日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

AIに勝つ!為に必要な要素

2019-12-13 19:11:56 | ビジネス

facebook繋がりの友人が、とても興味深い記事を紹介していた。
東京で2つ星フレンチレストラン「Le Mange-Tout(ル・マンジュ・トゥー)のオーナーシェフ・谷昇さんのインタビュー記事だ。
Foodion:Aiに勝つ!飲食業界の人が「直観力」を育むには ル・マンジュ・トゥー 谷昇

谷さんは、後進の指導にも積極的にされているようだが、記事の最初に書かれている内容を読んだとき「料理の世界も、ビジネスの世界も同じだな~」と、感じた。
それは「自ら動き、学ぶ」という姿勢だ。

タイトルとして使われている「直観力」は、「直感力」とは別のものだ。
「直感力」は、一種のヒラメキだ。
それに対して「直観力」は、経験値などに基づいた潜在意識化の中での決定する力だ。
その「直観力」を高めるためには、失敗し、反省をした後、どのような行動をしたのか?という、経験が必要なのだと思う。
確かに、「失敗」はしない方が良いとは思うが、失敗といわないまでも日々の仕事の中で「ああすれば良かった、こういう方法のほうが良かったのでは?」という、反省と改善をする努力をし続ける中で「直観力」というものは、磨かれているのではないだろうか?

それらの反省を促すのは、他者からの学びなのだと思う。
自分の持っている知識や情報だけで、得られるものは限られている。
それを補ってくれるのが、自分の専門領域はもちろん、それ以外からの「他者」からも学ぶことだ、という気がしている。

他にも「味は主観によるものだからこそ、料理の本質をきちんと考える」と点なども、ビジネスに通じるところがあるはずだ。
私たちがビジネスをする時、「その物事の本質は何か?」ということを、突き詰めて考えているだろうか?
マーケティングの場合、「問題解決策が、マーケティングである」ということが、言われている。
単に企業利益を求める為に、マーケティングがあるのではない。
市場に出していく商品や事業の企画が、「社会の問題解決となるためには、どのような人に、どのようなカタチで届けるのか?」ということも含めて考える必要があるのだ。
今や企業側の都合だけで、その商品やサービスが受け入れられる時代ではない、ということも「企業が社会に存在する意義」だろうし、そこに企業活動の本質があるのでは?

谷さんのインタビューを拝読しながら、これから先AIに勝つ!(とまでは言えなくても、負けない!)ためには、「0と1」のデータ蓄積では得られない「人らしさ」の本質を身に着けることなのかもしれない。



 


「大塚家具」を子会社化する、ヤマダ電機の狙い

2019-12-12 17:11:51 | ビジネス

日経をはじめとする新聞各社のWEBサイトに「ヤマダ電機が大塚家具を子会社化する」という、記事が掲載されている。
日経新聞:ヤマダ電機、大塚家具を子会社化 増資引き受けへ

大塚家具に限らず、昔からある家具店は苦戦を強いられているのでは?と、思っている。
というのも「家具販売」の一番の難しさは、その売り場面積に対して展示する商品の数が限られている、という点があるからだ。
IKEAのような「組み立て家具」が中心であっても、ある程度の展示スペースを確保しなくては、「その家具がある空間イメージ」を伝えることが、難しいからだ。
他にも、日用品のような商品サイクルで販売することができないことや、商品単価が高いなど、家具そのものの購入機会と単価の高さなどから、地方の家具店の閉店が珍しいものではなくなっているような実感がある。
今まで、大塚家具が何とかなっていたのは、全国展開をすることができたからなのでは?という、気がしている。

その「大塚家具」のお家騒動が表面化して3年ほどになる(と思う)。
時事通信社の記事では、今年に入ってからの大塚家具の騒動について、時系列でまとめてあるのでその経営状況とお家騒動などとの関係が良く分かる。
時事通信社:大塚家具 再建問題

