浜田屋遼太

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赤飯

2020-05-11 | 日々是好日

我々は赤飯とは縁が薄い。

滅多なことでは赤飯は食べない          

身内の結婚式があって、引き出物と一緒に折箱の赤飯なんかが、何年かに一度あったりする。

そんな赤飯を、つい何となく手を出してしまうということはある。

ゴワゴワと冷え切った赤飯が、あずきの粒とゴマの粒を散在させながら展開している。

一瞬ためらったのち、割り箸をその一角に突入させて掘り起こそうとすると、予想したとおりの抵抗にあう。

冷え切った赤飯は硬い。

そして連帯している。

ほんの一口取り上げようとしているのに、周辺一帯がモッコリと立ち上がってくる。

ここで大抵割り箸が折れる。

ここで大体怒りがこみあげる。

「甘くみたのがいけなかった」と反省し、新たな決意をもって今度は慎重に割り箸を突入させ、慎重に掘り起こし、ようやく一口分を取りあげて口に入れる。

最初はゴワゴワしただけのものが口の中にあり、それが少しずつほぐれ、やがてもち米独特の味わいになっていく。

ややあってあずきの粒が加わり、硬めの皮が破れて中身の粉っぽい味わいになる。

そうこうしているうちに、ゴマの粒が参入してきて、思う間もなく突如という感じで塩の味がしてくる。

このときの塩の味は新鮮で妙にうれしい。

塩の味とはこういう味であったかと、改めて思ってしまうほどの感慨がある。

この感慨は、赤飯以外ではめったに得られるものではない。

塩の味があって、はじめて赤飯の味は生きる。

このあたりになると、「こうしてみると赤飯というのもこれでなかなか、そのあれだね」

などとモゴモゴ言いながら、皿の三分の二ほどは食べてしまっている。

「これでなんだね、たまには赤飯もなかなかいいもんだ」

ということになり、これからはときどき赤飯も食べてみようという気持ちになる。

そう思ったはずなのに、次の機会はなかなかやってこない。

一年や二年はすぐ経ってしまう。

三年ぐらい経って再び赤飯にめぐり合う。

再会した赤飯を見てつくづく思う。

「本当にもう、しょうがない奴だ」

そう思いながら、不用意に割り箸を突入させ、またしてもポッキリと折ってしまう。

そしてまたしても怒る。

怒りながら食べ始め、次第に「赤飯もこれでなかなか…」ということになる。

「これからはときどき…」と思い、そう思ったにもかかわらず、またしても三年間は食べないのである。

 

コメント
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