お寺さんぽ Ver.03

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名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <後編>

2006年07月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
闇あるところに光あり、悪あるところ正義あり…前があるなら、後ろもある。
ってな感じで、やっぱり「前編」があるので「後編」があるんですねー。
ということで、本日は源氏祭りを飾る合戦「後三年の役」の後半戦です。
さっそくどうぞ。

>あらすじ!
「前九年の役」での功労者清原家では、国を二分する内乱が起きていました。
清原家の養子となった清衡(2)、そして父が違う弟の家衡(3)
相続にて不服を覚えた家衡(3)の奇襲によって起こった争いは、鎮守府将軍「源義家」の助けを借りた清衡(2)らが攻めあぐねて撤退するという、大番狂わせとなっていました。


※さて、この清原家は”ひらひら”として実にややこしい(笑)ので、以下に登場人物紹介を再びしておきますね。
見やすいように、名前の後ろには通し番号をふっております。

1・真衡(さねひら)は武貞の嫡男、前九年で活躍した武則の孫です。
2・清衡(きよひら)は武貞が前九年の後に敵将(藤原経清)の未亡人を妻とした際の連れ子。清原家とは血縁ではありません。
3・家衡(いえひら)はその未亡人との間に出来た子供。清衡(2)とは父が違いますが弟です。
4・武衡(たけひら)は武貞(たけさだ)の弟。
5・吉彦季武(きびこのすえたけ)は前九年での功労者で、一族の長老として君臨していました。


奥州藤原氏五代―みちのくが一つになった時代

河出書房新社

このアイテムの詳細を見る

※まじめそうな本の多い藤原氏です。


寛治元年(1087)開戦から三年後のことです。
再び出陣した八幡太郎義家、清原清衡(2)らは大軍を率いて、金沢の柵を取り囲みます。
難攻不落と呼ばれる金沢の柵に篭った家衡(3)らの奮戦はまたしても凄まじく、戦況としては一進一退となって、数日が過ぎても柵は落ちませんでした。

どうにも攻めあぐね、策を練った八幡太郎義家は、吉彦季武(5)の進言を取り入れ、力攻めから兵糧攻めへと切り替えました。
この兵糧攻めは”日本最古の兵糧攻め”と言われており、孫子の兵法をきっちり学んだ義家の姿が目に浮かびます。

出陣したのは九月の秋ごろでしたが、季節が本格的な冬ともなると義家のとった兵糧攻めの効果が次第にあらわれ、たまりかねた兵が柵外へと脱出を計る事態も出始めました。
頃合を見計らっていた八幡太郎義家は柵内に兵糧が完全に尽きたことを確認、火を放って全軍に総攻撃を命じます。

武衡(4)は池に潜んでいたところを発見されて斬られ、一旦逃げおおせていた家衡(3)も結局は捕らえられて討たれるのでした。

伝わる「奥州後三年記」には、
城中の美女どもを兵たちが争って捕らえ、陣中へ引いてきた。男の首は鉾に刺されて列の先頭を行き、妻は涙を流しながら後をついて行く…
といった光景だったそうです。

戦後、恩賞を乞うた八幡太郎義家に対し、これを私闘とみなした朝廷は申し出を拒否します。
そのため、義家は私財を投げ打って部下の功を賞したため、これがかえって源家の名声を大いに上げることとなるのです。しかし、同時に白河法皇の警戒がより強まる切っ掛けともなってしまうのは皮肉なことでした。

また、義家と共に戦った清原清衡(2)は結局、家衡(3)の旧領を含めた奥六郡を全て引き継ぎ、奥州の覇者となるのでした。
そこで清衡(2)は、実父である「藤原経清」の姓藤原に戻し、奥州藤原氏の祖となるのです。
へー…そんな流れがあったんですね!
本拠地をよく知られる胆沢郡平泉(現在の平泉町)に移したのも、この藤原(清原)清衡(2)なのでした。
ちなみに二代目が基衡、三代目が最も有名であろう「藤原秀衡」なのです。



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⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>



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名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>

2006年07月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
闇あるところに光あり、悪あるところ正義あり…前があるなら、後ろもあり。
ということで、本日は”源氏祭り”を飾る合戦「後三年の役」です。


永保三年(1083)
先の「前九年の役」にて功を立てていた源義家(八幡太郎)は父頼義の後を継いで陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられていました。
その同じ頃、源家を助けて功を立てていた清原家には不穏な空気が流れていたのです…。

さて、前九年の役にて援軍を率いて出陣した「清原武則」は朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、討伐した安倍氏の旧領奥六郡を受けて東北地方の大豪族となっていました。
その家督は、
清原武則(たけのり) → その子・武貞(たけさだ) → その子・真衡(さねひら)
と引き継がれていました。

さて、この清原家は”ひらひら~”っとして実にややこしい(笑)ので、以下に登場人物紹介をしておきます。
見やすいように、名前の後ろには通し番号をふっておきますね。

1・真衡(さねひら)は武貞の嫡男、で当主。前九年で活躍した武則の孫です。
2・清衡(きよひら)は武貞が前九年の後に敵将(藤原経清)の未亡人を妻とした際の連れ子。清原家とは血縁ではありません。
3・家衡(いえひら)はその未亡人との間に出来た子供。清衡(2)とは父が違いますが、弟になります。
4・武衡(たけひら)は武貞(たけさだ)の弟。
5・吉彦季武(きびこのすえたけ)は前九年での功労者で、一族の長老として君臨していました。


平泉への道―国府多賀城・胆沢鎮守府・平泉藤原氏

雄山閣

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※東北にはあまり行っていないひでるさん。
 関連した写真はないのでかわりにイメージ画をば。


永保三年(1083)
当主真衡(1)に対し、一族の清衡(2)、家衡(3)、吉彦季武(5)らが反旗を翻します。
これはお家の運営方法で対立したのが直接原因でしたが、日頃から真衡(1)の横柄な立ち振る舞いに皆不満を持っていたのが原因であるようです。

異変に駆けつけた、我らが「八幡太郎義家」は清原真衡(1)を援けて、清衡(2)、家衡(3)ら連合軍と戦いますが、その最中に真衡(1)は病死。
戦う相手のいなくなった清衡(2)、家衡(3)は降伏して、混乱は一時収まりました。

遺産相続にて、清衡(2)と家衡(3)には奥六郡を三郡づつ分割して相続することが決まりました。
しかし、清衡(2)の分け与えられた三郡の方が条件が良かったため、これを不服とした家衡(3)は突如清衡(2)に対して奇襲攻撃を仕掛けました。
不意を突かれた清衡(2)自身はどうにか逃げ延びますが、なんとここで妻子一族を殺されてしまうのです。

おのれ、家衡(3)ああああああああああ!!!

怒り心頭に達した清衡(2)は「八幡太郎義家」の助けを借りて挙兵。
反撃を開始します。
しかし、沼の柵(秋田県平鹿郡沼館町)に籠もった家衡(3)軍の抵抗は凄まじく、どうにも攻めあぐねた義家・清衡(2)らは一端囲みを解いて引き揚げることとしました。
ちなみに、義家の弟「新羅三郎義光」が駆けつけるのはこの時のことです。

『家衡(3)奮戦、八幡太郎義家らの軍勢を見事撃退!』

もし、当時新聞があったなら、見出しにはそんな文字が躍ったでしょう。
ともかく、その報を聞いた武衡(4)は家衡(3)の陣へ応援に駆けつけ、来るべき次の戦に備えるため、難攻不落といわれる金沢の柵へと移るのでした。

※つづく。


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八幡太郎の活躍 「前九年の役」

2006年07月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は平安時代に東北地方で吹き荒れた戦乱「前九年の役」です。


平安時代って御歯黒で語尾が「おじゃる」みたいな、のんきな人々が歌読んだり、蹴鞠したりと、日がな遊びほうけて暮らしたように思っているかもしれませんが、実際は違います。(そりゃそうだ)
…ちなみに、ひでるさんはそんなイメージでした。うわ、大阿呆ですね?