なぜ、ヤマダ電機がこれほどまでの「赤字」を抱え込んでいる、大塚家具を子会社化するのか?という点が、気になるはずだ。
なんとなくだが、ヤマダ電機の店舗にその回答があるのでは?という気がしている。
我が家の近くにある比較的大きな店舗には「住宅リフォーム」の売り場が、目立つところにある。
はじめは「太陽光発電」と「オール家電」の販売目的だったように思うのだが、「太陽光発電」の売買期限の終了が迫っていることもあり、「住宅リフォーム」へと2年ほど前から変わってきていた。
「住宅リフォーム」となれば、当然家具の買い替え需要なども見込めるだろう。
その部分で考えれば、大塚家具の持っている「全国展開」は魅力的であった、ということになる。
他にも「家具の在庫」そのものは、ヤマダ電機は持つ必要は無く、インテリアコーディネーターなどは大塚家具から派遣してもらえば、生活者が持っている(であろう)ヤマダ電機が展開している「住宅リフォーム」などの不安を解消することができる。

最近の家電の傾向である、「生活空間に溶け込むような」インテリアデザインのような点も、重要視されていることを考えれば、他の家電量販店との差別化を図る、というメリットもあるのかもしれない。

大塚家具にとって、ヤマダ電機の子会社化はプラスとなるか?否か?は、なんとも言えない部分があるが、少なくともヤマダ電機側にとっては、少なからずメリットのある子会社化かもしれない。


「定義することはできない」とは、凄い言い訳

2019-12-11 20:04:58 | 徒然

このところ、安倍政権の要ともいえる菅官房長官の発言が、話題になっている。
その一つが「閣議決定」された、いくつかの言葉や出来事だ。
最初は「こんなこと、閣議決定するような内容?」と、疑問に思う程度だったのだが、昨日の「反社会的勢力を定義することは困難である」と閣議決定した、というニュースにはさすがに「言い訳でも、詭弁でも常識の範囲を超える内容」だな~と驚いた。
BUZZ FEED JAPAN:「反社会的勢力」めぐる閣議決定、日本語学者も困惑

ご存じの方も多いこの問題の発端は「総理主催の桜を見る会」を私物化している、という指摘から始まっている。
毎年この「桜を見る会」の話題が出るたびに、「会いたい芸能人を呼んでいるだけの会」だと思った。
それが、地元支援者の「東京で桜を見る会」になっていたり、「反社会的勢力」と呼ばれている人たちを呼んでいたらしい。
「らしい」というのは、その根拠となる名簿が、シュレッダーで裁断されてしまい、バックアップデータは行政書類ではないので開示する必要はない」と菅官房長官が答弁をし、その後「データが破棄」されたということになっているからだ。

一昨年に起きた「モリカケ問題」に端を発して以来、安倍さんの「言い訳」は、「言い訳レベル」ではなくなってきている。
都合が悪くなれば「知らぬ存ぜぬ」で押し通すその姿勢は、逆に「追求している相手の言っていることが、事実なのだな」と、思わせるのには十分すぎるように感じているし、おそらく事実なのだろう。

過去の政治家で、これほど「日本語理解に問題がある政治家」は、いただろうか?
元々安倍さんには、言語センスというか言語理解に難がある、と感じることが多々あったが、これほど強引な手法で自分の都合の良い解釈を押し通すとは思っても見なかった。
ここまでくると、安倍さんの人身御供となっている菅官房長官が、可哀想になってくる。
東洋経済on-line:「桜を見る会」問題が象徴する安倍政権の体質「安倍一強」政権が政官界の倫理観を破壊する

強引な幕引きで、これらの問題を片付けようとしているのだと思うのだが、これまで国の見解として国語辞典にも記載されている「反社会的勢力」の意味を無いものとする、というのは倫理観云々の問題ではないと思う。
というのも「反社会的勢力」という言葉は、様々な商取引を含めた一般社会通念として既に理解され、定着している概念だからだ。
それを翻意にする政権というのは、有権者が任せられる政権ではないのでは?
安倍さんにその意識が無いとすれば(おそらく、無いと思われる)、日本語を学び直してから政治家になってほしい。









多くの人を、共感させる為に必要なこととは?

2019-12-10 13:34:46 | アラカルト

今年のノーベル賞の授賞者候補の一人として名前が挙がった、高校生の環境問題の活動家・グレタトゥーンベリさん。
国連での堂々としたスピーチに、驚かれた方も多かったのではないだろうか?
そのスピーチの多くは、今の「経済優先の社会」を作り上げてきた大人に向けられた糾弾だった。
そのため、反発をした(大人の)方も多くいた。
その後、グレタさんに対していわゆる「大人」がTwitterなどのSNSを通して、「それは違う」という意見を発信することもあった。
グレタさんとしては、自分の意見を述べることで大人が反応してくれた!という、目的は達成されたのではないだろうか?

