もういい加減ハウルの話はやめようと思ってたんですが、また書いてしまいます・・・(汗)
昨日いただいたコメントの中で、ソフィーの姿が若返ったことについて、「最後までハウルの瞳に映っていた姿だっただけなのかも」と書いてくださって、いい解釈だなあなんて思っていたのですが、後ではたと思い出したことがありました。(いつも思い出すの遅すぎ・・・(汗))
確か公開直前の読売新聞のインタビューだったような気がするのですが、宮崎監督が女性スタッフの意見を聞いた時、「少女に戻す必要はないのではないか」という意見があったこと、それを尊重して、ソフィーの姿が時々若返るようにした、というようなことを言っていたと思いました。
ということは、実はソフィーの呪いは全然解けてなかった、というのが正しかったりして・・・
でも、どちらにしても、おそらく宮崎監督ははっきりとした「正解」は発表しないと思いますし、むしろ正解は決めて欲しくないなあと思います。
謎が多くて、観客に様々に解釈を許している点が、一部の人に面白いと受け取られた理由なのかもしれないなあと思ったりしています。
映画は誰にでもわかるように作られていないといけない、という考え方の映画ファンの方を時々見かけますが、そういう人には許せない作品でしょうね~(汗)
まあ、面白くないという理由はそれだけではないようですが。
私は、「ハウル」はまあ失敗作かもなあとも思うのですが(汗)その代わり、棚からボタモチというか、思いがけず、作者が意図した以上のことを観客に想起させる作品にもなっていると思います。それって、結構すごいことかもしれないなあと思うのですが・・・
私にとっても、まさにタナボタ的な作品のような気がします(笑)
それと、昨日の日記にソフィーが好きとか書いたのですが、まあ好きは好きなんですが、エオウィンほどすごく「好き!」と思うわけでもなく(汗)どうやらソフィーが好きなのがこの作品が好きな理由でもないなあ、と一晩たったら思えました。
ハウルとソフィーのラブストーリーが好き、というのともちょっと違うし・・・
涙もろい私ですが、「ハウル」では一度も泣いてません。ただ、一箇所ちょっと泣きそうになったところがありました。荒地の魔女がソフィーにハウルの心臓を渡して「そんなに欲しいかい。仕方ないねえ。大事にするんだよ」と言う場面でした。
なんか、一つ間違えば「ソフィーの愛が荒地の魔女に勝った」なんて解釈されてしまいそうなんですが(汗)私がなぜ涙腺を刺激されかけたのかと言えば、荒地の魔女はソフィーの熱意に負けたというよりは、ソフィーのことが好きになってたんだなあ、と思ったからでした。(と昨夜分析したんですが(汗))
そんなことを考えていたら、「ハウル」のどこが好きなのか、ということに思い至ったように思いました。かなーり陳腐ですが(汗)「優しさ」とか「思いやり」に満ちているところなのかなあと。
そんなのこれまでの宮崎アニメでもさんざん描かれていたじゃん、と言われそうですが、なんと言うか、ソフィーやその周囲のキャラクターたちの「優しさ」「思いやり」は、それまでの宮崎アニメの、勇気があって正義感に溢れているりっばな主人公たちの「優しさ」とはちょっと違うように思えました。
ソフィーの態度も勇気があって正義感に溢れていますが、それは老婆に変えられたことで初めて現れたことで、最初のソフィーにはそういうところはありませんでした。まあ最後の方では少女の姿に戻っていましたが、かわいい女の子ではなく老婆の姿のソフィーが活躍し、周囲のキャラクターたちもその老婆の姿のままのソフィーのことを好きになっていたという点が、これまでと違うと思えた理由かもしれません。このあたりは原作どおりか・・・
しかし、カブがソフィーを「愛する人」として認識したのは果たしていつぐらいからだったんでしょうねえ?(笑)
あー、でも今日書いた理由もなんかハズしているような気がする・・・(汗)
