ええと、ちょっとつまらない話を。
テーマは、『私』について。
ここでいう『私』とは、おそらくは心理学で言うところの「自我(エゴ)」のことです。(エゴイズム自己中心主義のエゴではないですよ。)
生れた瞬間、私達はまだ『私』になっていません。
まだ、『私』以前の、なんでもない存在です。
その「まだなんでもないもの」は、誰かと(何かと)、「関係をもつ」ことで『私』になっていきます。つくられていきます。その相手は、母や父であったり、他のだれかであったり、モノであったり、空気であったり、音であったります。手を伸ばして触れたり、声を聞いたり、声を出したりして、「関係」をつくります。
声をもらって、声でこたえます。
言葉をもらって、言葉でこたえます。
愛をもらって、愛でこたえます。
笑いをもらって、笑いでこたえます。
不快をもらって、怒りを伝えます。
そうやって、「声」や「言葉」や「感情」や「愛」や「快感」で、『私』がつくられます。
さらに「思想」や「技術」や「知識」や「力」で、『私』が強化されていきます。
そうやって『私』ができていきます。それを『私』とおもって生きています。
でも、ほんとうにそれは『わたし』でしょうか。
『私』ができる前の、「まだなんでもないもの」こそ、「ほんとうのわたし」なのではないでしょうか。
これって、心理学でいうところの「エス」(=ドイツ語、英語では「イド」)のことですね、たぶん。いや、ちがうかな?
「感情」や「快感」や「愛」を身につけることで、生きることができます。「力」や「知識」で、より生きやすくなります。
そしてこれらをうまく使いこなすことで、相手や、社会を、「コントロール」できるようになります。「コントロール」することは、楽しい。
ところが、楽しいことのそばには、ワナもあります。いつもまにか、コントロールすること(されること)が、「生きること」と勘違いしてしまうのです。「コントロール」とは、「支配」です。相手を、支配したり、支配されたり、そういうことが、「生きる喜び」であり、それがすべて、という人間になります。
それでいいのさ、と思う人もいるでしょう。いいのかもしれません。ですが、僕は、それではいやだな、と思うのです。そこは、感性の問題ですね。
「愛」もまた、「支配」の道具になりがちですね。
生れてきて、「愛」をもらいます。「愛」を返します。それは、楽しい。しかしいつのまにかそれが(「愛」が)、「支配する」ための道具になって使用されている。「支配」のやりとりが「愛だ!」と感じるようになる。なんにでも器用な人、不器用な人がいるように、「愛」も「感情」も「言葉」も、上手く使える人は、それを武器に、相手を「コントロール」することができるようになります。楽しくてついやっちゃう(「支配」しちゃう)のです。
僕は、「感情」こそ、「僕自身である」と、最近まで思っていました。でも最近、ちがう、と気づきました。 「感情」も、「愛」や「知識」と同じです。「思想」や「技術」や「ロープ」のように、上手く使えば幸せになれるが、強引につかえば相手を(そして自分を)ギリギリとしめつける「いやな武器」になるのだと思います。ですから「感情」も、自分そのものではなく、「知識」や「言葉」や「愛」と同じように、相手との関係をつくる「道具」のようなものだと。
いままでの僕はどうやら、「感情」にとらわれすぎていたようです。
そうすると、では、「ほんとうのわたし」はどこにあるのだ、という話になります。泣いたり、笑ったり、怒ったりするのが「そいつ」(わたしの本体)ではないとすると…? その、「感情」をもつ以前の自分とは、どんなやつなのだろう? 「知識」や「力」や「感情」や「愛」や「経験」などでできた『私』を、すべてとっぱらってしまう… そこに残った見たことのないもの、そいつが「そいつ」なのか…。 んん…? そいつがそいつ? んんんんん?
