はんどろやノート

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ゴッホの自画像

2008年10月28日 | はなし
 かれの場合、自家製の(ときには『聖書』から得た)倫理によって自分を拘束しつづけた。それが“絵を描く”というただ一つの営みを自由に開放しておく無意識の方法でもあった。
  (中略)
 自分を倫理という糸でもって巻きあげて拘束してゆくことは、同時に自己を輪郭づけることでもある。絵画的なたとえでいえば、太い茶褐色のクレオン(コンテ)で、間断なく自分自身の顔や姿を輪郭づけているようなもので、ついには線が束になり、まっくろになるが、輪郭の内部だけは白い。
 その白い部分こそ、かれにおける自分であった。それも、絵を描くというだけの自分であった。 (中略) その一点にしか、画家ゴッホはいない。
 そんな人間が、他にいるだろうか。人間の存在は猥雑なほどの多様な場に立っているのに、ゴッホは白い部分にしか存在しない。
 その白い部分がたえず声をあげ、
 _____これが“自分”である。
 と、叫び続けている。
    ( 司馬遼太郎『オランダ紀行』 )

 司馬さんはゴッホが好きだ。この『オランダ紀行』でも、その四分の一をゴッホについて書いている。僕はゴッホについてほとんど知らなかったが、20代のときにこれを読んで、「へえ、ゴッホとはそういう人なのか」と学ばせてもらったのである。司馬さんは『ファン・ゴッホ書簡集』を読んでゴッホが大好きになったという。これは画家ゴッホが、弟テオに宛てた手紙である。「耳切り事件」を起こして精神病院に入ったことで有名なゴッホだが、そのために、精神病とその画をつなげてその作品を分析解剖するという見方をよくされるのだが、それに対して司馬遼太郎はきっぱり「NO」と言う。ゴッホの『書簡集』を読めば、彼の内面がいかに人間的であるかよくわかる、という。 (まだ、僕は読んでいないが。)


 上の絵はゴッホが自分の耳を切ったすぐ後、1889年1月に描いたとされる『包帯をしてパイプをくわえた自画像』とよばれる作品をみて、僕が描いたもの。
 この自画像は面白い。あんな事件を起こして精神病院へ入ったというのに、パイプをくわえてじつに「のんき」な表情である。バックが赤く、背景が描いてない。人物を画くときに、背景を一色で塗り、余計なものは描かない、というのがゴッホの特徴である。そこに、ゴッホの、絵に対しての強い自信が表れている。人物が主題ならば人物だけを描く、それでいいのだ、と。
 そしてこの画は、両目が顔の真ん中に寄っている。
 もう一つ同時に描かれた自画像があって、こっちは二つの目が、逆にはなれている。パイプはくわえておらず、背景(壁の浮世絵ポスター等)が描かれている。ここに描かれたゴッホはまったく自信がないように見える。
   →2つの自画像
 ゴッホの中には、彼の才能の核ともいえる「ゆるぎないもの」があったようである。それを描いたのが「寄り目のパイプのゴッホ」で、背景は赤い。 (この「ゆるぎないもの」というのが、上の司馬さんの説明においては「白い部分」にあたる。)
 ところが現実のゴッホは精神病院にいる、やっかいもの(弟テオの送金で生計をたてていた)である。他者の目からみた、貧相なゴッホである。それが「目のはなれたゴッホ」の画である。
 この二つの画は、同時に描かれたんもので、二枚でワンセットというわけだ。くらべてみると大変おもしろい。 『包帯をしてパイプをくわえた自画像』、僕は大好きである。この画は現在、ロンドンにあるそうだ。


 ゴッホの画は、僕らシロウトでもわかりやすい。というか、インパクトがあって、印象に残る。そこが人気の由縁だろう。
 ゴッホの『ひまわり』は特に有名で、これは何枚かあるが、そのうちの一つは日本の新宿にあって、いつでもだれでも観ることができる。
 この新宿の『ひまわり』は、1987年に安田火災海上が53億円で買ったというニュースでいっそう有名になったその絵である。これは「15本のひまわり」で、1888年にアルルで描かれたもの。安田火災海上はその後日産火災海上と合併し、損保ジャパンとなった。それでこの53億円の15本『ひまわり』は、損保ジャパン東郷青児美術館に常設展示されている。新宿駅西口から歩いて5分、損保ジャパンビル42階である。
 いまここ東郷青児美術館で行われているのは、『ジョットとその遺産展』で、僕はジョットにも興味がでてきたので行ってみようと思っている。ジョットという人は1300年頃に、絵の中にハレー彗星を史上最初に描いて残している人なのだ。もっとも、ハレーはまだ生まれていないので、その彗星に名前はまだなかったが。

 ゴッホは1890年に死んだ。
 日本では、1912年(大正元年)に雑誌『白樺』が「ゴッホ特別号」を出した。そして1921年にはその『白樺』二月号に『ひまわり』が原色版で紹介された。それを観て、衝撃を受け、「わだば、ゴッホになる!」と叫んだのが、青森にいた当時17歳の棟方志功。
 このまえの土曜日(25日)に、TVドラマをやっていましたね。棟方志功を演じていたのは劇団ひとりでしたが、なかなかの好演だったと思います。
 司馬さんといっしょにずっと『街道をゆく』の旅を共にしていたのが須田剋太画伯。雑誌に載せる挿絵はモノクロなのに、須田さんはこの時の旅の絵に色をつけていたという。この『オランダ紀行』は1989年だが、その翌年に須田画伯は亡くなっている。つまり須田さんは、ゴッホが死んで、ちょうど100年後に死んだことになる。20年続けてきた司馬遼太郎・須田剋太の旅は、このオランダの旅がさいごの旅となった。 そして『街道をゆく』のシリーズの挿絵の役目は、その後、安野光雅氏が受け継ぐことになる。

 ゴッホの絵でどれが好きかと問われれば__僕は…なんだろう? 『はね橋』かなあ。この画はオランダの美術館にある。
 
↑ 『ファン・ゴッホ書簡全集』(みすず書房)より

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