武士と荘園支配

山川出版社

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※写真ないのでイメージ画を本にて提供。


さて、この時代は日本全土が完全に朝廷の支配下であった訳でなく、特に関東より北は別勢力がとりあえず心服したという雰囲気でした。
後に武家の名誉職的な色が強くなる「鎮守府将軍」も、本来はそんな北勢力からの防衛のために緊急に設置される役職でした。
(※神話での日本建国も九州から攻めのぼったらしく書いてありますよね。そんな関係で、東国はまだ未知な領域だったのだと思います)


当時の蝦夷は安倍氏が勢力をもっていました。
(※東北から北海道あたり)
朝廷より派遣された国司と揉めた「安倍頼良」はそのまま反乱を起こします。
これには当時鎮守府将軍でありました「源頼義」が対応。
河内源氏の二代目で、関東にも地盤を持つ頼義は精強無比の坂東武士を率いてただちに鎮圧に向かいました。
これに驚いて不利と悟った安倍頼良は戦うことなく降伏。
「将軍と同音の名では申し訳ない」ということで「頼時」と改名し、事はいったん収まりました。

しかし、その後に源頼義の部隊陣営を何者ともしれぬ一隊が襲う、という事件が起こります。
頼義は犯人を安倍頼時の息子貞任と定め、彼を罰しようとしました。
「それは冗談ではない!」
と抵抗した安倍親子は一族を上げて再び反乱を起こすと、ここに何年も続く戦乱が始まるのです。
(※実は源頼義が挑発のために、わざと事件を起こしたのだとも言われてます。これが真実だと、見方変わりますねぇ…)

衣川(岩手県平泉市)の柵に立て籠もった義時はここで頑固に三年間ほど間抵抗をします。
しかし、策にはまった義時はあえなく討ち取られてしまいます。
それでも息子の「安倍貞任」はなおも健在で、父の仇とばかりに抵抗を続けていました。

天喜五年(1057)
十一月に勃発した「黄海合戦」では、雪による寒さと飢えに苦しむ官軍は地理に明るく寒気にも慣れていた貞任の軍勢に大打撃を受け、全滅の危機に陥ります。
若い「八幡太郎義家」が殿軍として活躍したのはこの時です。

しかし、結果的にこの敗戦は大きく、単独での戦いが困難となってしまいました。
そこで、源頼義はやむなく出羽に勢力を持つ豪族清原氏に辞を低くして助力を願いました。この度の合戦で清原氏は中立を保っていたのです。

これに応じた清原家の当主光頼は弟の「清原武頼」を総大将とする大軍を派遣します。
その数は一万あまりとの話もありますから、かなりの大兵力だったようです。ちなみに、伝え聞く源頼義軍は三千程度だそうなんで、単純に三倍です。
清原家の参戦で戦況が覆るのも納得できる兵数です。

この変化によって再び追い詰められた貞任は厨川の要害にて抵抗するも、義家の火計によっておびき出され、ついに捕らわれてしまうのです。

…先端が開かれてから、なんと十二年のことでした。
この年数計算が間違って、「前九年の役」と言われているのです(本当)
めでたし、めでたし。

あれ、「前」があるってことは……?


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詩仙堂・丈山寺 (京都)

2006年07月13日 | お寺
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本日は京都は左京区の「詩仙堂・丈山寺」です。

さて、難しいですよ。
この「詩仙堂」正確には、六六山詩仙堂丈山寺(ろくろくざんしせんどうじょうざんじ)といいます。
舌かみそうでしょう?
現在は曹洞宗のお寺となっておりますが、本来はは凹凸窠(おうとつか)の一室でした。この凹凸窠ってのは漢字の形状そのまま、”デコボコの土地に建てた住居”という意味だそうです。
昔「石川丈山」という人がおりまして、その方の隠居庵みたいなものだったようです。

さて、この石川丈山(いしかわじょうざん)って何者なんでしょうか?


天正十一年(1583) 時代としては「賤ヶ岳合戦」のあった頃です。
石川丈山は三河(愛知県)にて武士の石川家に生まれました。
家は代々徳川家に仕える譜代の家臣であり、そのまま丈山も十六歳にて家康に仕え、その近習となりました。
この緊迫した時代に近習(※小姓のようなものです)となったくらいですから、それなりに能力を認められていたようですね。

丈山が三十三歳の頃には、勃発した「大坂の陣」にて手柄を立てますが、何か思うところがあったのか録を辞し、京都にて藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事。
朱子学など学問を学びました。
その後は母を養うため、広島浅野家に十数年ほど仕えております。ちゃんとした学問による知識があったため、重宝されていたようです。

しかし、母の死去によって完全に引退し、再び京都に戻ってきた丈山はここで悠々自適な生活をするようになるのです。

寛永十八年(1641)
当時はもう五十九歳となっていた丈山は隠棲のために山荘を建立します。
それが、この詩仙堂なのです。

学問に優れ、茶道の奥義を極め、庭園設計の技術をもち、林羅山など文化人とも交流があった石川丈山。
そんな”マニアック”な人の棲家が簡単なもので済む訳がありません(笑)

建物や庭園などを十の区画にわけ、それぞれにアトラクションというか、見所みたいなものを設置したんです。
それは「凹凸窠十境」と呼ばれています。
こんな感じ↓

1) 小有洞の間  (※しょうゆうどう)
2) 老梅関の門  (※ろうばいかん)
3) 詩仙の間
4) 至楽巣     (※しらくそう)
5) 嘯月楼     (※しょうげつろう)
6) 膏肓泉     (※こうこうせん)
7) 躍淵軒     (※やくえんけん)
8) 洗蒙瀑     (※せんもうばく)
9) 流葉ハク    (※りゅうようはく)
10) 百花塢     (※ひゃっかのう)

…どーでもいいですが漢字難しすぎですよ、丈山さん。
でね、その「詩仙の間」には日本の三十六歌仙になぞらえて、中国の詩人三十六名を選出(※林羅山と相談しながら)、狩野探幽に描かせたそれぞれの肖像画を壁に並べて楽しんでたそうですよ。
それで「詩仙堂」の名がついたんだって。

ああ、疲れた。
そんな風流に溢れてこぼれそうなところなので、はっきり言ってお庭を楽しむお寺なのでした。
(↑正直、ひでるさん的にはちょっとつまんない)
僧都(そうず:猪威しです)の音がかぽーんと響く、庭園マニアには堪らないお寺ですよ。



[住所] 詩仙堂 丈山寺 京都市左京区一乗寺門口町27

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※ぴったりなのを発見しました。…写真集だって。
 ね、お庭を楽しむところなのですよ。