その後、異様にグレタさんを持ち上げるような記事が、出てしまったのは残念なことだし、グレタさん自身「自分にばかり注目されることは、本意ではない」と話している。
huffpost:グレタ・トゥーンベリさん、自分ばかりに注目するメディアに苦言「私はただの気象活動家。大きなムーブメントの小さな一部」

確かに、グレタさんの言葉に共感し、世界の高校生たちが気象問題に興味・関心を持ち行動し始めている。
それはとても素晴らしいことだと思うのだが、大人と高校生たちとの間にある「共感性の違い」ということにも、注目する必要があるような気がしている。
何故なら、反発をした大人と共感した高校生の間には、何かの「受け止め方の違い」があるのでは?という、気がしたからだ。

そのような「違い」についての記事が、クーリエジャポンに掲載されていた(会員記事なので、全文を読むことはできない)。
クーリエジャポン:説得よりも大事なのは「希望とメリット」
         「グレタ・トゥーンベリ的な言い方では、世界の人々は動きません」

この記事を書かれたのがフランスの方なので、日本の大人が感じた違和感と同じなのか?という、疑問が無いわけではないのだが、スピーチで重要なこととして挙げている「希望とメリット」という点は、納得ができる部分だと思う。
グレタさんの国連でのスピーチは、激しい言葉が多かったような印象を持っている。
しかも、誰という名ざしではないにせよ、今の社会を作り上げてきた「大人」に対して厳しい言葉を「投げつけた」ような印象があった。
そのスピーチに共感できた大人も数多くいれば、反発した人も多かったのは「厳しい言葉だけが、投げつけられた」と、感じた大人が多かったからだろう。
それは自分でも「気象変動よりも、経済を優先してきた」という、直接的な厳しい言葉に「後ろめたさ」を感じた、反発ともいえるのかもしれない。
共感した高校生たちにとっては、大人をやり込めたという一種の爽快感もあり、共感と自分の代わりに登場したヒロイズム的な象徴という、とらえ方なのかもしれない。

ただ、今のような「グレタさんを支持する若い世代(もちろん、共感する大人もいるが)VS反発する大人」、という構図はメディア的には面白いかもしれないが、建設的な問題解決の糸口を見つけることはできない。
クーリエジャポンにあるような「問題を解決することで見えてくる希望」が語られ、そのコトによって受ける大人を含めた全世代が受ける恩恵(=メリット)が無くては人は動かない、というのは事実だろう。

大人になればなるほど思考に支配され、こころでの共感が減るからこそ「説得」する必要があり、「説得材料」として「メリット」が必要になるからだ。
それが悪いわけではないし、思考によってより現実的なビジネスが展開でき、社会を豊かにさせているという事実もあるからだ。
グレタさんの件に限らず、それはビジネスという場面であっても同じだろう。




「ことば」を磨く

2019-12-09 20:13:36 | 徒然

極力毎日ブログをエントリする努力をしているつもりだが、どうしても書けない日がある。
テーマが思い浮かばない日もあれば、テーマは思い浮かぶが「ことば」が思い浮かばないという日もある。
実は、このエントリも日曜日に書き始め「ことば」が思い浮かばぬまま、日を越してしまった。
そして、「ことば」を使う難しさを実感するのだ。

だからこそ、日ごろから「ことばを磨く」という努力をしなくては!と、思っている。
「文の達人」といわれる方の「ことば遣い」は、「なるほど!」と思わせるだけではなく、印象に残る。
「文の達人」は「名著」と呼ばれる作品を生み出した方々だけではなく、私よりも年齢に若い人たちの中にも数多くいる。
朝の支度をするために、聞き流しているFM番組からも、そのような「ことばの達人」に出会うことがある。

数年前から、FMの「感じて漢字の世界」という番組を聞いている。
名古屋では、日曜の早朝というだけではなく、放送時間も度々変わるので、聞き逃す時も少なくないのだが、白川静さんの「漢字の成り立ち」からその意味を知ることは、「ことばを磨く」という意味でとても勉強になっている。

