安倍さんが打ち出した「一億総活躍社会」の目玉は、「介護職の離職者”0”を目指す」だった。
このニュースが報じられたとき「どんな仕事でも、様々な理由があって仕事を離れる人がいるのにな~」と、思っていた。
「離職する」といっても、転職をするという人もいれば、家庭の都合によって離職しなくてはならない人もいらっしゃる。時には病気理由で離職される方もいる。転職のように希望をもって離職する人もいれば、病気理由の離職のように働く意欲とは別の理由で離職せざる得ない人もいるのだ。
だからこそ「介護職の離職者”0”を目指す」ということ自体、的外れのような気がしていた。
そして今日の中日新聞には、見当違いのような「介護職の離職者”0”政策」の記事が、掲載されていた。
中日新聞:介護職確保で再就職へ20万円貸与 厚労省方針
介護職の離職率が高い、ということは一般的に知られているコトだと思う。
その理由は、上述したような理由以外に「仕事内容に比べ、支払われる賃金が安い」という問題がある、と言われている。
介護職以外でいうなら、保育士なども「仕事内容に比べ、支払われる賃金が安い」と言われている。
そしてこの2つの職種は、常に人手不足という状況にある。
ということは、再就職時に20万円もらったとしても、その後の賃金が安ければ離職する人は後を絶たない、ということになる。
まして今回の方針案は、「20万円貸与」するという内容。
「20万円給付」ではなく、「20万円貸与=借金を負わす」という内容だ。
このような内容で、介護職へ復職したい!と思う人が、どれだけいるのだろうか?
本来国が考えなくてはならないのは、介護職や保育士の全国賃金を上げるコトではないだろうか?
安い賃金の上に借金まで負わされては、たまったものではない。
国が「介護職版蟹工船(小林多喜二の「蟹工船」を指しています)」を、推進しているようにも思える。
何故、このような見当違いな方針を厚労省が出してくるのだろう?と、考えると、やはり「離職理由」をキチンと把握していないからではないだろう。
確かに介護施設の中には、職員の賃金を抑え施設として儲けるような仕組みを作っている所もある、という話を聞くことがある。
そのような経営ができるような施設運営ができないように、国が一定の「経営基準」のようなモノを設けて、介護職者の賃金の底上げをしていくようなことを考えることが、重要なのではないだろうか?
このような見当違いというか、トンチンカンな国の方針案が出るたびに「問題の本質を知る」ということの大切さを知るのだ。
昨日、京都へ出かけた時に遭遇した「中国人観光客」の考察(というほど、大げさなものではないが)から、ビジネスの話をエントリーした。
今日はその続きのような話。
京都に行くたびに必ず!といってよいほど行く店が、いくつかある。
そのうちの一つである、京漬物のお店「加藤順漬物店」は商品の美味しさはもちろんだが、もう一つの楽しみを感じることができるお店だ。
買って帰ってくる漬物は、定番のしば漬け+季節の漬物。
今回も冬の漬物「紅大根の浅漬け」を買いに寄ったのだが、既に売り切れ。
かれこれ30年近く、京都に出かけるたびにお店に立ち寄るようになってから、初めての出来事だった。
「紅大根」そのものは、比較的販売シーズンは長く、京都の代表的な漬物「千枚漬け」や「すぐき」よりも安定して販売をしている。
そんな「紅大根」が、いきなり「完売」と言われ、びっくりしたのだが、その理由を若い店主さんが話をしてくれた。
理由は、気候不順のため契約農家さんから入荷する量が減っており、なかなか店頭に出せるだけ作れない、ということだった。
そして、めったに見るコトができない「赤かぶの千枚漬け」が逆に店頭にあったので、びっくりして話を聞くと、今年は、赤かぶの入荷が断続的にあり今の時期でも販売できている、という話だった。
それだけではなく「赤かぶ」の出来具合によって、千枚漬けにしたり糠漬けにしたりと、漬け方も変えていて今年の赤かぶは千枚漬けに向いていたので、漬けたという話も聞けた。
