我々は赤飯とは縁が薄い。
滅多なことでは赤飯は食べない
身内の結婚式があって、引き出物と一緒に折箱の赤飯なんかが、何年かに一度あったりする。
そんな赤飯を、つい何となく手を出してしまうということはある。
ゴワゴワと冷え切った赤飯が、あずきの粒とゴマの粒を散在させながら展開している。
一瞬ためらったのち、割り箸をその一角に突入させて掘り起こそうとすると、予想したとおりの抵抗にあう。
冷え切った赤飯は硬い。
そして連帯している。
ほんの一口取り上げようとしているのに、周辺一帯がモッコリと立ち上がってくる。
ここで大抵割り箸が折れる。
ここで大体怒りがこみあげる。
「甘くみたのがいけなかった」と反省し、新たな決意をもって今度は慎重に割り箸を突入させ、慎重に掘り起こし、ようやく一口分を取りあげて口に入れる。
最初はゴワゴワしただけのものが口の中にあり、それが少しずつほぐれ、やがてもち米独特の味わいになっていく。
ややあってあずきの粒が加わり、硬めの皮が破れて中身の粉っぽい味わいになる。
そうこうしているうちに、ゴマの粒が参入してきて、思う間もなく突如という感じで塩の味がしてくる。
このときの塩の味は新鮮で妙にうれしい。
塩の味とはこういう味であったかと、改めて思ってしまうほどの感慨がある。
この感慨は、赤飯以外ではめったに得られるものではない。
塩の味があって、はじめて赤飯の味は生きる。
このあたりになると、「こうしてみると赤飯というのもこれでなかなか、そのあれだね」
などとモゴモゴ言いながら、皿の三分の二ほどは食べてしまっている。
「これでなんだね、たまには赤飯もなかなかいいもんだ」
ということになり、これからはときどき赤飯も食べてみようという気持ちになる。
そう思ったはずなのに、次の機会はなかなかやってこない。
一年や二年はすぐ経ってしまう。
三年ぐらい経って再び赤飯にめぐり合う。
再会した赤飯を見てつくづく思う。
「本当にもう、しょうがない奴だ」
そう思いながら、不用意に割り箸を突入させ、またしてもポッキリと折ってしまう。
そしてまたしても怒る。
怒りながら食べ始め、次第に「赤飯もこれでなかなか…」ということになる。
「これからはときどき…」と思い、そう思ったにもかかわらず、またしても三年間は食べないのである。