白川静さんの「文字学」については、様々な意見があることは知っているが、それでもその独特な解釈には「なるほどな~」と思うことも多い。
先回の放送で取り上げられていた「」という漢字についての解釈もまた、「なるほど!」と思ったのだ。
私たちはいつからか「人という漢字は、人と人とが支え合う」というところから生まれた漢字、だと思っていた節がある。
それを白川静さんは「人」という字は、
人が自分の力でひとり、立つ姿。その人は、自らの意思で決めた方向を向き、自分らしく立っている
という、姿から生まれた漢字だと、解釈をしている。

そのどちらが正しいのか間違っているのか、ではなく「漢字一文字」から想像する力がとても大切なのだ、ということを教えてくれている気がする。
そのうえで、自分が使う「ことば」を如何に伝わりやすく自己満足にならない表現にするのか?
「ことばを磨く」ことは、文字の意味を知るだけではなく、その文化や社会の背景、移り変わりを知ることなのだ、と改めて感じる。

もしかしたら「ことばを磨く」ことは、自分の感性や思慮を育てることなのかもしれない。
まだまだ、勉強が必要だと感じる。


映画館が劇場になる日

2019-12-07 20:52:13 | アラカルト

先日、メンズファッション誌・GQにチョッと変わった記事があった。
GQ:超豪華なオペラを一番安く楽しむ奥の手がMETライブビューイングだ!

クラシック音楽鑑賞の中でも、オペラは一番敷居の高いのでは?と、思っている。
バブルの時に設計・建築が始まりバブル崩壊直後に開館した「愛知芸術劇場」の杮落しは、Rシュトラウスの「影のない女」だった。
指揮はサヴァリッシュだったと記憶している。
その時の一番高い席は、10万円を超えていたような気がする(それでも、比較的早く完売したはずだ)。
これほど高いチケットは、あまりないとは思うのだがオペラそのものが「(クラシック音楽の)総合芸術」といわれる為、オーケストラ、演者となる歌手だけではなく、豪華な衣装やセットなど公演をするだけでも費用の掛かるものだということがわかる。
それらの機材を空輸し、日本で上演するとなるとやはり高額なチケット代になってしまうのは、仕方ないのかもしれない。

もしかしたら、そのような問題を解決するだけではなく、オペラファンを増やす切っ掛けとなりそうなのが、MET(メトロポリタン歌劇場)のライブビューイングのような気がするのだ。
もちろん、リアルタイムでの上演ではないが、映画館であれば大きなスクリーンで迫力のある映像として、オペラを楽しむことができるだろう。
本場のオペラが映画館で見られるというのは、クラシックファンはもちろん、オペラに馴染みのない人にとっても、魅力的な企画だと思う。
機会があれば、本場メトロポリタン歌劇場で見てみたい!という、クラシックファン、オペラファンが増えるかもしれない。
MET側とすれば、オペラを見る入り口としてだけではなく、劇場の維持管理費などを、公演のチケット販売だけではなく「ライブビューイング」という上映方法によって、得られるという魅力がMET側あるはずだ。

先日、コールドプレイがyoutubeによるライブ配信をすることについてのエントリをした。
新しい「音楽ライブ」の楽しみ方になるのか?ライブ配信ビジネス

コールドプレイのyoutubeも「ライブ映像を生活者に届ける」という点では、METの「ライブビューイング」と同じ思いだと思う。
ただ、コールドプレイはyoutubeをライブ映像配信として選んだが、METのような「映画館を劇場とする」という発想は、なかったのだろうか?
ロックという音楽は、時代を引っ張っていく音楽のような気がしていたが、METの「ライブビューイング」の発想を考えると、案外クラシックのほうが柔軟に時代に反応しているのかな?という、気すらしてくる。

JOYSOUNDの「みるハコ」のような配信システムを使って、リアルタイムで国内の音楽ライブが映画館で見られるようになる日が来るのかもしれない。







違和感のあるデータが示すもの

2019-12-06 15:24:03 | ビジネス

昨日、毎日新聞のWEBサイトを見ていたら、違和感のある記事があった。
正しくは、違和感のあるデータだ。
毎日新聞:売れると「認められた」7割 メルカリ、利用者意識調査