おそらく対面販売の面白さ、というのはこのような「セールストーク」以外の、ちょっとした商品などにまつわる話だったり、店に対する思いのような話を聞くことだと思う。
スーパーマーケットには、店員さんの目を気にすることなく、好きな商品を手に取って買うという便利さと合理性がある。
その便利さや合理性以上に、商品情報を含めた様々な話ができるのが、対面販売だ。
考えてみれば、40年以上前までは商店街を代表とするような「対面販売」が小売りの主流だった。
生活者はある意味様々な商品知識を、お店の主人やおかみさんから教えてもらったりしながら、買い物をしていた。
それだけ時間がゆったりと流れていたのかもしれないが、そのような時間が無くなるとともに、「合理的」なスーパーマーケットが主流になった。
商店街の衰退は、郊外型大型店舗と自家用車の普及が要因だが、もしかすると生活者自身が「対面販売」を面白いと感じず「わずらわしい」と感じるようになったからでは?という、気がしたのだ。
しかし百貨店などでは「コンシェルジュ」という名前の、専門家が買い物の相談にのるサービスなどを始めたように、「対面販売」の魅力も見直されている部分がある。
便利さや合理性、AI(人工知能)などにはない「人としての魅力ある対面販売」が、これから先必要になっていくのでは?という気がした、京漬物店での出来事だった。
京都では今日12月13日は「事始め」の日。
舞妓さん芸妓さんたちが、芸事の師匠さんやお世話になっている御茶屋さんへ、新年に向けての挨拶回りをする日。
普段とは違う姿の舞妓さんや芸妓さんの姿を見に、京都まで出かけてきた。
次いでというわけでもないのだが、丁度清水寺ではスターウォーズ「覚醒」のヒット祈願?の「スターウォーズ版・風神雷神図」も公開されてたので、おそらく今後見ることはないだろう!という思いもあり、見に行くことにした。
清水寺:スターウォーズ「覚醒」の公開を記念して特別展示
朝、10時を過ぎたころに清水寺に到着したのだが、境内のあちらこちらで着物姿の若い男女を見かける。
「正月でもないのになぜ???」と思っていたら、中国人観光客たちだった。
どうやら、「着物で京都を歩く」という宿泊プランか観光プランが、組み込まれているらしく、きちんと着付けがしてあるだけではなく、女性は着物姿に合うように髪の毛もセットされていた。
歩き方のぎこちなさは、今時の日本の若いお嬢さんと同じ。
その後も、京都の有名観光地と呼ばれそうなところでは、同じように「着物姿」の若い女性の姿を見かけた。
日本人向けに、「着物レンタル+着付け+ヘアーセット」という「観光プラン」は、数年前からあった。
ただ、坂が多かったり、有名観光地そのものが着物で歩くには不便だったりするコトが多く、見かけることはあまり多くなかったような気がした(私が、あまり有名観光地に行かない、ということもあったかもしれないのだが)。
そんな日本人にやや敬遠されたかもしれない、観光プランが実は中国人観光客には大人気になっている、ということを実感したのだ。
「着物を着る」ということ自体、日本人女性であっても「特別なこと」になりつつあると思う。
確かに、ちょっとした「着物ブーム」のようなことは起きてはいる。
若い女性向けの「着物雑誌」なども数年前に創刊され、これまでのような「格式ばった着物」ではなく、「カジュアル感のある、洋服感覚に近い着物のコーディネート」という提案をしていて、人気になっている。
そのような日本人の感覚ではなく、中国人観光客はむしろ「格式ばった着物」を着るコトが「異文化体験」のような楽しさをもって、楽しんでいるように思えたのだった。
「爆買い」というのは、今年の流行語大賞にも選ばれた言葉だが、すでに「爆買い」だけでは物足りず、新しい何かを求め始めているのではないだろうか。
それが「着物を着て街を歩く」ということのような、気がした。
一昨日、ストックホルムで行われた「ノーベル賞授賞式」。
その華やかな話題とともに、日本人受賞者の声なども新聞などで、報道された。
