昨日、「秋葉原無差別殺傷事件」の裁判が始まった。
昨夜のテレビのニュースや今朝の新聞では、裁判の詳細が報道されている。
裁判で話した、彼の言葉がどれだけ真実なのか、分りかねるところが無いわけではない。
というのも、彼が裁判で話した内容の一部に、センセーショナルな印象を与える話があったからだ。
その一つが、母親についての話だ。
反面、母親が描いていた(彼の)理想の姿と現実のギャップがあったのでは?と、感じる部分もあった。
母親が描いていた彼の姿というのは、いわゆる「パーフェクトチャイルド」だったのではないだろうか?と、思ったのだ。
先週末、偶然手にとった新書「一億総ガキ社会」に、偶然このコトバがあったのだ。
親の描く「パーフェクトチャイルド」は、親にとって「総てにおいて、自慢できる子ども」だとすると、まさに彼の母親が描いていた子どもだったのでは?という気がしたのだ。
「子どものため」と言いながら、その実、親の自己中心的視点で満足できる「子どもの姿」であって、本来の子どもの姿ではない。
その期待に応えようと、子どもが頑張れば頑張るだけ、どこかに歪が生まれ、心に大きな闇を作っていってしまったのでは?
このような姿は、最近様々な場所で見るコトができるように感じる。
何も母親に限定されるモノではない。
経済誌が発刊している「育児・教育雑誌」を見ると、このような「パーフェクトチャイルド」を期待する男性も増えているのでは?と、感じている。
男性の育児参加が叫ばれてから、久しい。
そのこと自体は、とても良いことだと思っている。
しかし、お父さんまで一緒になって「パーフェクトチャイルド」を目標としては、子ども自身息を抜く場所がなくなってしまうのではないだろうか?
この夏のドラマで話題になっているコトバがある。
それは、「ビーチャイ・プアチャイ」というコトバだ。
「ビーチャイ=ビューティフル・チャイルド、プアチャイ=プア・チャイルド」というコトらしい。
「プア・チャイルド」と言っても、「(経済的に)貧しい子ども」という意味ではなく、「心身ともに美しい子ども(=ビューティフル・チャイルド)」に対する反対の子どものコトを指すらしい。
私自身はこのドラマを見ていないし、見る気も起きないのだが、このような「二極化的」な捉え方に、危機感を感じてしまう。
子どもの頃から「(親が思うような)パーフェクトな子ども」だったら、子どもとしての成長など期待できないのではないだろうか?
おそらく、それは社会人である私たちも同じだと思うのだ。
余りにも「パーフェクトを求めすぎる」コトで、社会が窒息しかかっているのでは無いか?
それは、「自己満足の追及」でしかないのでは?
そんなコトを考えてしまった。
昨夜のテレビのニュースや今朝の新聞では、裁判の詳細が報道されている。
裁判で話した、彼の言葉がどれだけ真実なのか、分りかねるところが無いわけではない。
というのも、彼が裁判で話した内容の一部に、センセーショナルな印象を与える話があったからだ。
その一つが、母親についての話だ。
反面、母親が描いていた(彼の)理想の姿と現実のギャップがあったのでは?と、感じる部分もあった。
母親が描いていた彼の姿というのは、いわゆる「パーフェクトチャイルド」だったのではないだろうか?と、思ったのだ。
先週末、偶然手にとった新書「一億総ガキ社会」に、偶然このコトバがあったのだ。
親の描く「パーフェクトチャイルド」は、親にとって「総てにおいて、自慢できる子ども」だとすると、まさに彼の母親が描いていた子どもだったのでは?という気がしたのだ。
「子どものため」と言いながら、その実、親の自己中心的視点で満足できる「子どもの姿」であって、本来の子どもの姿ではない。
その期待に応えようと、子どもが頑張れば頑張るだけ、どこかに歪が生まれ、心に大きな闇を作っていってしまったのでは?
このような姿は、最近様々な場所で見るコトができるように感じる。
何も母親に限定されるモノではない。
経済誌が発刊している「育児・教育雑誌」を見ると、このような「パーフェクトチャイルド」を期待する男性も増えているのでは?と、感じている。
男性の育児参加が叫ばれてから、久しい。
そのこと自体は、とても良いことだと思っている。
しかし、お父さんまで一緒になって「パーフェクトチャイルド」を目標としては、子ども自身息を抜く場所がなくなってしまうのではないだろうか?
この夏のドラマで話題になっているコトバがある。
それは、「ビーチャイ・プアチャイ」というコトバだ。
「ビーチャイ=ビューティフル・チャイルド、プアチャイ=プア・チャイルド」というコトらしい。
「プア・チャイルド」と言っても、「(経済的に)貧しい子ども」という意味ではなく、「心身ともに美しい子ども(=ビューティフル・チャイルド)」に対する反対の子どものコトを指すらしい。
私自身はこのドラマを見ていないし、見る気も起きないのだが、このような「二極化的」な捉え方に、危機感を感じてしまう。
子どもの頃から「(親が思うような)パーフェクトな子ども」だったら、子どもとしての成長など期待できないのではないだろうか?
おそらく、それは社会人である私たちも同じだと思うのだ。
余りにも「パーフェクトを求めすぎる」コトで、社会が窒息しかかっているのでは無いか?
それは、「自己満足の追及」でしかないのでは?
そんなコトを考えてしまった。