ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

まだ続くか、の「ハウル」の話・・・(,ネタバレ)

2005年01月22日 | 映画
もういい加減ハウルの話はやめようと思ってたんですが、また書いてしまいます・・・(汗)
昨日いただいたコメントの中で、ソフィーの姿が若返ったことについて、「最後までハウルの瞳に映っていた姿だっただけなのかも」と書いてくださって、いい解釈だなあなんて思っていたのですが、後ではたと思い出したことがありました。(いつも思い出すの遅すぎ・・・(汗))
確か公開直前の読売新聞のインタビューだったような気がするのですが、宮崎監督が女性スタッフの意見を聞いた時、「少女に戻す必要はないのではないか」という意見があったこと、それを尊重して、ソフィーの姿が時々若返るようにした、というようなことを言っていたと思いました。
ということは、実はソフィーの呪いは全然解けてなかった、というのが正しかったりして・・・
でも、どちらにしても、おそらく宮崎監督ははっきりとした「正解」は発表しないと思いますし、むしろ正解は決めて欲しくないなあと思います。
謎が多くて、観客に様々に解釈を許している点が、一部の人に面白いと受け取られた理由なのかもしれないなあと思ったりしています。
映画は誰にでもわかるように作られていないといけない、という考え方の映画ファンの方を時々見かけますが、そういう人には許せない作品でしょうね~(汗)
まあ、面白くないという理由はそれだけではないようですが。
私は、「ハウル」はまあ失敗作かもなあとも思うのですが(汗)その代わり、棚からボタモチというか、思いがけず、作者が意図した以上のことを観客に想起させる作品にもなっていると思います。それって、結構すごいことかもしれないなあと思うのですが・・・
私にとっても、まさにタナボタ的な作品のような気がします(笑)
それと、昨日の日記にソフィーが好きとか書いたのですが、まあ好きは好きなんですが、エオウィンほどすごく「好き!」と思うわけでもなく(汗)どうやらソフィーが好きなのがこの作品が好きな理由でもないなあ、と一晩たったら思えました。
ハウルとソフィーのラブストーリーが好き、というのともちょっと違うし・・・
涙もろい私ですが、「ハウル」では一度も泣いてません。ただ、一箇所ちょっと泣きそうになったところがありました。荒地の魔女がソフィーにハウルの心臓を渡して「そんなに欲しいかい。仕方ないねえ。大事にするんだよ」と言う場面でした。
なんか、一つ間違えば「ソフィーの愛が荒地の魔女に勝った」なんて解釈されてしまいそうなんですが(汗)私がなぜ涙腺を刺激されかけたのかと言えば、荒地の魔女はソフィーの熱意に負けたというよりは、ソフィーのことが好きになってたんだなあ、と思ったからでした。(と昨夜分析したんですが(汗))
そんなことを考えていたら、「ハウル」のどこが好きなのか、ということに思い至ったように思いました。かなーり陳腐ですが(汗)「優しさ」とか「思いやり」に満ちているところなのかなあと。
そんなのこれまでの宮崎アニメでもさんざん描かれていたじゃん、と言われそうですが、なんと言うか、ソフィーやその周囲のキャラクターたちの「優しさ」「思いやり」は、それまでの宮崎アニメの、勇気があって正義感に溢れているりっばな主人公たちの「優しさ」とはちょっと違うように思えました。
ソフィーの態度も勇気があって正義感に溢れていますが、それは老婆に変えられたことで初めて現れたことで、最初のソフィーにはそういうところはありませんでした。まあ最後の方では少女の姿に戻っていましたが、かわいい女の子ではなく老婆の姿のソフィーが活躍し、周囲のキャラクターたちもその老婆の姿のままのソフィーのことを好きになっていたという点が、これまでと違うと思えた理由かもしれません。このあたりは原作どおりか・・・
しかし、カブがソフィーを「愛する人」として認識したのは果たしていつぐらいからだったんでしょうねえ?(笑)

あー、でも今日書いた理由もなんかハズしているような気がする・・・(汗)
別にきっちり原因を分析しなくてもいいのに、と思いつつも、つい色々考えてしまうのでした。
コメント (2)
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橋から観たマンハッタン

2005年01月22日 | 旅行

これはブルックリン橋を渡っている途中に撮りました。とがったビルはエンパイア・ステートビルですね。
手前にあるのは何て橋だったか(汗)歩いては渡れない橋です。
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トールキンの嫌った「寓意」のこと

2005年01月22日 | 指輪物語&トールキン
ラジオドラマ、昨日は少し聴けたのですが、日記一日分に相当するほどの感想が出てこないので(汗)ちょっと違う話を。
実は映画カテゴリーで最近書きまくっている(笑)「ハウルの動く城」の感想でも同じようなことを書いたのですが、指輪カテゴリーでも書いておきたかったので、ちょっと内容ダブってます。「その話はもう読んだ!」と思われる方、すみません。