今回受賞をされた、医学・生理学賞の大村智博士は、授賞式では亡くなられた奥様の写真と一緒に研究をしていた同僚の写真をもって、授賞式に臨まれたという話が、新聞に掲載されていた。
このような報道を読むと、つくづく人格者だな~と感じてしまうのは、私だけではないと思う。
そして、今日の日経新聞に改めて大村博士の「人としての器の大きさ」を実感するような、記事が掲載されていた。
日経新聞:大村氏「ノーベル賞の賞金、人材育成する法人に寄付」
大村博士がすでに、出身地である山梨に美術館などを寄贈されている、というニュースはノーベル賞受賞の報道があったときに、話題になった。
細菌の研究者という一面だけではなく、美術などにも造詣が深いという点では、今までのノーベル賞受賞者とは違う一面を感じさせてくださったと思う。
そして今回の「ノーベル賞の賞金」の使い方にも、大村博士のお人柄が出るような使い方ではないか?という、気がしたのだ。
もちろん、これまでのノーベル賞受賞者の方々も、賞金の使い方というのは「今後の研究・発展のため」に使われていると思う。その中で「人材育成」というピンポイント(というべきか?)への使い方を明言される、というケースは珍しいような気がする。
一方で「人を育てる」という点で、寂しいニュースもあった。
安倍政権が「子供の貧困対策」として打ち出した「子供の未来応援基金」への企業からの寄付が、ほとんどないということが、分かったのだ。
東京新聞:子ども貧困対策、黄信号 基金寄付金300万円止まり
基金がスタートしてから、わずか2か月という短い期間なので、ある部分では仕方ないのかもしれないが、寄付があった企業がわずか2社というのは、あまりにも寂しい。
安倍政権になってから、大企業に対しての法人税は下がっている。
その結果、設備投資や従業員の給与アップや正規雇用者が増えている、というのであれば良いのだが、そのような傾向は見られず、内部留保だけが増えている。
おりしも「軽減税率」の話題などで、生活者の多くが「税」に対して関心を持ち始めている。
法人税が下がったコトで国の税収は減り、その分を生活者への負担となっている部分がある、と感じている生活者は少なからずいるはずだ。
法人税が下がり、大企業は内部留保を増やし・・・というのでは、やりきれない(と感じるのは、私だけではないと思う)。
増えた内部留保のうち、1%でも良いから社会のために使う、ということができないのだろうか?
大村博士は、ノーベル賞の賞金の使い方について、「金を残すは下、事業を残すは中、人を残すは上」と、明治の政治家・後藤新平が言っているように、いい人を残すこと」と、話していらっしゃる。
これから先、日本人の研究者がノーベル賞をコンスタントに受賞できるよう、企業も動く必要があるのでは?
そのような企業であれば、生活者からもまた支持を得ることができ、優秀な人材もまた集まると思う。
そのような、長期的な視野に立った「お金の使い方」を、企業が積極的にしなくてはいけない時代が来ていると思う。
Yahoo!のトピックスなどに「中国のバフェット、失踪か?」という、ニュースが取り上げられている。
Yahoo!トピックス: 「中国のバフェット」連絡途絶えたとの報道
この記事を読んだとき、保険会社からリゾート運営会社まで幅広い事業を傘下に収める・・・とあったので、もしや先日、中国の投資会社が星野リゾートが運営している「トマムリゾート」と、何か関係あるのでは?という気がしたら、やはり「トマムリゾート」を買収した中国の投資会社だった。
この中国の投資会社が「トマムリゾート」を買収した、というニュースを聞いたとき、中国人観光客も「爆買い」から「滞在型リゾート」へと変わってきたのか?という、気がしていた。
ここ数年、北海道のリゾート地は日本人観光客だけではなく、海外からの観光客が増えてきている、という話を聞いたコトがあったからだ。
とくに「トマムリゾート」近辺(?)は、「パウダースノー」と呼ばれる雪質で、オーストラリアからなどの観光客で人気になっている、という話だったからだ。
