自然学校がある作開地区の鎮守様である熊野神社には、小池清次郎さん(神社では清二郎)が熊野神社の祭神と一緒に祭られています。そもそも、なぜ熊野信仰なのか不明な点があるのですが、清次郎さんが祭られているのは、現在の神社の土地を寄進したからと言われています。
この清次郎さんは会津藩士であったと聞いていましたが、その詳細が分からなかったのですが、先日のお祭りの際に、会津藩士の流れをくむKさんが持ってきた「会津医魂」(小池明著、戊辰戦争と小池毅の生涯、歴史春秋社)の本で判明しました。
清次郎さんの父親は、幕末の会津藩主松平容保(かたもり)のお側付きの医者、小池求真でした。会津藩は混乱する幕末期の京都の守護職に容保が就任したが故に・・滅びゆく幕府軍となり、薩長連合から明治維新と続く倒幕時代・戊辰戦争、そして維新後に辛酸を味わいました。
戦烈な白虎隊で有名な会津での維新軍との戦いで会津城の落城。(夏の初めの東北の旅ではことも知らずに再現中に会津城を見てきたばかり)なんと、この戦火の中、清次郎さんは父親とともに城内に籠城し父親を手伝い傷兵を看護していたのです。
敗戦後、維新軍に捕えられ謹慎所(捕虜収容所?)に収容されました。
明治に入り、松平家は家名再興の恩赦を受けましたが、青森県北部に新たに斗南藩として領地を与えられました。ほとんど人が住んでいいない下北の地は与えられたといっても流刑に等しいものだったのです。明治3年、謹慎を解かれた小池一家も下北半島の田辺に移住をさせられました。(開墾は困難を極めて様子がいくつかの歴史書に残っているらしい。)
その頃寿都や朱太川下流域は、米沢藩が支配権を持っていたのですが、その一部を斗南藩に新政府は委譲する決定をしました。しかし、それもつかの間、廃藩置県により藩の領地制度は打ち切られ、明治政府による北海道開拓使が行政支配権を行使することになり、新政府は明治4年1871年、さらに斗南藩士を歌棄(うたすつ)郡作開村へ再移住の命を下し、28余戸135人を下北から再移住したのでした。
その中に小池一族が含まれ、小池清次郎もいたのです。父と長男精一氏は寿都湾に面した有戸に診療所を構え、二男清次郎は、作開の開拓に入ったのでした。清次郎氏が入植した場所は、熊野神社建立に土地を寄進したとされているので、神社や学校がある私が住むこの地付近だったのでしょう。
会津で破れ、流刑のように追いやられた会津藩士達の過酷な開墾の歴史がこの地にはあるのです。
また、この本を貸してくださったK氏やF氏の一族は、ご祖先は斗南藩とのことですので、会津藩士をご先祖にもつ方々で、この時に一緒に作開に入植したと思われます。
父求真氏はこの地の医師として、この地で亡くなったようですが、お墓は不明です。
精一氏はその後函館で医師として過ごしたとのことです。 また、求真氏が再婚をし生まれた三男毅氏もその後医学を目指し、かの北里柴三郎に師事し、ペスト菌発見の偉業を支え、自らもペスト菌に罹患し若くして命を落としています。
清次郎氏はこの地でなくなり、お墓が地区の墓地にあります。
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清次郎氏が入植した明治4年のこの地の様子は定かではありませんが、未開墾の山野は相当に広がっていたことでしょう。一方、寿都は明治から栄えたのではなく、江戸時代には松前藩の前身の蠣崎氏などの和人の支配下にある時代が古くからありました。寿都の郷土資料館は米沢藩が請負であった時代の様子の展示もあります。 ここ作開地区は、耕作地が少ない寿都沿岸から考えると、魚場の労働者の食糧生産地として農地開墾はかなり古くから行われていたことでしょう。 また、藩士とは子孫が異なる開拓移民5代目という農家もいます。