詩仙堂の四季―水野克比古写真集

東方出版

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安倍氏、韓国大統領見解に「いちいちコメントしない」

2006年07月12日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
いきなりごめんなさい、本来このブログは歴史・お寺関連ネタでやっていく考えだったんですが、日本を取り巻く情勢の変化もあって最近は時事ネタを何度かやらせていただいております。
今回もそんなんです。
いつもののんきなのとは違って言いたいことそのまま書きますんで、そういうのを不快に感じられる方はこのあたりで退避して下さい。
…ちなみに長いですよ。


さて、北の将軍様の蛮行によって、これまで口先で平和だのなんだの言っていた「敵」が姿を見せつつあります。
いいんだか、わるいんだか分かりませんが、とりあえずコチラ↓をご覧下さい。


◎韓国:有力紙一斉に「日本大騒ぎ」の大統領官邸を批判 2006年7月11日 [毎日新聞]

 北朝鮮によるミサイル発射への日本政府の対応を「大騒ぎ」と批判した韓国青瓦台(大統領官邸)の9日の文書公表に対し、同国の有力紙は10日、非難の社説を一斉に掲載した。
 朝鮮日報の社説は青瓦台ホームページに掲載された文書の主張を、▽盧武鉉(ノムヒョン)大統領の関心事は国民の安全と、国民を不安にさせないこと▽北朝鮮のミサイルは誰を狙ったものでもなく、危機とは言えないから、日本のように未明から大騒ぎする理由はない--などと要約。
 この主張に対し同紙は、韓国政府がミサイル発射が迫ったとの情報を得ながら自国の民間航空機や漁船への警告を怠ったとして「国民の安全」軽視を非難。5日の発射実験が韓国にとって脅威でないという主張にも厳しく反論した。
 東亜日報は、多弁な盧大統領が北朝鮮のミサイル問題については「発射の兆候キャッチから発射後まで2カ月近く一言も発言していない」と疑問を提示。その一方で出てきた青瓦台文書を「強弁」だと批判した。
 中央日報も、盧政権について「こんな人々に安保を含む国家運営を任せてよいのか心配だ」と指摘。文書が日本政府を批判したのは「(韓国政府の)未熟な対応を自ら美化する」ものだと非難した。 【ソウル中島哲夫】
---------------------------------- 。。。

しっかり批判されてますね(笑)
そりゃ、そーでしょう。ミサイルばんばん撃っている相手に「おいおい、何やってんだよ!」となるのは誰しも同じ。これは日本に限ったことではなく、各国もそんな感じでした。あちこちお互い電話し合ったり、緊急に集まったりしてましたよね。
それを大騒ぎって批判するのは、日本だけでなく各国の対応を批判したのと同じだと思うんですが。

わかりきったことですが、アンタどっちの味方よ?

…というところでしょう。さらに次↓。


◎韓国報道官、日本の「侵略主義的傾向」に言及  2006年7月11日 [読売新聞]

 韓国青瓦台(大統領府)の鄭泰浩(チョン・テホ)報道官は11日の記者会見で、北朝鮮のミサイル発射を受けて、額賀防衛長官らが敵地攻撃能力の保持を検討すべきだと言及したことに対し、「日本の侵略主義的傾向をさらけ出したものとして、深く警戒せざるをえない」と述べた。
 青瓦台は9日、ミサイル発射後に日本が「大騒ぎ」したと批判しており、報道官の発言も盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の対日不信を改めて示したものといえる。
 鄭報道官はさらに、「『先制攻撃』のような危険、挑発的な暴言で朝鮮半島の危機をさらに増幅させ、軍事大国化の名分にしようとする日本の政治指導者の傲慢(ごうまん)に強く対応していく」と反発した。【ソウル=福島恭二】
---------------------------------- 。。。

あのね、まだなーんにもしてないのに、その類の言葉が出ただけでこんなん↑ですよ。
どっち警戒してんでしょう。
だいたい、どさくさまぎれにアンタらはなにやってたんですかー?
挑発的な言葉だけでなく、行動でもやってたじゃない。それとも、それすら理解できないような民族なんですか?

だいたい、いまのだらけきった日本が軍国主義になんてなるわけないでしょーに!
そこらの若者を見てみなさい、誰一人として軍人になんてなれませんよ。(※ひでるさん含めて)
…というか、恥ずかしくて外に行かせられません。中には驚くくらいまともな子もいますけどねぇ。

さて、そんなキ●ガイの対応に疲れた安倍官房長官のコメントがこちら↓。


◎安倍氏、韓国大統領見解に「いちいちコメントしない」  2006年7月11日

 安倍晋三官房長官は11日午前の記者会見で、安倍氏ら日本の閣僚が、現在は日本が持っていない敵基地攻撃能力の保有検討に言及したことに対し、韓国大統領府が「日本の侵略主義的傾向が出ていることに深く警戒しなければならない」との見解を示したことについて、「そうしたコメントについて、いちいちコメントはしない」と述べた。
 大統領府見解が北朝鮮によるミサイル発射問題に影響を与えるかに関しては、「あまり関係ない」と語った。
---------------------------------- 。。。

さすがは次期総理大臣候補。
もうどうでもいいですよね(笑)
いちいちガキを構っていられないよ、と。

ついでに書けば、最近話題の夢設備「ミサイル防衛システム
莫大な金額がかかる上に(※そりゃ、どこからともなく飛んでくるのをサーチして撃ち落すってんだから、生半可な金額ではないのですよ)、現実的には相手の撃ってきた拳銃の弾丸を同じように拳銃の弾丸で落とすようなもの、だそうです。
どうですか、こんなんシティーハンターの世界ですよ。

だから、固定されている発射前のミサイルを狙う方が遥かに確実で、金額だって段違いに安価で済むんです。
「それも検討したほうがいいのでは?」
…って議論にならないほうが普通に考えておかしい。国民の安全を守るのが国家であり、政府の役割なんですから。
でね、キ●ガイがなんと国内にもいるというのが、日本の問題点です。↓こちら。


◎「敵基地攻撃は雑ぱくな意見」 小沢代表が批判  2006年7月11日 [産経新聞]

 民主党の小沢一郎代表は11日午後の記者会見で、北朝鮮のミサイル発射を受け額賀福志郎防衛庁長官らが敵基地攻撃能力保有の検討を表明したことについて「敵というのは北朝鮮とは限らない。そういう雑ぱくな意見はあまり良くない。国民全体、国全体のことを考えて発言しないといけない」と述べ、額賀氏らの発言を批判した。
 小沢氏は「こっち(日本)に攻撃していない今の段階では、北朝鮮のミサイル基地をたたくことはできない」と指摘、敵基地攻撃はあくまでも有事段階での対応との認識を示した。
 社民党の福島瑞穂党首は国会内で記者団に「専守防衛から逸脱する。相手国から見れば侵略とみられかねない。憲法にも明確に反する」と批判。「今(検討論が日本で)言われ始めると、北朝鮮や韓国、中国との関係で緊張を高めることになる」と強調した。
---------------------------------- 。。。

はい。中国・韓国でエラクいい思いしていそうなお二人が日本の政治家とは思えないような不可解な妄言をのべておられます。
…って、小沢さん帰ってきたんですか?…んだよ、ずっと中国に居続ければ良かったのに。誰も困らないから帰ってこなくていいのにー。

しかし、敵基地攻撃能力がそのままイコール侵略ですか?!
アンタらどこの国民ですか?
そんなに一発目を受けたいのなら、あなた方の家の真上にミサイル投下してもらえばいい。

私は、家族も友人も、もちろん自分自身もくだらん攻撃で失いたくはないです。はっきり言って。
上であげたミサイル防衛が完璧ならば、確かに攻撃能力なんて持つ必要はないと思います。ただ、現時点ではアレ夢の設備ですよ?一発も迎撃できない可能性のが高いと思います。高い金払っても無駄になる確率「大」なんですよ。

一発目の攻撃は甘んじて受けるような政府高官の発言では危機管理に疑問を感じる」 (八杉康夫さんの言葉 戦艦大和 元乗組員)

…戦争体験者はこう言っておられます。
他国は普通に所持している戦力を持つことはそんなに悪なんでしょうか?軍国主義は必ず復活するんでしょうか?日本人は過去の反省をまるでしない民族でしょうか?