毎日新聞の記事に違和感を感じたわけではない、そのデータの元となっている「意識調査」に違和感を感じたのだった。
そこで、この記事の基となったデータを確認すると、ますます違和感を持つようになった。
メルカリ総合研究所:メルカリ、「100円以下の利益でフリマアプリに出品する利用者」の意識・実態調査を発表

「100円以下の利益」で、出品者が満足をしているとしたら「利益を求めている」というには、その労力などを考えれば、決して「満足できる利益」とは言い切れないと思う。
多くの場合「いらないものを売る」という行為なので、「売れれば満足」ということになるだろうという想像はできる。
ただそこに「承認欲求」というものが、本当にあるのだろうか?という疑問があるのだ。

「承認欲求」と言う言葉が、盛んに言われるようになったのはつい最近のような気がしている。
それはSNSの利用の広がりと共に、「いいね!」の数=自分がSNSを通じた社会の中で「認められた=承認欲求」が満たされた、ということが言われるようになってからのことのように思っている。
「『いいね!』の数=自分のことをよく思っている人、あるいは共感してくれた人」、という認識だろう。

しかし最近では「とりあえず、いいね!をするか」という、付き合いとしての「いいね!」の数も決して少なくない、とも言われている。
今年の夏のドラマ「凪のお暇」の主人公などは、「いいね!」をしながら心は裏腹なことを考えていた、という独白のような場面があった(ように記憶している)。その場面を、妙にリアリティーを感じられた方も、多かったのでは?
とすれば、SNSでの「いいね!」は、「共感性」などではなく(付き合いの)惰性の産物ということになるのかもしれない。

それがメルカリのような、C2Cの売買が成立することで「承認欲求」が満たされる、とも考えにくい。
「自分が買って要らなくなったものを買ってくれた」という行為の中に、「何かしら共通するモノを感じた」ということでの承認欲求が満たされた、ということなのだろうか?
確かに「共感性」という部分では、「自分と似たモノを持っている」という部分ではあるだろうが、それが「承認された」とは言い難いような気がする。
何故なら「承認された」ということは、何かの成果などによって「他者に認められた」ということに他ならないからだ。
それが「売買行為」によって起きる感情なのだろうか?という、違和感があるのだ。

それだけではなく、このデータ全体が「キレイにまとまり過ぎている」ような印象がある。
なんとなくだが、設問を含め「キレイなデータを出すための意識調査」という気がしてしまうのだ。
本当にこれがメルカリの利用者の本音となる意識調査と考えてよいのだろうか?という、気すらしてしまう。

データそのものは、客観性と公平性が無くては意味が無い。
しかし、キレイすぎるデータはどこか「都合の良いデータなのでは?」というだけではなく、客観性と公平性が担保されているのだろうか?利用者の本音は、一体どこにあるのだろう?と、考えてしまうのだ。


パーソナルスペースの拡大とSNS

2019-12-04 14:37:54 | アラカルト

拙ブログで時折紹介させていただく、日経のコラムCOMEMO。
特に、大阪ガスのエネルギー文化研究所の池永さんのコラムは、読んでいて楽しく、考えさせられることが多い。
その池永さんが、「うるさいのがキライな日本人」というテーマで、書かれている。
COMEMO:うるさいのがキライな日本人ーめんどうくさい日本人②

②があるということは、①があるということなので、できれば①.②と読んでいただきたい。
そして池永さんのコラムを読みながら、フッと思ったことが今日のタイトルだ。

人に「パーソナルスペース」と呼ばれる、自分にとって心地よい距離感というものがある。
それはとても個人的な距離感なので、単純に女性は半径〇m、男性は✖mと言い切れるものではないし、相手との親密度によってもその距離感は違う。
ただ、傾向として男性の方が広いと一般的に言われているようだ。
Wikipedia:パーソナルスペース

