ひだまりクリニック~産んだ後にも母親学級~

杉並区で小児科医がひらいている母子で集えるクラスです。

子どもがあっけなく亡くなってしまってたちょっと昔(2世代くらい前のこと)

2014-08-17 00:41:22 | 子育てあれこれ

ごきげんよう~

とくれば、「花子とアン」

テレビもないネットの接続も悪い田舎で今週すごしてたので、録りためた「花子とアン」を見ながら泣きました。

こんなにもあっけなく子どもって亡くなるの?と思われた人も多かったでしょうか?

でも、抗生物質もない、点滴もない、けいれん止める薬もない・・・

そんな時代に子ども時代を過ごしたのが私たちの祖父母・父母の世代だと思います。

(もはや戦後ではない、といわれるようになった頃まで・・・でしょうか)

私の母は、小学校1年生のときに満州で終戦を迎えました。

引き揚げ船にやっと乗れたのが戦後1年。

(通貨の単位がどんどん変わる世相での経済面とロシアの侵攻のための治安で苦労した日々だったそう)

日本の港は目の前なのに、赤痢を入れないために全員の検査結果が出るまでと船上で一か月足止めされたそうです。

栄養状態の悪い不衛生な環境で満足な医療もない国に感染症が持ち込まれ流行したら、ばたばたと子どもが死んでしまうでしょうから。

満州でも、多くの子どもが引き揚げの過酷な生活でなくなったこと、家族全員無事で帰れたところはめったになかったこと、

無理して連れ帰って途中で死なすくらいなら・自分たちだって無事かわからないくらいなのだからと、

現地の人に子どもを託して泣く泣く帰国した人もいたこと(中国残留孤児です)・・・

私の祖母は、そのことを手記にまとめる活動をして「凍土からの声」という本を仲間と出版しました。

よくその話を母からも聞きながら育ちました。

 

医療はあたりまえにあって、子どもはめったなことでは亡くならない。

今の日本ではそうなっていますけれど、それは、たぶんここ30~40年の話です。

この時代ってそんな一日とか二日で子どもが亡くなったの?と何人かに聞かれたけれど、そうだったろうと思います。

私が研修医になった時代の大先輩は、

「今は白血病が生きられる時代になってきたね~」とおっしゃっていた。

「20年前は半年以内にほぼ全員死んでたものだ」と。

「戦後は、結核性髄膜炎がいつも何人も入院してて、ベッドに並んで待つ子どもたちを何人も周って次々と髄注したものだ」とも。

(髄注というのは、背中からの髄腔への薬の注射です)

私が研修医の頃、白血病や小児がんの子どもたちは助からない子も多かったです。

数年前、その研修病院でずっと頑張ってこられた当時の同僚の先生から、

「ここ数年、悪性疾患の子どもたちは一人も亡くなってない」と聞いて、本当に涙が出ました。

医療の進歩は素晴らしい。

多くの人々の工夫と努力の積み重ねからその進歩はある。

簡単に「昔はよかった」などといえるはずない。

医療にいやな思いのある人に、そういうことをおっしゃる人がときどきいるけれど・・・

花子のような辛い思いをする人が少なくなるように・・・という気持ちが医学の歩みを支えて来たのだから。

当たり前の医療が、人の幸せにつながるように・・・と願う。

医療は、人が幸せになって初めて成功なんだと思う。

もちろん、すべての人は死ぬわけだから、医療は幸せな死につながっていくものであってほしい、とも思う。

死というだけで医療が敗北なわけではない。

幸せとまではいかないまでも、納得できるものであってほしい。

自分の人生を考えたら、そういう死を目指したい。

死は、老いを感じる年になり、身近な問題になりつつあり。

納得できる死のためには、やっぱり納得できる生き方も考えないと。

今週、終戦記念日を含む旅行はのんびりして、村岡花子さんのエッセイ集や「アンのゆりかご」などを読んでみました。

戦前に書かれたエッセイでも、全然古い感じでなく、とてもおもしろかったです。

アンに夢中だったころ、村岡花子さんの写真にえ?とがっかりしたものですが

なんとも・・・浅い感想なことだと今さらながらに恥ずかしい思いがします・・・

お子さんを亡くされるという経験をして、それでもわが子に向ける愛情を昇華した形で、

世の中に多くの本を届けるという素晴らしい仕事をされてきたのだとよくわかりました。

世の中を美しくする仕事、ですね。

次の世代を考えるという今の私にも大事なテーマです。

 

 

 

 


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