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二十五菩薩 (誠心院)

2006年07月11日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
最近嫌なニュースばかりですんで、本日は景気良く人数も多い「二十五菩薩」です。


さて、ずらりと並んだこの方々。
五名だと五大明王、八名だと八部衆、十名だと十大弟子、十二名だと十二神将・十二天、十六名だと十六善神・十六羅漢、十七だと大鉄人……。
でねでね、数えて二十五名であれば今回の「二十五菩薩」であります。たぶん。

これは「阿弥陀如来」の来迎に従って、いまから往生しようとする念仏行者を浄土へと迎える、阿弥陀様に率いられた二十五名の菩薩ご一行様なのです。

…それをもうすこしわかりいい言葉で書きますと、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀様を信仰して唱えていた人がご臨終となった際に、仏様が住む清らかな世界へご招待するため、阿弥陀様以下支援団体が総出演で迎えに来た、というところです。

本気で仏教を信仰していた人が実際ご臨終となった際には、おそらく走馬灯の後に会うことができるんでしょう。
なんだっけ、どこかで聞きましたが、死を迎えた人にはふわーっと気持ちよくなるホルモンだかなんだかが分泌される(※うろ覚え)そうですが、会えるのはそんな時ですよ。
これが「フランダースの犬」を信仰していた人の場合はパトラッシュと天使たちとなるでしょうし、ひでるさんの場合は黒いガンダムか拳銃持った女の子が迎えにくると思います。いいなぁ。
…まぁ、希望的観測ですが。

で、なんでこんな団体でいらっしゃるかというと、極楽までに色々な飾りをつけてくれる装飾部隊、音楽・歌舞によって祝ってくれる祝福部隊と旅(?)を楽しくしてくれるためにいるんですね。
そのため、一人一人持っているものがちゃんと楽器とか装飾品になっています。もし出会ったなら、よく見てみて下さい。
これは平安時代の「往生要集」に二十五菩薩についての記述が、鎌倉時代の「二十五菩薩和讃」に持物と菩薩の名称についてきちんと書かれているそうです。
適当じゃないんですよ。

ちなみに、その「二十五菩薩和讃」にて解説されたものはこちら↓

No 菩薩名(もちもの)
----------------------------------
01 観世音(蓮台)
02 大勢至(合掌)
03 薬王(幢幡 ※どうばん)
04 薬上(玉幡 ※ぎょくばん)
05 普賢(幡蓋)
06 法自在王(華鬟)
07 獅子吼(鼓)
08 陀羅尼(舞いながら袖を持つ)
09 虚空蔵(腰鼓)
10 徳蔵(笙 ※しょう)
11 宝蔵(笛)
12 金剛蔵(琴)
13 金蔵(箏 ※そう)
14 光明王(琵琶)
15 山海慧(箜篌 ※くご)
16 華厳王(磬 ※けい)
17 衆宝王(鐃 ※にょう)
18 月光王(振鼓 ※ふりつづみ)
19 日照王(羯鼓 ※かつこ)
20 三昧王(天華)
21 定自在王(太鼓)
22 大自在王(華幢 ※けどう)
23 白象王(宝幢 ※ほうどう)
24 大威徳王(曼珠 ※まんしゅ)
25 無辺身(焼香)
----------------------------------

ああ、疲れた。
ちなみに京都は知恩院には、斜めの構図が新しい早来迎と名高い、国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図」が、即成院には木像の重文「阿弥陀如来及び二十五菩薩菩薩坐像」があります。
ぜひ見に行きましょう!


[住所] 誠心院 京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487

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⇒ 知恩院

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八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」

2006年07月10日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は八幡太郎で有名な「源義家」の有名エピソードについて。

後世になっても信仰を集める「八幡太郎義家」はこれだけ凄かったんだよー、という、その人柄が分かるようなエピソードをご紹介致します。
まぁ、知ってる方も多いとは思いますが、お付き合い下さいませ。


これは安倍氏との一連の合戦「前九年の役」での有名エピソードです。
反乱を起こした安倍氏の討伐に向かった、お父様の源頼義。
相手の思わぬ手ごわさに苦戦を強いられ、黄海合戦では大敗をした源軍は出羽国の長、清原光頼と結んで反撃を開始します。

衣川の柵(※)へ攻め寄せた義家以下の源軍は総大将安倍貞任を追い詰めました。柵の死守を諦めた貞任はただちに退却を開始、義家はすかさず追撃に移ります。
衣のたてはほころびにけり
何を思ったのか、義家はそう歌を詠みました。
正直な話、ひでるさんはその状況がぜんぜん見えないんですが、こんなとこはいかにも平安時代での合戦だと思います。
恋愛も合戦もどこかおとぎ話のようですね。
しかも、
年を経し糸の乱れの苦しさに
それを受けた安倍貞任はそう上の句をつけるんです。

…なんかお互いのんきくんな感じですが、その意外な風流に感じ入った義家はこの場では見逃すこととするのでした。
身長六尺、容貌魁偉で色が白かったという安倍貞任。
歌才もあり、風流人として知られる義家ですが、それに答えたは貞任も同様だったのでした。 


続いて「後三年の役」でのこと。
「清原家衡」軍の籠もる金沢柵へ行軍する源義家は西沼(横手市金沢中野)にさしかかっていました。
ふと義家が上空を伺うと、通常は整然と列をなして飛ぶはずの雁の群れが乱れていることに気付きます。
「さては付近に伏兵がいるに違いない」
そう判断した義家は逆に先手をうち、伏兵部隊の殲滅に成功したのです。

これには前話があり、先の「前九年の役」にて功を立てた義家に対し、大江匡房は
器量は賢き武者ねれども、なお軍の道を知らず
と、評していたのでした。

批評を伝え聞いた義家は辞を低くして、その匡房の元へ軍学を習いに行ったのです。
先の場面では、まさに教わったことをそのまま役立てたんですね。
これは「雁行の乱れ」といい、義家の人柄を知るエピソードとなっています。

この人の凄い点は素直に自分の欠点を認め、教えを請うたところでしょう。
なかなかできませんよ。
河内源氏の三代目で、しかも前の戦では大功をたてたばかりの義家です。
当時褒められることはあっても、厳しい批評はそうそうなかったはずですから。
普通なら怒りたい場面ですよね。じゃあ、テメエはどうなんだ、と。

また、実際にその場面に遭遇した際にちゃんと習ったことを応用できる、またそれに気付く点はちょっと地味ですが、彼がちゃんと学習・応用ができる優れた人物であることを物語っています。
天才肌ではなく、努力家なんですかね。


代々引き継がれた源家武闘派の素地と、和歌を理解する風流な面と、教えを受けた戦術の知識。それらを支える謙虚さと努力。
それが義家の凄さなのでしょう。

後々まで語り継がれ、尊敬されたのにはこうした面があったからなのです。
絵草紙の世界のみで活躍する「源頼光」にはそうしたものが感じられないですからね。


※衣川の柵(ころもがわのき)
 岩手県平泉町。柵、というのは当時の砦みたいな軍事拠点です。

※今回写真は源頼義も改築に参加した、鎌倉は「巽神社」です。

[関連記事]
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」 


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 …ですが、この時代の良さは子供にはわかんないんでしょうねぇ。

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戦力と自衛隊について 

2006年07月09日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
昨日に引き続きちょっと当ブログの趣旨から脱線しますが、本日は軍隊についてちょっとばかり。
まぁ、歴史関連ということで。


例えば日本が拳銃の所持を許される世の中であったとして…。
貴方が護身のため、家庭を守るために拳銃を持ったとしましょう。
そうしたらどうしますか?
試しに人を撃ってみます?
人とまではいかないにしろ、そこらの小動物でも狙ってみますか?