当然、経済発展が進む中国であれば、超が付くような富裕層が長期滞在型リゾートを楽しむようになっても、おかしくはないだろう、と思っていた。
ただ、気になったのは、買収をした企業がリゾート運営会社ではなく、投資会社だった点だった。
投資会社というのは、あくまでも「買収した物件」を、高値で売り払い、利ザヤを設けるのが商売だ。
本気になって「トマムリゾート」を、リゾート地として活用していく気があるのだろうか?という、疑問があった。
実際、買収はしても実質的運営は「星野リゾート」が行う、ということを発表していたコトを考えると、あくまでも「投資の一つ」として考えていなかったのでは?という、気がしていた。
実はネット上ではこの中国の投資会社が、「トマムリゾート」を買収したコトで「星野リゾート」に対する、批判的な意見が数多く見られた。
ネット上のコトなので、いわゆる「ネットウヨ」と呼ばれる人たちの意見も、それなりの数としてあったと思うのだが、多くは「星野リゾートには、ガッカリ」とか「もう、トマムには行かない」という意見(というか書き込み)も多かった。
これらの意見を見たとき、逆に「リゾート界の風雲児」のように言われている(?)星野リゾートの経営は、大丈夫なのか?という気もしたのだった。
それにしても「トマム」というリゾート地は、時代の経済に翻弄される土地だと思う。
元々は、地域振興のために造られたホテルとスキー場だったはずだが、バブル経済とともに事業を拡大化。
これを後押ししたのが、「総合保養地整備法」という法律だった。
おそらく、この法律の後押しで全国各地には様々なリゾート施設が誕生したはずだ。
宮崎の「シーガイア」もその一つだったと記憶している。
バブル崩壊で、メインバンクであった「北海道拓殖銀行」が、破たんすると経営が行き詰まり、一度は破たん。
紆余曲折を経て、星野リゾートが買い取り、運営をするようになった。
「総合保養地」としては、おそらく魅力的な資源はたくさんあると思う。
であれば、投資会社ではなく本気で「トマム」とその周辺地域全体の魅力が、発信できるような企業に携わってほしいと思う。
居酒屋チェーン「和民」を運営している、ワタミグループに勤めていた新人女性が過労自殺をした裁判で、昨日和解した。
和解金額が、このような「過労自殺」による和解支払い金額としては、異例と思われる1億を超す金額だった。
今回の「ワタミ」のような、若い人たちの過労自殺による労災裁判で注目されるのは、その創業者の強烈な?経営方針だ。
「ワタミ」の創業者である、渡邉美樹さんは様々なメディアを通して「ご自身の成功談」を話していた。話すだけではなく、著書もある。
このような経営者に共通している点は、「寝食を忘れるほど、働いた」ということだと思う。
自分が起業し、大きな目標をもって突き進んでいる時は、「寝食を忘れるほど、働く」ということに抵抗感はないと思う。
なぜなら「自分の目標」が明確にあるからだ。その「目標達成のためには、寝食を忘れるほど働く」コトが必要だと、自身が納得しているので、そのような働き方をするコトに抵抗はないはずだ。
問題は、そのような考えでは「経営」はできない、という点だろう。
自分ひとりで孤軍奮闘しながら、事業を「経営」している、という方はたくさんいらっしゃるはずだが、今回の「ワタミ」のように、起業から企業になったとき、その「経営」には求められるコトが違うはずだ。
その視点を欠いた時、「ブラック企業」となってしまうのではないだろうか?
その「ブラック企業」と呼ばれる企業の多くが、いわゆる「サービス業」に集中している。
ご存じのとおり「ワタミ」も、以前に「ブラック企業大賞」という、喜ばしくない賞を受賞している。
では何故、サービス業に「ブラック企業」が集中しやすいのだろうか?
その一つは「サービス業」に対する事業者も利用者も、どこか「サービス」という意味を、はき違えているからではないだろうか?
「サービス」というと、何を思い浮かべるだろうか?
「商品か何かのオマケ」のような、無償提供されるモノだと思っていないだろうか?
