが弟です。
4・武衡(たけひら)は武貞(たけさだ)の弟。
5・吉彦季武(きびこのすえたけ)は前九年での功労者で、一族の長老として君臨していました。


奥州藤原氏五代―みちのくが一つになった時代

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※まじめそうな本の多い藤原氏です。


寛治元年(1087)開戦から三年後のことです。
再び出陣した八幡太郎義家、清原清衡(2)らは大軍を率いて、金沢の柵を取り囲みます。
難攻不落と呼ばれる金沢の柵に篭った家衡(3)らの奮戦はまたしても凄まじく、戦況としては一進一退となって、数日が過ぎても柵は落ちませんでした。

どうにも攻めあぐね、策を練った八幡太郎義家は、吉彦季武(5)の進言を取り入れ、力攻めから兵糧攻めへと切り替えました。
この兵糧攻めは”日本最古の兵糧攻め”と言われており、孫子の兵法をきっちり学んだ義家の姿が目に浮かびます。

出陣したのは九月の秋ごろでしたが、季節が本格的な冬ともなると義家のとった兵糧攻めの効果が次第にあらわれ、たまりかねた兵が柵外へと脱出を計る事態も出始めました。
頃合を見計らっていた八幡太郎義家は柵内に兵糧が完全に尽きたことを確認、火を放って全軍に総攻撃を命じます。

武衡(4)は池に潜んでいたところを発見されて斬られ、一旦逃げおおせていた家衡(3)も結局は捕らえられて討たれるのでした。

伝わる「奥州後三年記」には、
城中の美女どもを兵たちが争って捕らえ、陣中へ引いてきた。男の首は鉾に刺されて列の先頭を行き、妻は涙を流しながら後をついて行く…
といった光景だったそうです。

戦後、恩賞を乞うた八幡太郎義家に対し、これを私闘とみなした朝廷は申し出を拒否します。
そのため、義家は私財を投げ打って部下の功を賞したため、これがかえって源家の名声を大いに上げることとなるのです。しかし、同時に白河法皇の警戒がより強まる切っ掛けともなってしまうのは皮肉なことでした。

また、義家と共に戦った清原清衡(2)は結局、家衡(3)の旧領を含めた奥六郡を全て引き継ぎ、奥州の覇者となるのでした。
そこで清衡(2)は、実父である「藤原経清」の姓藤原に戻し、奥州藤原氏の祖となるのです。
へー…そんな流れがあったんですね!
本拠地をよく知られる胆沢郡平泉(現在の平泉町)に移したのも、この藤原(清原)清衡(2)なのでした。
ちなみに二代目が基衡、三代目が最も有名であろう「藤原秀衡」なのです。



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