おそらく、そのどちらもしない筈です。
購入した拳銃は万が一のため、どこかに保管しておくのが普通でしょう。

ただ、この広い世の中には、残念ながら頭のつくりが異なった者がいます。あるいはそう教育されてしまった者もいます。
どうしてもそれを試したい気持ちを抑えられないのです。抑制ができないという点でみれば、精神的に大人ではないのでしょう。

小動物を、果ては人までを狙った事件は、モノ(武器)が違うだけで、この狭い日本でもまれに事件として見かけます。
考え方だって千差万別。
正義は人の数だけ存在します。よくニュースに登場するテロリストたちも、本人らは正義として活動しているのですから。

だから、自らを、愛する者を守るために拳銃(戦う力)は必要なのだと思います。
武器が完全になくなった世の中ではないから、思想は統一されていないから。
自衛手段として戦う力はやはり必要なのでしょう。
少なくとも私は、自分や家族に危害を加えようとする輩を絶対に許せないし、許さないと思います。
相手を許せるほど、人間は出来ていませんから。


さて、北からの脅威が本格化するなか、日本には対抗手段がありません。せいぜい、金を払って雇った用心棒がいる程度の状態です。
ただ、用心棒も意志を持っています。
かならず雇い主のために行動してくれるかわかりません。
よく時代劇であるように、裏切られることもあるでしょう。金なんてものは所詮その程度。

今の日本には、敵意を剥き出しにしたもの、平和を口で叫びつつもおかしな、自分勝手な要求をしているものがいます。
しかも、その全員は拳銃所持しており、こちらに向けているんです。
…日本は丸腰で笑っているのに。

どうしたらいいでしょう?
この先起こるかもしれない自国の紛争に、他国の戦力を頼みとするのでしょうか?
自らの問題解決のために、他国の兵が傷つき倒れるのをテレビでのんきに眺めるのでしょうか?
あるいは無条件降伏でもするのでしょうか?

我々自身が平和に値するようでなくてはいけない

どっかのアニメでそんな台詞がありました。(※ガンダムW)
いい言葉です。
平和とは単に争いを避けて問題を先送りにすることではないでしょう。
時には傷つくことも覚悟しなければならないと思います。
…これは人生と同じですね。
単に平和を待っているだけでなく、それを勝ち取るくらいの心が必要なのだと思います。

古館さんが昔ライブで言っていたように、「戦争まで外部委託するような、史上最低の民族」にだけはなりたくありません。
軍隊というものはやはり必要なんだと思います。そりゃ、なくて済むのなら理想的ですけどね。
日本の国防・自衛隊の問題については、そろそろ考え直すいい機会がきているのかもしれません。


ちなみに、昨日の記事にて、
【 追い込まれた北朝鮮が、逆に日本に危険な状況を作り出す展開を懸念しているとみられる 】
とありました。
確かにそうでしょう。
ただ、だからと言って拳銃振りかざして好き放題やっている犯人を見逃すつもりなんでしょうか?
とりあえず見守っておいて、他のだれかが射殺してくれることをひそかに祈るんですか?

んなの無責任ですよ。
係わり合いになりたくないだけでしょう?


※今回写真は「艦上戦闘機五二型」です。


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※こういった記事にはやっぱりこの本ですねぇ。
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制裁措置:世論「支持」92%と慎重姿勢の小沢代表

2006年07月08日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
まぁ、あまりのんびりとお寺をまわっているような状況でなくなってきている昨今。
本当は昨日に続き「源義家」の記事をアップしようと思っていましたが、どうしても見逃せないことがありました。
当ブログの趣旨からは脱線してますが、宜しければお付き合い下さい。


●北朝鮮ミサイル、制裁措置「支持」が92%…読売調査 2006年 7月 7日 [読売新聞]

読売新聞社は、北朝鮮がミサイルを相次いで発射したことを受け、6、7日の両日、緊急全国世論調査(電話方式)を実施した。
その結果、北朝鮮の貨客船「万景峰号」の半年間の入港禁止や人的交流の制限など政府が決定した北朝鮮に対する制裁措置を「支持する」は92%に達し、「支持しない」は5%だった。国連安全保障理事会で北朝鮮を非難し、制裁を実施する決議案の採択を目指していることについても、「支持する」が90%、「支持しない」は4%だった。
政府が検討している北朝鮮への送金や貿易を停止・制限する、さらなる経済制裁措置については、「早急に行うべきだ」が65%と多数を占め、「段階的に行うべきだ」28%を大きく上回った。ミサイル発射が国民に強い衝撃を与え、多くの人が北朝鮮に対する強硬姿勢を望んでいることが明らかになった。
---------------------------------- 。。。

今回の北朝鮮の行動には誰しも憤りを覚えた筈です。
ひでるさんは、「万景峰号」の半年間の入港禁止が甘すぎるとさえ感じていました。
あちこちのブログ記事でも書かれていましたが、もはや言葉が通じる相手ではありません。変な逃げ道を与えずにもっとギチギチに締め上げるべきだと思います。(※中国とロシアが厄介なんですがね。あの二国だって顔に泥塗られたようなもんなのに、まだ庇うってのはよほどいい思いしてるんでしょうか?)

拉致の一件でも分かるでしょう。
対話がいかに効果ないものか、先の会見やこれまでの経緯を見ていれば、普通は無駄だと思うでしょう。
ところが、「支持」92%に当てはまらない人がおりました。
これもあちこちのブログで非難されていましたが、ご確認下さい。
↓こちらです。


●北朝鮮ミサイル:小沢民主代表が、経済制裁に慎重姿勢 2006年7月5日 [毎日新聞]

中国訪問中の民主党の小沢一郎代表は5日、天津市で記者団に対し、北朝鮮のミサイル発射を受けた経済制裁発動について「そんな簡単にできるものではない」と慎重な姿勢を示し、「圧力より対話」の姿勢を強調した
小沢氏は「経済制裁は強制力、軍事力を使うところまで行ってしまう。国民は冷静に考えないといけない」と指摘。政府の制裁方針について「本気で言っているのかと問いたい。6カ国協議もあるのだから、話し合いのなかで解決させていくのが良いと、現時点では思っている」と語った。

小沢氏は同日、中国共産党の李軍対外連絡部局長と急きょ会談。「極東の平和に対する挑戦的な行為。中国からも北朝鮮に、挑戦的な行動をやめて6カ国協議で解決するよう指導してほしい」と要請した。6日にも予定になかった王家瑞・中国共産党中央対外連絡部長との会談を行い、「対話路線」を訴える予定だ。
小沢氏は、経済制裁で「兵糧攻め」にすれば、追い込まれた北朝鮮が、逆に日本に危険な状況を作り出す展開を懸念しているとみられる。

ただ、同党内にも制裁論は少なくない。同日の党対策本部の初会合では「政府はもっと厳しい対応策をとるべきだ」との声が出た。他の野党も「経済制裁を含む適切な措置を取ることはありうる」(志位和夫共産党委員長)「一定の制裁もやむを得ない」(福島瑞穂社民党党首)など制裁容認論に傾いている
【天津・衛藤達生】
---------------------------------- 。。。


共産党や社会党もめずらしく経済制裁を支持してますね。
うんうん、そりゃ当たり前でしょう…ってなに!?
小沢さん、何言ってるんですか!?