今回の「ワタミ」にしてもそうだが、そのお店に行ってメニューを見たとき、その価格に「提供される料理+利益」の「利益」の中にサービスを提供する人の賃金などが含まれているとは、考えないと思う。
「薄利多売」に陥りやすいサービス業は、どうしても「ブラック企業化」しやすい状況にある、というのがわかると思う。
一方、今問題になっている「保育士や介護職」などは、違う問題を含んでいる。
それは「働く人の仕事に対する思いとか志」を、「当たり前」として見ている部分があるのでは?という気がするからだ。
「保育士、介護職」というのは、国家資格を必要とする仕事なのだが、「子守や家族がやっている介護の肩代わり」という意識で見られている部分が、たぶんにあると思う。
それが、職務に対する責任や労働力に対して正当な評価対価として、支払われないということにつながっているのではないだろうか。
そのような視点で、様々な業種を見てみると「ブラック化」しやすい企業は数多くあり、企業規模にかかわらずそのような「リスク」を持っている、ということを知る必要があると思う。
それは企業だけの問題ではなく、社会的問題でもあり、日本経済にマイナスを及ぼすという点も含めて、考えなくてはいけないと思う。
仕事の合間合間に、ちょこちょこと読んでいたために、随分時間がかかってしまった本がある。
コトラーの「資本主義に希望があるー私たちが直視すべき14の課題」だ。
今年の初め話題になったのは、トマ・ピケティの「21世紀の資本」だった。
そして、秋にはマーケティングの父とも称されるコトラーが、「資本主義」についての本を出している。
1年で「資本主義」または「資本論」というテーマが、話題になるということ自体珍しいと思うのだが、それだけ「資本主義」あるいは「資本論」が、社会から注目されている、ということなのだろう。
実は、トマ・ピケティの「21世紀の資本」は、読んではいない。
コトラーも、「トマ・ピケティの『21世紀の資本』そのものを、読破したビジネスマンは少ないのでは?という指摘をしている。
コトラーが注目している点は、ピケティが指摘していた「格差を生み出す原因」という点だった。
もちろんコトラーが指摘している内容は、世界経済ではなく米国の経済についてである。
しかし「米国のコト」として読むのではなく、「日本の現状は?日本であればどのような状況になるのか?」という視点で、読み進めると実に「米国を成長目標にしてきた日本の未来像」が、今の米国の姿なのでは?という気がしてくるのである。
特に「子供の格差(=子供の貧困)」という点では、現在既に米国のような状況になりつつあるのでは?という、気がしたのだった。
事実、日本でも「子供の貧困」が問題となりつつある。
先日毎日新聞などに掲載された、日本財団が発表したデータだ。
毎日新聞:子供の貧困問題:放置すれば経済的損失2.9兆円 日本財団
実際、OECDの中で日本の公的教育支出というのは、最下位という不名誉な実態がある。
時事通信:日本、6年連続で最下位=教育への公的支出割合 OECD
このような現実が起きる背景の一つには、企業そのものがマルクスの「資本論」の中で述べている「労働に対する対価」という考え方が、変わってきているのではないだろうか?という気がしたからである。
マルクスの「資本論」では、「生活ができる+将来の優秀な労働力を育てる(=子供への教育投資)+労働者の自主的な能力向上を支える」ことを含め「労働に対する対価」と、考えている。
しかし今の日本ではこの「生活ができる+将来の優秀な労働力を育てる(=子供への教育投資)」ということよりも、企業の短期的利益を優先する、という考えに陥っているのではないだろうか。
このようなコトが続くと、「資本主義」そのものが崩れていってしまうのだが、それを下支えしているのが、(大)企業からの献金によって(大)企業よりの政策を打ち出している政府にある(もちろん、すべてではないが)のではないか、という指摘をコトラーは重ねてしている。
上述した通り、コトラーの指摘はあくまでも「米国経済」という視点での内容になっているのだが、「子供の貧困」のように、今の日本が抱えている問題そのものにも共通する部分が数多くある。
「一億総活躍社会」という、「全体主義」を思い起させるようなスローガンをいう前に、考え無くてはならない問題が山積しているのでは?それは、政治家や官僚だけではなく、日々の暮らしにかかわるすべての人の問題をコトラーは指摘していると思う。