『私』を捨てるなど、できるわけはない。できない、できない。それはわかっている。わかってはいても、1日のうち10分くらいでも、『私』という着物を脱ぎ捨てて、「まだなんでもないもの」になれないものだろうか。
ははあ、深呼吸ってそのためにするのかもしれないな…。
そんなことを、考えています。
テーマは、『私』について。
ここでいう『私』とは、おそらくは心理学で言うところの「自我(エゴ)」のことです。(エゴイズム自己中心主義のエゴではないですよ。)
生れた瞬間、私達はまだ『私』になっていません。
まだ、『私』以前の、なんでもない存在です。
その「まだなんでもないもの」は、誰かと(何かと)、「関係をもつ」ことで『私』になっていきます。つくられていきます。その相手は、母や父であったり、他のだれかであったり、モノであったり、空気であったり、音であったります。手を伸ばして触れたり、声を聞いたり、声を出したりして、「関係」をつくります。
声をもらって、声でこたえます。
言葉をもらって、言葉でこたえます。
愛をもらって、愛でこたえます。
笑いをもらって、笑いでこたえます。
不快をもらって、怒りを伝えます。
そうやって、「声」や「言葉」や「感情」や「愛」や「快感」で、『私』がつくられます。
さらに「思想」や「技術」や「知識」や「力」で、『私』が強化されていきます。
そうやって『私』ができていきます。それを『私』とおもって生きています。
でも、ほんとうにそれは『わたし』でしょうか。
『私』ができる前の、「まだなんでもないもの」こそ、「ほんとうのわたし」なのではないでしょうか。
これって、心理学でいうところの「エス」(=ドイツ語、英語では「イド」)のことですね、たぶん。いや、ちがうかな?
「感情」や「快感」や「愛」を身につけることで、生きることができます。「力」や「知識」で、より生きやすくなります。
そしてこれらをうまく使いこなすことで、相手や、社会を、「コントロール」できるようになります。「コントロール」することは、楽しい。
ところが、楽しいことのそばには、ワナもあります。いつもまにか、コントロールすること(されること)が、「生きること」と勘違いしてしまうのです。「コントロール」とは、「支配」です。相手を、支配したり、支配されたり、そういうことが、「生きる喜び」であり、それがすべて、という人間になります。
それでいいのさ、と思う人もいるでしょう。いいのかもしれません。ですが、僕は、それではいやだな、と思うのです。そこは、感性の問題ですね。
「愛」もまた、「支配」の道具になりがちですね。
生れてきて、「愛」をもらいます。「愛」を返します。それは、楽しい。しかしいつのまにかそれが(「愛」が)、「支配する」ための道具になって使用されている。「支配」のやりとりが「愛だ!」と感じるようになる。なんにでも器用な人、不器用な人がいるように、「愛」も「感情」も「言葉」も、上手く使える人は、それを武器に、相手を「コントロール」することができるようになります。楽しくてついやっちゃう(「支配」しちゃう)のです。
僕は、「感情」こそ、「僕自身である」と、最近まで思っていました。でも最近、ちがう、と気づきました。 「感情」も、「愛」や「知識」と同じです。「思想」や「技術」や「ロープ」のように、上手く使えば幸せになれるが、強引につかえば相手を(そして自分を)ギリギリとしめつける「いやな武器」になるのだと思います。ですから「感情」も、自分そのものではなく、「知識」や「言葉」や「愛」と同じように、相手との関係をつくる「道具」のようなものだと。
いままでの僕はどうやら、「感情」にとらわれすぎていたようです。
そうすると、では、「ほんとうのわたし」はどこにあるのだ、という話になります。泣いたり、笑ったり、怒ったりするのが「そいつ」(わたしの本体)ではないとすると…? その、「感情」をもつ以前の自分とは、どんなやつなのだろう? 「知識」や「力」や「感情」や「愛」や「経験」などでできた『私』を、すべてとっぱらってしまう… そこに残った見たことのないもの、そいつが「そいつ」なのか…。 んん…? そいつがそいつ? んんんんん?
『私』を捨てるなど、できるわけはない。できない、できない。それはわかっている。わかってはいても、1日のうち10分くらいでも、『私』という着物を脱ぎ捨てて、「まだなんでもないもの」になれないものだろうか。
ははあ、深呼吸ってそのためにするのかもしれないな…。
そんなことを、考えています。