いい歳こいて恥ずかしいのだが、氷菓のたぐいが好きだ。
一般的にアイスといわれているものです
アイスのなかでも特に棒もの、すなわちアイスキャンディーが好きだ。
容器などに入っているアイスクリームのたぐいはそれほど好きではない。
アイスクリームはおもちゃのしゃもじみたいなもので、ほじくっては食べ、ほじっくては食べ、少し休んでまたほじくっては食べ。
もうそればっかりで、何の変化もありはしない。
そこへいくと棒ものは、さまざまなドラマが展開される。
喜びあり、悲しみあり、怒りあり、一本のアイスキャンディーから人生の教訓さえ得ることができる。
アイスキャンディーの包装をはがす前に、印刷されている文字およびイラストなどに一応目を通す。
そこには原色と漫画的なイラストが氾濫していて、子供相手の商売であって大人は相手にしていないのだなぁ、ということがつくづくわかって少し悲しくなる。
そしてそこに赤城乳業、エスキモー、オハコー、井村屋、豊和食品などの、普段聞きなれぬ会社名を発見して、その感を強くする。
製造は赤城乳業だが販売はカネボウ、という併記を発見して、この業界の流通機構に思いをはせてみるのもまた一興である。
アイスキャンディーの初期段階は、まず包装を取って丸裸にする。
さて、どこからかじろうか。
左の肩からかじる、というのが世間一般で通用している最もポピュラーな食べ方。
続いて右の肩をかじって全体の平均を図る。
別に平均化を図らなくてもいいのだが、初期の段階では世間一般的には何となくそうなる。
中期に至って警戒しなければならないのが崩落事故である。
温度も高まって地盤が緩み、崩落が起きやすい。
崩落事故に遭って、呆然としている子供を見かけることもある。
子供ながらに、どうにもならないことを体験する。
「人生にはこういうこともある」
そういう教訓を学びとるのである。
そしてそのことから、用心ということに思いが至るようになる。
左手にアイスを持って食べつつも、右手は常に崩落に対処するべく出勤の準備を怠らないようになる。
崩落というものは、常に突如として起こるものであるから、その対応は俊敏な右手のほうがいい。
終期において右下下部が無事に口中にかじりとられ、手に一本の平べったい棒だけが残される。
思えばいろんなことがあった。
食べ始めるときのあの胸の高鳴り。
崩落の悲しい思い出。
そこから学んだ用心の心。
もしや、と期待した「あたり」の文字。
しかし何も記述されていなかった棒の裏表。
この棒の周辺をいろどったさまざまな出来事は夢か幻か。
一本の松だけが、城のあったことを示す城跡を見るかのように、一本のアイスキャンディーの棒をじっと見つめるのであった。