「話し合いのなかで解決させていくのが良い」
って、アンタ。
こっちが「本気で言っているのかと問いたい」ですよ。
日本人ですよね??大陸の方でしたっけ?

こんな時期に何しに中国なんぞへ行くのかと思っていましたが、あちらで豪華な接待でもされたんでしょうか?

…民主党内でも制裁論は少なくないそうですよ。
もう分裂するんですか?さきの前原元代表といい、ウンザリです。
本当に「河村たかし」さんあたりが代表やった方がいいかもしれませんね。(※この人たまにいいこと言うし)

もう、そのまま中国にいたらいいですよ。
帰ってこないで。


……えーまだ書きたいことあるんですが、長くなってしまったので明日にします。



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※こんな時代だからこういう本を読みましょう。
 何事でも傷つくことを恐れていては前に進みません。戦争も人生も同じことです。

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天下一の武勇 八幡太郎「源義家」

2006年07月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は通称八幡太郎こと「源義家」です。

他の時代はよく知らないけど、戦国時代は好き!
…なーんて人でも、ちょっと聞き覚えがある名前ではないでしょうか?
あの時代は系図(血筋ですね)を重視しましたんで、清和源氏の家系~とかなんとか書いてあるのを目にしたこともあるでしょう。
要するに、武家の基を築いた人なんですね。
ちょっと知っておくと戦国がより深く理解できると思いますんで、ぜひお付き合い下さいませ。

武士の誕生―坂東の兵どもの夢

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時は平安時代、その後期。
河内源氏の本拠地であります、河内石川郡壺井にて「源義家」は源頼義の長男として生まれます。幼名は源太。
…帽子かぶったカメラマンではないですよ。(←それは玄太。わかんないか)

ちなみに父頼義は「源頼信」の子ですんで、その孫にあたります。
もともと、源氏武闘派な血筋なんですね。

義家は京都郊外の「岩清水八幡宮」にて元服したところから、「八幡太郎義家」と称されるようになりました。こっちの響きのが有名です。

天喜五年(1057)
命を受けた鎮守府将軍の父頼義は兵を率い、奥州阿部氏と激突しました。これが世に言う「前九年の役」です。嫡男の義家もこれに従軍しています。
北国の寒さと長期の陣による飢えで苦しむ頼義の官軍は「黄海の戦い」にて思わぬ敗北を喫します。
しかし、自ら殿となった義家はわずか六騎ばかりで立ち塞がると、次々に敵を射落とし、それを退けるという大功を立てました。

「射る矢はまるで神の如し」

とまで絶賛され、大いにその名を上げました。
その後、奥羽の豪族「清原氏」の助けを借り、陸奥阿部氏を制圧。
その褒美として従五位下出羽守を叙任。
さらに永保三年(1083)には、父と同じ鎮守府将軍に任ぜられております。

その後、前九年では共に戦った清原氏にて内紛が勃発します。
世に言う「後三年の役」です。
清原清衡(きよはらきよひら)を支持した義家は、清原家衡(きよはらいえひら)と激突。
激しい攻防戦となりますが、抵抗が凄まじく沼の柵はなかなか落ちません。
思案を巡らせた義家は包囲を強め、家衡軍を兵糧攻めにして降伏させることに成功しております。
ちなみに、これは日本で最も古い兵糧攻めとされております。

さて、三年の長期に渡る反乱は無事おさまりましたが、朝廷はこの合戦を清和源氏の内紛として一切褒美を与えませんでした。
この時に義家は自らの私財をなげうって褒賞を与えるんですが、この一件で「さすがは源氏の頭領さまやー」という具合で、大いに信望を高めたといいます。

こうして支持を集める義家を警戒するようになった白河法皇は、対立する摂関家の戦力でもあった河内源氏一派を慣れぬ西国へ赴かせたり、荘園を没収するなどし、その勢力を削ぎました。
義家の晩年はそうした苦境の連続であったようです。
最後には九州で乱を起こした子の義親(※この人東国に地盤を築いたにもかかわらず、西国へ行かされてます)討伐を命じられますが、その直前に没しております。
享年六十七。

最後はそんなでしたが、「源義家」は上で紹介したような華々しい武功だけでなく、歌才もある文武両道の武士でした。
その名声は後世まで残り、武士の理想像として後々まで尊敬され続けることとなるのです。


[関連記事]
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」


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八杉康夫さんの言葉 (戦艦大和 元乗組員)

2006年07月06日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
昨日、当ブログでは珍しく大東亜戦争関連の記事をアップしましたが、偶然にも不穏な空気となってしまいました。
これがすぐそのままよからぬ事態まで発展するとは思えませんが、この件に関して日本は当事国であります。
多少の覚悟はするべき時なのかも知れません。

そんな訳で今回は、先ごろ映画でやりました「男たちの大和」の関連サイトで紹介されていた文をそのままお届けしたいと思います。
(※すみません、掲載先は失念してしまいました)

□□□□ □□□□ □□□□ □□□□ □□□□ □□□□ 

戦争は日本的な阿吽の呼吸では回避できない。
外国は文化が違う。
専守防衛を間違えてもいけない。
一発目の攻撃は甘んじて受けるような政府高官の発言では危機管理に疑問を感じる。

あのスイスにも軍隊はある。
戦争そのものが被害で被害者も加害者もない。
それを知り,平和を自分らでつくる自覚がいるのではないでしょうか
生かされた第二の人生。
戦争を体験した者として日本の未来のため,納得して死にたい。

 旧日本海軍の戦艦大和の元乗組員で重油の海から生還した八杉康夫さんより

□□□□ □□□□ □□□□ □□□□ □□□□ □□□□ 

平和を願うのは誰しも同じことです。
ただ、よく日本人の平和論者が唱えるそれは、単に「自分が巻き込まれたくない」、「無関係でいたい」だけに聞こえるときがあります。
世界に紛争がある限り、なくならない限り、おこそうと企む者がいるかぎり、いつまでも戦争放棄をしている場合ではないと思っています。

…そりゃ、なんでも話し合いで解決すればいいですけどね。
個人同士でさえ無理なんですから、国単位でそれが夢物語だってわかるでしょう?



