ここのところ、reviewerの仕事が多く、自分のpaperを書く時間はとれないという状況になっています。
早急に改善します。
質の高いpaperをreviewできるようになるには、質の高いジャーナルへ自分が投稿していないとアカデミアに認識してもらえません。
最近、open-accessのjournalが乱立して、あちこちからmanuscriptのリクエスト、reviewerのリクエストがありますが、受けていたらきりがありませんね。。
自分の軸を見失わないように、自分の優先順位をしっかりと持って選択すべきであると実感します。
どうしても、辞退するのは決断が必要ですし、逃したチャンスは取り戻せませんからよく考えて、行動することになります。
さすがに良質のjournalのeditorはしっかりしていると感じます。
決断が速いこと、形式なども整っていないpaperをreviewerに回したりすることはありません。
「自分が書く」
「査読reviewする」
このの2つはまるで鏡の作業であり、幸い査読はすでに手一杯やっているので、「自分が書く」というところにシフトします。
最近の勉強は、相手の論文執筆をどう指導するか、その論文指導のスタイルです。
これが正直、かなり難しい。「自分が書き直す」のは言いたいことを伝えやすいですし、直接的なのですが、学習者が成長する勉強にはならないと感じ、いつもジレンマです。
国際学会のabstractなどでは、共著者になるので、acceptableなレベルに引き上げるべく、コンテンツそのもの、論理展開、英語の修正などかなりの修正をすることがあります。
自分が逆の立ち場になると、自分の言い回しが消えて、他人の言葉になると、それは自分の作品とも言えず、なんとも難しい。
対等な立場での共著と、expertiseに大きな差がある場合にどのような形が望ましいのか、熟練した経験者にその方法を聞きたいです。
自分がフェローのときや、そのほかの場合、いまもそうですが、first authorとして自分の書いた内容につき、方向性につき助言をもらうだけで、言い回しの細かいところは自分のスタイルを継承する場合が大半です。
私がもっとも尊敬する研修母校テキサス大学のDr. Murrayは、非常に厳格ですが、自分が書き直すというようなことはせず、科学的に整合性が取れているかどうか、正確かどうかという点を中心に見てくれました。
極めて自主性に任せてくれました。その分、こちらもエンジン全開という感じで最大限の力を振り絞って書いていました。
マストリヒト大学でもそのスタイル。方向性や考え方は修正されるが、言い回しは自分のスタイルが継承される。
一方、自分が指導する側の場合、コメントだけ返しても、的確な反応・修正が見られないこともあり、どうすべきか思案中。
この作業はtime-consuming (時間と手間がかかる)ですが、自分のためにもしっかりと取り組む必要がある点です。
マストリヒト大学のPh.Dの同僚が、この論文添削に関することをテーマにリサーチしています。非常に興味深いです。彼女のお話では、学習者が、指導者のコメントの意味がそもそも理解できないので、十分な反応ができない、というデータを
出していました。彼女のリサーチが早く完成してほしいです。
今後、自分の性格や完成度に関するこだわりでなく、学習者の成長とサイエンスを極める点において、エビデンスに基づいた論文指導をしたいです。
早急に改善します。
質の高いpaperをreviewできるようになるには、質の高いジャーナルへ自分が投稿していないとアカデミアに認識してもらえません。
最近、open-accessのjournalが乱立して、あちこちからmanuscriptのリクエスト、reviewerのリクエストがありますが、受けていたらきりがありませんね。。
自分の軸を見失わないように、自分の優先順位をしっかりと持って選択すべきであると実感します。
どうしても、辞退するのは決断が必要ですし、逃したチャンスは取り戻せませんからよく考えて、行動することになります。
さすがに良質のjournalのeditorはしっかりしていると感じます。
決断が速いこと、形式なども整っていないpaperをreviewerに回したりすることはありません。
「自分が書く」
「査読reviewする」
このの2つはまるで鏡の作業であり、幸い査読はすでに手一杯やっているので、「自分が書く」というところにシフトします。
最近の勉強は、相手の論文執筆をどう指導するか、その論文指導のスタイルです。
これが正直、かなり難しい。「自分が書き直す」のは言いたいことを伝えやすいですし、直接的なのですが、学習者が成長する勉強にはならないと感じ、いつもジレンマです。
国際学会のabstractなどでは、共著者になるので、acceptableなレベルに引き上げるべく、コンテンツそのもの、論理展開、英語の修正などかなりの修正をすることがあります。
自分が逆の立ち場になると、自分の言い回しが消えて、他人の言葉になると、それは自分の作品とも言えず、なんとも難しい。
対等な立場での共著と、expertiseに大きな差がある場合にどのような形が望ましいのか、熟練した経験者にその方法を聞きたいです。
自分がフェローのときや、そのほかの場合、いまもそうですが、first authorとして自分の書いた内容につき、方向性につき助言をもらうだけで、言い回しの細かいところは自分のスタイルを継承する場合が大半です。
私がもっとも尊敬する研修母校テキサス大学のDr. Murrayは、非常に厳格ですが、自分が書き直すというようなことはせず、科学的に整合性が取れているかどうか、正確かどうかという点を中心に見てくれました。
極めて自主性に任せてくれました。その分、こちらもエンジン全開という感じで最大限の力を振り絞って書いていました。
マストリヒト大学でもそのスタイル。方向性や考え方は修正されるが、言い回しは自分のスタイルが継承される。
一方、自分が指導する側の場合、コメントだけ返しても、的確な反応・修正が見られないこともあり、どうすべきか思案中。
この作業はtime-consuming (時間と手間がかかる)ですが、自分のためにもしっかりと取り組む必要がある点です。
マストリヒト大学のPh.Dの同僚が、この論文添削に関することをテーマにリサーチしています。非常に興味深いです。彼女のお話では、学習者が、指導者のコメントの意味がそもそも理解できないので、十分な反応ができない、というデータを
出していました。彼女のリサーチが早く完成してほしいです。
今後、自分の性格や完成度に関するこだわりでなく、学習者の成長とサイエンスを極める点において、エビデンスに基づいた論文指導をしたいです。