ちなみに・・・コトラーはこの本で「マーケティングは、資本主義の根底となす概念の一つ」だとも書いている。
「マーケティング」は、お金を儲ける技術やアイディアを提供することではなく、資本主義の中で社会を幸福にするために何をすべきか?ということを創りだすモノではないか?と、改めて私は思い考えている。
Yahoo!のトピックスに、産経新聞の記事として「Amazonが、お坊さんを手配するサービスを開始する」というニュースを取り上げていた。
産経新聞:アマゾンが「お坊さん」をネットで宅配!? 3万5000円で読経 8日から受付開始
このニュースを知って、真っ先に思ったことは「自分の家の寺」を持たない家庭が多いのだな~ということと「葬式仏教」ということだった。
おそらく実家から離れて暮らしている多くの人にとって、お寺の存在は「お葬式や法事で世話になる」という程度の関係なのだと思う。
実家のお寺で「お葬式や法事で世話になる」というのは、まだましかもしれない。
故郷から遠く離れた都会で生活基盤を築いてしまった場合、実家のお寺を知っていても、そこからお坊さんを呼ぶというのは、現実的にはできないことだろう。
実家のお寺が「お寺ネットワーク」のようなモノを持ち、自分の近くのお寺を紹介してくれるのならまだしも、おそらくそのような「システム」を持っているお寺は、ほとんどないと思う。
となると、必然的に自分の実家の宗教とは関係なくても「お葬式や法事のために、お坊さんを呼ぶ」という、「セレモニー用のお坊さん」が必要になってくる。
この場合は、自分の家の宗教というか宗派とは全く関係がなくても「セレモニー用」なので、問題はない・・・ということになるかもしれない。
まさにAmazonがビジネスとして目を付けたのは、「セレモニー用お坊さん」ということだろう。
このAmazonのビジネスを良い・悪いという気はあまりしない。
なぜなら、これから先どれほどの人が「お坊さんを必要とするお葬式や法事をするのか?」ということに、疑問を感じるからだ。
ある程度の頻度で、葬儀社の折り込みチラシが入ることがある。
そのチラシを見ると、案外「家族葬」と呼ばれるお坊さんを必要としないお葬式プランが、メインで取り上げられているのだ。
以前、ある医療セミナーでご一緒した方は、ご主人の遺志で「家族葬」をし、遺産の一部を医療研究のために寄付、その寄付先への年に1回の訪問を法事の代わりとしている、という方もいらっしゃった。
このような方は、まだまだ少ないかもしれないが、現実的に考えると単身世帯が増えている、ということを考えると「葬式も法事もできない」という人が、増えているとも考えられる。
もちろん「単身世帯=家族がいない」というわけではないが、将来的なこととして十分考えられるコトだと思う。
ただ、このようなサービスが一般化するということを考えると、お寺というかお坊さん側も積極的に、社会とのかかわりを考える時代になってきているのでは?という気がする。
12月10日、ノーベル賞の受賞式がある。
ご存じのとおり、ノーベル賞は科学者ノーベルが創設した世界的権威のある賞である。
その受賞対象となる分野も幅広く、ノーベルの研究分野であった科学~文学賞、平和賞、経済学賞まである。
日本人受賞者が圧倒的に多いのは、科学の分野。
それまでの研究成果が、世界的に認められたとして、その研究者にスポットライトが浴びる瞬間でもある。
ここ何年かは、コンスタントに日本人受賞者が出ており、「ノーベル賞」そのものが身近に感じられる賞となってきたような気がしている。
創設者であるノーベルが、なぜこのような賞を創設したのか?ということについても、有名な話だ。
自身が研究・開発をした「ダイナマイト」が、世界中で爆発的に使われるようになり、巨万の富を得たによるもの。
ノーベル自身は「ダイナマイト」が、生活に役立ち、生活を豊かで便利なモノとして使われているコトに、大きな喜びを感じていた半面、戦争の道具として使われる「ダイナマイト」に、心を痛めていた。
科学者・ノーベルの思いは「生活に役立ち、暮らしを豊かにする」研究や、平和のために力を尽くす人や団体を、表することで、「より豊かな世界」を創ろうとしたのが「ノーベル賞」だと言われている。
おそらくそのようなことは、多くの方が知っていらっしゃるコトだと思う。
では、以下のことばもご存じだろうか?