そして池永さんが指摘されている「うるさいと感じる=自分にとって不快と感じる」空間や距離が、どんどん拡大しているのでは?という、気がしたのだ。
池永さんが指摘をされている、保育園で発せられる子どもの声などは「対人的距離感」という問題ではないかもしれないが、パーソナルスペースという空間に、他者が入り込むという視点で考えれば、音や視界なども「パーソナルスペース」の一部だと考えても良いと思う。
その「パーソナルスペース」がどんどん拡大していることで、これまで「不快」と感じなかったモノ・コトに対して「うざい(煩わしい)」と感じるようになったのでは?という気がしたのだ。

逆に考えれば「公共」と感じる空間がどんどん小さくなってきている、ということになるのかもしれない。
「公共」と感じる空間が小さくなったことで、電車やバスの中で泣く赤ん坊やそれをあやそうとする親に対して「うざい」とか「親なら泣き止ませろよ」という、冷たい視線や舌打ちという行動に繋がっていくのではないだろうか?

その反面、「自分一人」という不安がSNSなどの普及によって拡大しているようにも感じている。
しばらく前に、俳優・菅田将暉さん主演の舞台で、スマホアラームが光るなど観劇マナーの悪さが指摘されていた。
J-CASTニュース:菅田将暉の主演舞台で「スマホアラーム」「何かが光っている」マナー違反相次ぎ、主催者側が対応強化

同様に映画館でのマナー違反の指摘もあった。
マネーポストWEB:映画上映中にスマホいじりする若者「2時間は耐えられない」

映画の上映時間は大体2時間程度だと思うのだが、その2時間が耐えられずにスマホをチェックしてしまうのは、SNSなどの「自分と他者との繋がり」に対して、不安があるからなのではないだろうか?
言い換えれば、「他者の眼が気になる(この場合、SNS上でつぶやかれている「自分のことが気になる」ということになるかもしれない)」ということだと思う。
劇場や映画館という「公共の場」に、「スマホをチェックする」という「パーソナルスペースを持ち込んだ」結果、マナー違反を生んでいるということになる。
それは、「パーソナルスペース」の拡大が、皮肉なことに「他者と自分の関係」に不安を与えている、と解釈もできるのではないだろうか?

既に手に入れてしまった、「便利さ(=スマホなど)」を手放すことはできないだろう。
とすれば、パーソナルスペースを少しだけ縮小する努力が、これから先必要なのかもしれない。
それが、「他者との関係(=公共の場という意識)」を豊かにし、本来得られるべきはずの情報を得やすくするだけではなく、取捨選択する力を身に着けることにもなるような気がする。


本当かな?データ分析に疑問ーOECDの読解力分析ー

2019-12-03 20:15:02 | アラカルト

日経新聞のWEBサイトに、日本の高校生の読解力が低下している、という記事があった。
日経新聞:日本の15歳「読解力」15位に後退 デジタル活用進まず

記事の内容では「ブログなどの書いてある内容を理解する力は安定して高かったが、必要な情報を探し出す問題が苦手だった」という分析の他に、パソコンによる入力解答の為、デジタル操作に慣れていないのでは、という指摘がされている。

まず「読解力」の中には「必要な情報を探し出す」という力も含まれているのでは?という、気がするのだ。
「読む力=文字を読む力」という点では、安定して高いが、文字ではなく文章全体から「何がどのように書かれているのか?」という、把握ができていないとすれば、それは「読解力が無い」ということになるのでは?
まして「国語=日本語」と考えると、このテストを受けた高校生のほとんどは、外国籍の受験者はほとんどいない、と考える必要があるだろう。
ということは「国語の読解力テスト」は、外国籍の受験者が混じることが多い諸外国よりも、遥かに有利な条件で受験しているのが日本の高校生ということになる。
「読む力=読解力」とすれば、残念ながら日本の高校生は、相当残念な状況にある、と考えても良いのではないだろうか?