「指輪物語」を初めて読んで、最後にトールキンのあとがきを読んで、トールキンが「寓意」を嫌っているという話を読んだ時は、「え、そうなの?」とびっくりしたものでした。
「指輪物語」はとても寓意的で、メッセージ性のある作品に思えたからです。
これは決して私だけではないはずです。「指輪物語」発表以来、多くの人がそう感じたはずです。そして、「一つの指輪=原爆」だとか、色々な寓意を取り沙汰し、そういう受け取り方に対してトールキンはあのようなあとがきを書いたようです。
トールキンが自分でそう言うんだからそうなんだろうなあ・・・と素直に受け入れた私ですが(笑)しばらくはその意味が理解はできていませんでした。
私にとっては、ファンタジーは現実世界を象徴的に映したものでないと面白くないし価値もない、と思えていたのです。
これは「ゲド戦記」の影響がかなりあると思います。「ゲド」は寓意で物語が成り立っているように感じます。何か表現したい抽象的なテーマを、物語に変えて表現しているように思えました。
もちろんそれだけが「ゲド」の魅力ではないと思いますが、そういう物語の創り方が、私には魅力的に感じたことは確かです。今でも「ゲド」は好きですよ。
そんな私が、トールキンが寓意を嫌ったということの意味を初めてちょっとだけ理解できた、と思ったのは、FotR SEEの特典映像でのコメントでした。誰が言ってたかは忘れたんですが・・・(汗)
その人は「トールキンが寓意を嫌ったのは、自分の物語を様々に解釈して欲しかったからだ」と言っていたのですが、この言葉に「ああ、そういうことか」と初めて少しだけ理解できました。
そして、つい最近、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」を読み返していて、意外な言葉に行き当たりました。
バスチアンが嫌いな「本」について説明されていた文章で、「物語の中に少しでも何かを説教しようとか、そういう意図に気がつくとすぐに読むのをやめてしまうくらいだった」というようなことが書いてあったのです。「これってトールキンの言葉とそっくりじゃん!」ととてもびっくりしました。
そしてその後に、「物語に意図的に何かを篭めることは読者を支配することだ」というようなことが書いてあって、目からウロコが落ちるようにトールキンが寓意を嫌った理由が「これだ!」と思いました。
エンデはトールキンを読んではいたような気がしますが、トールキンから影響を受けているかどうかについてはよく知りません。ちゃんとその気になって調べればわかるかもしれませんが・・・でもエンデの作風自体からはトールキンの影響は特に感じませんが。
そして、「はてしない物語」の岩波少年文庫版の訳者あとがきで、エンデは物語を作る時に、頭の中に浮かぶ映像を元に無秩序に、先のことは考えずにひとつひとつの場面を書いて行く手法を取っていた、と読んでとてもびっくりしました。「はてしない物語」も、「本の中に入り込んでしまう物語を書きたい」というだけで書き始め、どう結末がつくのかエンデ自身も分からずに書いていたというのです。
「はてしない物語」もとてもメッセージ性、寓意性の強い作品だと思っていたので、これには本当にびっくりでした。本当に何も考えないであの結末にたどり着いたんでしょうか!? 本人がそう言うからそうなんでしょうね・・・
ただ、もちろん本人の思想やおかれた環境は作品に影響を与えるけれど、というようなことは書いてありましたが、私はそれが物語に方向性を与えるのだな、と解釈しました。
この言葉も、トールキンがあとがきで似たようなことを書いていたなあと思いました。エンデの言葉の方がよりわかりやすいですが、トールキンの言葉と併せて読むとよりくっきり理解できるように思いました。
そして、トールキンもエンデも同じようなことを言っているのなら、意図的に寓意を篭めずにあのような物語を書くことは本当に可能なのかも、と実感できるようになりました。
その後、ティム・バートンが「ビッグ・フィッシュ」で来日した時の記者会見で、「物語に作者は様々なテーマを篭めるけれど、それは見る人がそれとなく気づく程度のものにするべきだ」というような発言をしていたと教えていただきました。
私が好きなファンタジー作品の作者が3人も似たようなことを言っているのに、不思議な気分になりました。
読む(観る)人の想像力を刺激し、それぞれに解釈を委ねられる作品・・・もしかしたら、ファンタジーって本来はそういうものであるべきかなのかもしれないと・・・
そう言えば、「ゲド戦記」が4巻から作品のカラーが変わり、かなりファンタジーファンに批判されているらしく、4巻以降も結構好きな私は不思議だったのですが、確かにトールキンやエンデやティム・バートンの意見によれば、その理由もわかるような気がします。それでも私は「帰還」以降の「ゲド」も好きですけどね。
で、「ハウルの動く城」を見て、また感じることがありました。
私は映画カテゴリーでは散々書いてますが(笑)賛否両論渦巻く中、「ハウル」は結構好きなのです。それも、最近は宮崎アニメに食傷気味だったりしたので、自分でも「なんで?」と意外でした。
それが、評判が悪い理由のひとつに、「これまでの宮崎アニメに比べてテーマが小さい」と言われているらしいのを読んで、「あれ・・・」と思いました。
そうか、もしかしたら今までの宮崎アニメは、その「壮大なテーマ」がなんだか押し付けがましく感じられたのかもしれないと・・・
「ハウル」のテーマはかなりシンプル、だと思うのですが、色々と思わせぶりというかはっきりしない表現があり、それが「訳が分からない」と感じる人と、その理由を熱心に分析する人とにきっぱり分かれているのですよね。
私には「ハウル」の謎が多い面は、見る人に解釈の余地を残していていいなあと思えました。ファンタジーに「想像の余地がある」ということがこんなに楽しいものだとは思いませんでした。
指輪ファンには「ハウル」が面白くないという方が結構多いので、「ハウル」を引き合いに出した例えはあまり理解していただけないかもしれませんが(汗)なんだか私には「想像の余地があるファンタジーの面白さ」を改めて教えてくれたような気がしています。
というわけで、トールキンが言う「寓意」について会得した! と思っている今日この頃なのでした。的外しているかもしれませんが・・・(汗)
コメント (6)
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