12月に入り、連日のように「〇〇大賞」の発表がされるようになる。
受賞して気分よくなる「大賞」ではないが、「ブラック企業大賞」なるものも発表されている。
ブラック企業大賞2015
以前この賞に選ばれた「ワタミ」のように、営業不振に陥るケースがあるので、経営者側にとっては本当にありがたくない賞だと思う。
そのあまりありがたくない大賞に選ばれたのが、コンビニ業界の最大手となった「セブン・イレブン」だった。
コンビニの場合、多くはフランチャイズでの経営なので「セブン・イレブン・ジャパン」が、どれだけのダメージを受けるのかはわからない。
むしろ、フランチャイズ契約をしている店側へのダメージのほうが、大きいかもしれない。
大賞受賞理由が、フランチャイズ契約をしている店側への業務妨害、「ブラックバイトの温床を作っている」という点のようだ。
「ブラックバイト」つながりという点では「明光義塾」だろう。
そのほかの受賞理由を見てみると、「長時間労働に対する賃金未払い」と「パワーハラスメント」の2つに大別できる。
このような「ブラック企業」が話題になるたびに考えてしまうことなのだが、「企業の社会的使命」とはなんだろうか?ということだ。
これはマルクスの「資本論」とも関係してくることだと思うのだが、企業は収益を上げ無くては永続的に続けることはできない。
それと同時に、従業員に対して日々の生活を不足なくできるように賃金を支払うことと、次世代(=従業員の子供たち)の育成(=「教育」や「職業訓練」だと言われている)をすることだと、言われている。
しかし「ブラック企業」と呼ばれる企業の多くは、従業員に対して日々の生活を不足なくできる賃金を支払う、ということや次世代の育成には興味がなく、自己益ばかりを求めているのでは?と思われる部分が多い。
このような企業が増えることは、日本経済にとってマイナスになるコトはあっても、プラスとなることはない。
そのようなコトがわかっている(はず)にも拘わらず、「ブラック企業」が増えるコトはあっても、減るコトはない。
なんとなくだが、社会全体が「ブラック企業」の存在そのものを、容認してしまっているのでは?という、気がするのだ。
その大きな理由は「仕事があるだけまし」だとか「生活をするためには仕方ない」という、社会的雰囲気があるからではないだろうか?
生活者の「仕方ない」という、あきらめ感に企業が乗じているような気がするのだ。
本来であれば、企業は従業員とその家族を「経済的部分で幸せにする」という使命があるはずだ。
従業員が新しいスキルを身につける機会を設けるだけではなく、その子供たちに対しても十分な教育の機会が与えられるだけの経済的安心感を提供する必要がある。
これらのサイクルがうまく回るコトによって、マルクスの「資本論」が初めて成り立つはずなのだ。
マルクスの「資本論」については、様々な意見があると思う。
ただ、今の日本が「資本論」を基にした「資本主義経済」である、ということを考えれば、その基となっている「資本論」から外れた企業は社会的使命をはたしていない、と言われても仕方がないようにおもう。