※今回写真は「八九式加農砲」です。


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※貼っといてなんですが、正直TV放送待ったほうがいいと思います(笑)
 それなりに伝わってくるものはあるんですが。

男たちの大和/YAMATO 限定版

東映

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終戦三日後の攻防 「占守島の戦い」

2006年07月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は大東亜戦争の一幕「占守島(しゅむしゅとう)の戦い」をお伝え致します。


これは靖国神社にて配布のパンフから引用・編集した記事となっています。
戦いなんてのはね、正直な話どうでもいいんです。
もちろん、本当に良く頑張ってくれたとは思っていますが。
ただ、ここでひでるさんが伝えたいのは、その際に島を守備していた第九十一師団の命をかけた心遣いです。
これは、当時の日本軍人がどのようなものであったのかを知ることができる、実にいい資料であると思います。


昭和二十年。
天皇の詔勅(※)に従い、千島列島北端の島「占守島」では武装解除が進められていました。
しかし、そこにソ連軍が突如上陸を開始し、攻撃を仕掛けてきたのです。

当然ながら日本のポツダム宣言受託、降伏を知っているソ連軍ですが、当時首相であったスターリンの領土拡張方針に従って北海道の占領を目論み、手始めに占守島への上陸を開始してきたのでした。

「占守島は一日で占領する」
そう豪語していたソ連軍。

上陸を察知した第五方面軍・第九十一師団は急ぎ再び戦闘配備をし、ソ連軍と激しい交戦を開始します。
陸海軍・航空隊による決死の反撃、銃砲部隊の活躍でソ連軍の指揮系統は一時大混乱に陥りました。
ソ連軍の艦砲射撃に対して、戦車隊を指揮した日本軍はソ連軍を圧迫し、多数の死傷者を出しながらも海岸付近へ釘付けにして一歩も前進を許さなかったそうです。

やがて、停戦交渉によって戦いは終結。
当初は一日で占領する予定だったものが、こちらで一週間もの間ソ連軍を足止めした結果、北海道の占領計画をも阻止したのでした。
一説には、日本軍は約八百名、ソ連軍は三千名ほどの死傷者を出したそうです。


…そんな「占守島」には日魯漁業の従業員二千五百名あまりが国民の食糧確保のため、悪化する戦局を承知で働いておりました。その中には約四百名あまりの若い女子工員も混じっていたそうです。
終戦を迎え、内地から迎えの船にて送り返す手筈であったところに、先のソ連軍の攻撃があったのです。

占守島を守備する第九十一師団の参謀長・大尉は、
このままでは必ずソ連軍に陵辱される被害者が出てしまう。なんとしても北海道へ送り返そう
と相談をし、当時島にあった独航船(どっこうせん)二十数隻に四百名の女子工員らを分乗させ、霧に覆われる中北海道へ向けて出航。ソ連機の爆撃が続く中、第九十一師団は必死の援護攻撃を行い、一人も欠けることなく無事送ることに成功したのです。
停戦後に上陸してきたソ連兵士は女性を捜し回ったそうですが、この心遣いのため一人の被害者も出なかったのでした。


どうですか?
毎度書くように、これが全てではないでしょうし、心無い人もいたでしょう。
ですが、あの当時の厳しい教育を受けた日本人たちが世界に恥ずべき行為をしたとは到底思えません。しかも、ちょっと調べれば嘘・捏造だってわかることです。
…ここで細かくどれがどうのとは書きませんが。
私らのおじいさん、おばあさん、身近な祖先を敬えないような連中はどこへでも行ってしまえばいいんです。



(※)詔勅(しょうちょく)
 天皇の発する公式文書の総称。みことのり。 [goo辞書]


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※この本には上で紹介した記事はありませんが、オススメです。できれば若い人に読んで欲しいですね。

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清水寺 (静岡・音羽山)

2006年07月04日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都…とみせかけて静岡は音羽山の「清水寺」です。


いいですね、清水寺は。
その清水寺…って聞くと、普通は”清水の舞台”で有名な京都のそれを思い出すでしょう。
でもね、関東とかそれより東にお住まいな方にしてみれば、京都ってーのは遠いんですよ。
東京なら新幹線で三時間くらいですか?
……あれ、結構身近ですね。…じゃない、話進まないので「遠い」ということにして下さい。


そんな時にはこちら!
なんと静岡にもありましたよ、清水寺!!
京都が遠い貴方は近場で我慢してみてはいかがでしょうか? (←無茶いうな)


こちらは永正元年(1504)
…というから、室町時代の後期あたり。信長の父、織田信秀が生まれたのが永正七年、北条早雲の死亡が永正十六年でした。時代としてはそれくらいのお話。

過去に印隔法印(いんゆうほういん)という人が開いた学問所がこのあたりにあったそうなんですが、当時駿河国を支配していた今川家八代氏輝の遺命によって、その跡地に清水寺は建立されました。

この「今川氏輝」ってー人は桶狭間合戦で無念の討死をする義元の兄です。
二十三歳で突然死(天文五年(1536)死去)したため、それを切っ掛けに後継者争いが勃発。相模北条家の支援を受け、勝利したのが海道一の弓取り「今川義元」ってわけ。(※花倉の乱)

と、話を戻して音羽山「清水寺」
永禄二年(1559) 今川家家臣「朝比奈元長」によって創建。

開山にあたって、京都から尊寿院大僧正道因(そんじゅいん・だいそうじょう・どういん)が招かれたと伝えられています。
大僧正ですよ、めちゃエライ人ですよ。ドラクエだとベキラマとか唱えてきますよ、たしか(笑)

で、この地からの眺望が素晴らしく、京都清水寺に似ていたところから、道因は音羽山「清水寺」と名づけたそうです。

境内には後に徳川家康が建立した観音堂から、薬師堂・聖天堂・金比羅神社、さらには松尾芭蕉や山村月巣らの句碑、石仏などがあちこちに並ぶ歴史の宝庫でもあります。
ただ、残念ながら各お堂は一般公開されていません。残念ながら。
(※規律とか厳しいお寺だそうですよ)
外の句碑や石仏と、京都・清水寺を想像させる眺望を楽しんで下さいね。



[住所] 音羽山 清水寺 静岡市葵区音羽27-8

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※と、言う訳で名作「ドラゴンクエスト2」
 ひでるさんは現在携帯でプレイ中です。邪神の像を捜索中ですよほー。

ゲームボーイドラゴンクエストI・II

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鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」

2006年07月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は河内源氏「源頼信・源頼義」親子についてです。

実はこないだから、こっそり”源氏祭り”を開催中な当ブログ。
一応時代順に書く(つもり)なので、見ていくと武家の流れがわかるかも。…わかんないか。
まぁ、いいか。
ともかく、武家として最も発展していく河内源氏の起こりってのはどんなであったのか、ざらりと見てみましょう。


安和元年(968)まだ平安時代の頃。
源氏武士団を形成した源満仲の三男として「源頼信(みなもとのよりのぶ)」は生まれました。

この頃は天皇の外戚となった藤原氏が摂政・関白に就いて政治を取り仕切る「摂関政治(せっかんせいじ)」の時代で、多大な権力を有していました。
その「藤原道長」に兄頼光と共に仕えたのが「源頼信」です。
京にて基盤を築く兄と違い、各地の国司となったり、反乱を鎮圧したりと、常に現場にて実行部隊として活躍。
その武勇は「藤原道長四天王」の一人に数えられるほどでした。
(※他の顔ぶれは藤原保昌、平維衡、平致頼、の三名)