「データを分析する」場合、比較対象となるべきデータの条件をそろえる必要がある。
単純に「国語=母語」として考えた場合、上述した通り日本はある意味特殊な環境である、と考えるべきなのだ。
そのような特殊な環境にありながら、「読む力は安定的に高いが、必要な情報を探し出すことが苦手」ということ自体、相当ショッキングなことだととらえる必要があると思う。
何故なら、「文章を読んでも、その内容を十分理解し、把握できていない」ということになるからだ。

これらはPCなどのデジタルを活用していないために、成績が良くなかった、という理由にはならない。
何故なら、最初の前提となる条件と関係が無いからだ。
操作に慣れていないから、入力ミスがあったというのであれば、それは過去のデータ分析やアルゴリズムなどから、ある程度の「ミスタッチによる不正解率」がはじき出され、修正ができる範囲だと考えられるからだ。

一番の問題は、諸外国よりも有利な条件の中で「文字は読めても、その文章の内容を十分理解できていない」ということではないだろうか?PCの画面に表示される文章であっても、紙に書かれた文章であっても、その違いによる「読解力」に差が出てくるわけではない。
もし、文科省が「読む力は安定して高いが、情報などを探し解答する力が弱い」などと分析をしているとすれば、相当見当はずれな分析だと思う。

もう一つ気になるのは、今回テストの対象となった科目のグラフだ。
日本の場合、年度によって極端な差が出ていることを考えると、「ゆとり教育」云々ではないような気がする
ここまで年度ごとに大きな違いが出ているとなると、文科省の教育指針の方向性が定まず、子供たちを翻弄しているのでは?という気がするのだ。




これから必要なのは、共感性と認知力かもしれない

2019-12-01 11:55:27 | アラカルト

今年のベストセラー本の一つは「ケーキが切れない非行少年」だろう。
発刊された時から、気にはなっていたのだがなかなか手に取ることができずにいたのだが、やっと読む気になった。
そして読み進めるうちに、「何らかの問題を抱えた結果非行に走ってしまった少年たち」と自分の違いは何だろうか?と、考えてしまったのだ。

内容については本を読んでいただきたいが、非行少年たちのうち高い確率で「認知力に問題がある」という。
「参考図形を描きうつす」ということができない、という内容については衝撃的だったが、遠すぎる記憶の中に小学校の入学前に同様の認知テストがあったのでは?という気もした。
参考として描かれている図形は、小学校の入学前に出された認知テストの図形よりも遥かに複雑なものであったが、図形を覚えて描くという設問ではないことを考えれば、多くの人にとって「何故?」という疑問符が付くのは当然だろう。

しかし、非行に走ってしまった少年たちだけが、このような問題を抱えているのだろうか?と、疑問にも思ったのだ。
「認知」と言う言葉の幅が広いので、「何をもって認知理解力とするのか?」ということにもなるのだが、例えば自分の失敗を認められないとか、保身のためというより相手のことが理解できないという、認知力の欠如という視点を持つと、案外「認知力が低い人」が多いのでは?ということなのだ。

例えば、今年の流行語大賞にも選ばれた「上級国民」は、東京で起きた高齢者が起こした自動車事故の加害者のことだ。
官僚から関連団体に天下りをし、民間企業の役員も務めていただけではなく、事故後逮捕されない為に「上級国民だから逮捕されない」という言葉がネット上に数多く書き込まれた。
その後、この高齢加害者が書類送検される時に出されたコメントに、相当な反発が起きた。
おそらくこの加害者となった高齢者は、経歴云々ではなく「自分が起こした事故を理解できていないのでは?」という気がしたのだ。
理解できていない=認知できていないからこそ、ピントがずれたコメントを平気でしてしまっているのでは?ということなのだ。

本を読んでみると分かるのだが、この「認知力」は学力などの問題ではない。
官僚というキャリアを考えれば、勉強はできたが「自分の失敗を理解できない、認められない」という素地があった人物なのでは?ということなのだ。
認知力の他にも「共感性」や「想像力」が無い(あるいは著しく低い)人物なのでは?という気もするのだ。

そう考えると、AIが急速に発展していくであろうこれからの社会で必要な力は「自己認知力」、「共感性」そして「想像力」なのではないだろうか?
〇×で判断する力だけなら「東大ロボくん」のほうが、優秀かもしれない。
今のAIは「東大ロボくん」からより進歩し、様々なデータから「推論」を立てることができるようになっているだろうし、それが当たり前になるだろう。

とすれば単に「学力」という部分だけでは、AIのほうが優秀という時代がすぐそこに来ている、と言っても過言ではないだろう。
だがAIが苦手とするのは「推論」ではなく、「想像力」であり「人のこころに共感する力」だ。
それらを総合的に「知る力=認知力」が必要、ということになるような気がするのだ。