「人生は気高いものだ。
自然から授かったこの宝石を、人は磨く。
輝く光がその労に報いてくれるまで。」
感じて、感じの世界(11月29日放送より)
この言葉は、ノーベルが生前に遺したことばだそうだ。
確かに、世界を大きく変える研究や人のために力を尽くす人の姿は素晴らしい。
しかし、努力を重ね続けた人すべてが、「賞に値する」と言っているような気がする。
ノーベル賞の授賞式がある12月10日は、大手企業と公務員の賞与支給日。
賞与のある・なしに関係なく、多くの人たちが光り輝くような社会であれば・・・と、このことばから感じるのだ。
12月に入り、連日のように「〇〇大賞」の発表がされるようになる。
受賞して気分よくなる「大賞」ではないが、「ブラック企業大賞」なるものも発表されている。
ブラック企業大賞2015
以前この賞に選ばれた「ワタミ」のように、営業不振に陥るケースがあるので、経営者側にとっては本当にありがたくない賞だと思う。
そのあまりありがたくない大賞に選ばれたのが、コンビニ業界の最大手となった「セブン・イレブン」だった。
コンビニの場合、多くはフランチャイズでの経営なので「セブン・イレブン・ジャパン」が、どれだけのダメージを受けるのかはわからない。
むしろ、フランチャイズ契約をしている店側へのダメージのほうが、大きいかもしれない。
大賞受賞理由が、フランチャイズ契約をしている店側への業務妨害、「ブラックバイトの温床を作っている」という点のようだ。
「ブラックバイト」つながりという点では「明光義塾」だろう。
そのほかの受賞理由を見てみると、「長時間労働に対する賃金未払い」と「パワーハラスメント」の2つに大別できる。
このような「ブラック企業」が話題になるたびに考えてしまうことなのだが、「企業の社会的使命」とはなんだろうか?ということだ。
これはマルクスの「資本論」とも関係してくることだと思うのだが、企業は収益を上げ無くては永続的に続けることはできない。
それと同時に、従業員に対して日々の生活を不足なくできるように賃金を支払うことと、次世代(=従業員の子供たち)の育成(=「教育」や「職業訓練」だと言われている)をすることだと、言われている。
しかし「ブラック企業」と呼ばれる企業の多くは、従業員に対して日々の生活を不足なくできる賃金を支払う、ということや次世代の育成には興味がなく、自己益ばかりを求めているのでは?と思われる部分が多い。
このような企業が増えることは、日本経済にとってマイナスになるコトはあっても、プラスとなることはない。
そのようなコトがわかっている(はず)にも拘わらず、「ブラック企業」が増えるコトはあっても、減るコトはない。
なんとなくだが、社会全体が「ブラック企業」の存在そのものを、容認してしまっているのでは?という、気がするのだ。
その大きな理由は「仕事があるだけまし」だとか「生活をするためには仕方ない」という、社会的雰囲気があるからではないだろうか?
生活者の「仕方ない」という、あきらめ感に企業が乗じているような気がするのだ。
本来であれば、企業は従業員とその家族を「経済的部分で幸せにする」という使命があるはずだ。
従業員が新しいスキルを身につける機会を設けるだけではなく、その子供たちに対しても十分な教育の機会が与えられるだけの経済的安心感を提供する必要がある。
これらのサイクルがうまく回るコトによって、マルクスの「資本論」が初めて成り立つはずなのだ。
マルクスの「資本論」については、様々な意見があると思う。
ただ、今の日本が「資本論」を基にした「資本主義経済」である、ということを考えれば、その基となっている「資本論」から外れた企業は社会的使命をはたしていない、と言われても仕方がないようにおもう。