別にきっちり原因を分析しなくてもいいのに、と思いつつも、つい色々考えてしまうのでした。
昨日いただいたコメントの中で、ソフィーの姿が若返ったことについて、「最後までハウルの瞳に映っていた姿だっただけなのかも」と書いてくださって、いい解釈だなあなんて思っていたのですが、後ではたと思い出したことがありました。(いつも思い出すの遅すぎ・・・(汗))
確か公開直前の読売新聞のインタビューだったような気がするのですが、宮崎監督が女性スタッフの意見を聞いた時、「少女に戻す必要はないのではないか」という意見があったこと、それを尊重して、ソフィーの姿が時々若返るようにした、というようなことを言っていたと思いました。
ということは、実はソフィーの呪いは全然解けてなかった、というのが正しかったりして・・・
でも、どちらにしても、おそらく宮崎監督ははっきりとした「正解」は発表しないと思いますし、むしろ正解は決めて欲しくないなあと思います。
謎が多くて、観客に様々に解釈を許している点が、一部の人に面白いと受け取られた理由なのかもしれないなあと思ったりしています。
映画は誰にでもわかるように作られていないといけない、という考え方の映画ファンの方を時々見かけますが、そういう人には許せない作品でしょうね~(汗)
まあ、面白くないという理由はそれだけではないようですが。
私は、「ハウル」はまあ失敗作かもなあとも思うのですが(汗)その代わり、棚からボタモチというか、思いがけず、作者が意図した以上のことを観客に想起させる作品にもなっていると思います。それって、結構すごいことかもしれないなあと思うのですが・・・
私にとっても、まさにタナボタ的な作品のような気がします(笑)
それと、昨日の日記にソフィーが好きとか書いたのですが、まあ好きは好きなんですが、エオウィンほどすごく「好き!」と思うわけでもなく(汗)どうやらソフィーが好きなのがこの作品が好きな理由でもないなあ、と一晩たったら思えました。
ハウルとソフィーのラブストーリーが好き、というのともちょっと違うし・・・
涙もろい私ですが、「ハウル」では一度も泣いてません。ただ、一箇所ちょっと泣きそうになったところがありました。荒地の魔女がソフィーにハウルの心臓を渡して「そんなに欲しいかい。仕方ないねえ。大事にするんだよ」と言う場面でした。
なんか、一つ間違えば「ソフィーの愛が荒地の魔女に勝った」なんて解釈されてしまいそうなんですが(汗)私がなぜ涙腺を刺激されかけたのかと言えば、荒地の魔女はソフィーの熱意に負けたというよりは、ソフィーのことが好きになってたんだなあ、と思ったからでした。(と昨夜分析したんですが(汗))
そんなことを考えていたら、「ハウル」のどこが好きなのか、ということに思い至ったように思いました。かなーり陳腐ですが(汗)「優しさ」とか「思いやり」に満ちているところなのかなあと。
そんなのこれまでの宮崎アニメでもさんざん描かれていたじゃん、と言われそうですが、なんと言うか、ソフィーやその周囲のキャラクターたちの「優しさ」「思いやり」は、それまでの宮崎アニメの、勇気があって正義感に溢れているりっばな主人公たちの「優しさ」とはちょっと違うように思えました。
ソフィーの態度も勇気があって正義感に溢れていますが、それは老婆に変えられたことで初めて現れたことで、最初のソフィーにはそういうところはありませんでした。まあ最後の方では少女の姿に戻っていましたが、かわいい女の子ではなく老婆の姿のソフィーが活躍し、周囲のキャラクターたちもその老婆の姿のままのソフィーのことを好きになっていたという点が、これまでと違うと思えた理由かもしれません。このあたりは原作どおりか・・・
しかし、カブがソフィーを「愛する人」として認識したのは果たしていつぐらいからだったんでしょうねえ?(笑)
あー、でも今日書いた理由もなんかハズしているような気がする・・・(汗)
別にきっちり原因を分析しなくてもいいのに、と思いつつも、つい色々考えてしまうのでした。