房総三国(上総・下総・安房)で起きた「平忠常の乱」では、当初朝廷より派遣された討伐軍が次々に撃破され、三年に渡る長期戦となっていました。事態を重く見た朝廷は打開策として遂に「源頼信」を起用。
万全の体制で下向した頼信に対し、長陣にて疲弊していた忠常軍は敵わぬとみて降伏しました。
この一件によって、源頼信は東国にて大いに名を上げ、坂東八平氏(※桓武天皇の子孫。平姓を賜り、家来となっていた)と呼ばれる多くがその配下となるのでした。
これを切っ掛けとして河内源氏は東国でも勢力を有することとなるのです。
父同様「源満仲」と同様に「鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)」にも任ぜられています。

永延二年(988) まだ平安時代。その中期頃。
源頼信の嫡子として、河内源氏の本拠地、河内国石川郡壷井の「香炉峰の館」にて「源頼義(みなもとのよりよし)」は生まれました。
父同様に武勇に秀で、「平忠常の乱」ではそれに従軍しております。

関東は鎌倉あたりにに本拠を持っていた、やはり武勇でその名を轟かせる「平直方(たいらのなおかた)」は頼義の武芸に魅せられ、自らの娘を差し出し、屋敷をも明け渡しました。

この両名の血を受けた子なら、源氏の棟梁として相応しい剛の者が生まれるだろう

そんな思惑があったとか、なかったとか。ともかく、両者の間に生まれた子「八幡太郎義家」、「賀茂次郎義綱」、「新羅三郎義光」らはまさしく源家の棟梁たる活躍と実績を残すこととなるのでした。

蝦夷の豪族「安部氏」が背いた「前九年の役」では、陸奥守兼鎮守府将軍となっていた頼義は精強無比の坂東武者らを率いて出陣。北の寒さと飢えに苦しみながらも、嫡男「八幡太郎義家」の活躍や出羽の豪族清原氏を味方としたことで戦況を逆転、この鎮圧に成功しております。

戦端が開かれてから十二年の歳月を要したこの討伐戦は後に年数を誤って伝えられたため、「前九年の役」と言うそうです。
間違ってるんですかい?!



[関連記事]
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?


※今回写真は単なる武士イメージです。こんなんですよね。


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 戦国好きな皆様、平安時代の武士たちもなかなか面白いですよ!

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源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?

2006年07月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は四天王シリーズ(そんなんない)、妖怪退治で有名な平安期の英雄「源頼光と四天王」についてです。
前回、前々回と頼光さまだけで終わってしまったので、今度は四天王についてです。
四人もいるのにブログ一回で終わるところが、なんだか実在をほぼ否定しているようですね。
うふふ…。

とりあえず、それっぽい人は間違いなく存在していたようです。
頼光は武士団を形成した父「源満仲」より、摂津のそれを引き継いでおります。
そうすると、おそらくは直接指揮をする部隊長的な人が存在していた筈ですよね。実際の活躍としては、さしてないんでしょうけれど。

面白いんで、実在しそうな雰囲気がある順↓としてみました。
とりあえずどうぞ。


①渡辺綱(わたなべのつな)

嵯峨源氏の流れをくむ、箕田源氏宛(あつる)の子。頼光の父である「源満仲」の婿、源敦(みなもとのあつし)の養子だったため、その縁もあって頼光に仕えることとなったようです。

平家物語「剣巻」
一条堀川にかかる戻橋に渡辺綱が馬で通りかかると、ふと美女に呼び止められました。
「ちょっと屋敷まで送ってくださいな?」
綱は美女を馬に乗せて走り出しますが、これがなんと美女に化けた鬼、茨木童子(いばらぎどうじ)だったのです!!
突然襲われた綱は逆に茨木童子の片腕を切り落とし、難を逃れました。

うわ、いきなり背中をとられてしまったわりにずいぶん強いですね!!
単独で鬼を撃退したこの一件でも分かるように、四天王の筆頭で剛勇の主として知られています。しかも美男子としても有名で、先祖(四代前)の嵯峨源氏、源融(みなもとのとおる)は、源氏物語の主人公「光源氏」のモデルだった人なのです。
ちなみに、後の源平合戦で活躍する難波水軍渡辺党の始祖でもあります。


②碓井貞光(うすいさだみつ)

または平貞光(たいらのさだみつ)とも言います。
旧中山道沿いの碓氷峠には「碓氷貞光神社」があり、ここは貞光とその父二人を祀っているそうです。

天暦八年(954)
貞光はその碓氷峠山中にて橘貞兼の子として生まれました。
順調に育った貞光は京にて活躍、いつからか源頼光に仕えてその四天王の一人となり、大江山の鬼退治から平安京郊外の北野神社にある塚に隠れていた土蜘蛛退治などにも参加、功を立てております。

永延三年(989)
越後から上野へと抜ける道中にて、野宿を決めた貞光は静かに読経をしておりました。
「汝が読経の誠心に感じて四万の病悩を治する霊泉を授ける。我はこの山の神霊なり」
あたりが薄暗くなった頃、いつしか目前へ現れていた子がそんなことを言いました。
ふと目覚めた貞光は言葉に従って付近を捜索し、温泉を発見するのです。
見つけた温泉を「御夢想の湯」と呼び、この地は先の神託から「四万の郷」と名付けたそうです。
これが四万温泉のいわれだそうですが…もしかして読経して寝てましたか?
”汝が読経の誠心に感じて”ってほんとか??

さて、京にて活躍した貞光はその後故郷の碓氷峠へと戻ります。
碓氷峠にはあるときより大蛇が住み着き、往来の人々や住民に多大な被害を及ぼしていました。これに十一面観世音菩薩の加護を受けた貞光は大蛇と対決し、見事これを撃退しました。
その後、自ら碓氷山定光院金剛寺を建立し、この時守護してくれた観音さまと退治した蛇骨を納めております。


③卜部季武(うらべすえたけ)

卜部、は占いを生業とする氏族の総称です。そのため、彼もその関係者であると推察されていますが、詳細は不明。
弓の名手として知られ、百人の武将相手に一人で戦うとまで言われていました。
今昔物語二七巻には、美濃国に現れた産女(うぶめ)との度胸試しのお話があります。

うぶめが出るという噂の川へ行くこととなった季武は、川の中ほどまで馬をすすめました。
「これを抱け」
出現したうぶめはそう言って子供を差し出します。
その子供を受け取った季武は、今度は追ってくるうぶめを振り切り、なんとか館へと戻りました。
抱いてきた子供はいつしか木の葉となっていたそうです。

…何の話だ、これ??
すみません、資料がないので詳しく分かりませんがそんな感じのようです。


④坂田金時(さかたのきんとき)

いわゆる金太郎のモデル。
山姥を母に、雷神の赤龍を父にもちます(大笑)
ほぼ江戸時代に色々脚色された人でして、お伽話の大ヒットで今では最もポピュラーではありますが、実際はいたかどうか疑わしい人ですね。
とりあえず、近衛兵として「下毛野公時」という人がいたことは間違いありません。


…以上が四天王の面々でした。
何しろ頼光さま自体が戦にも出ない人でしたから、その配下ともなるとあやふやなもんです。
知られている大抵のものが、御伽話とお芝居から創作されたものでして、それが一般化した…というのが本当のところでしょう。



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[住所] 足柄聖天堂 小山町竹之下 3649

 ※今回写真は「足柄聖天堂」の熊騎乗の金太郎石像です。

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※衝撃の最終巻です。(三巻はすっとばしましたが)

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