さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

伊達正宗ゆかりの寺「蔵福寺」

2009-12-09 20:35:46 | 閑話休題
江戸の昔、茨城県阿見町周辺の村々は、大半が『仙台伊達藩』の領地でした。常陸伊達領は、阿見を中心に一万石の知行地が設けられ、その本陣は、龍ヶ崎に置かれていた。
幕府は、大名領を一場所に集約させず、各地に飛び地として分散させた。今から400年前、慶長11年(1606年)、天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、伊達正宗に阿見町周辺(昔の信田郡大室の辺り)を、味方についた恩賞として与えた。しかし、徳川家康は、伊達正宗を『天下を狙う野望者』として危険視していたため、龍ヶ崎の本陣と、大室との真ん中にある位置、今の吉原周辺、交通の要所に幕府直轄の『天領』を配置した。この阿見町吉原には、『阿見プレミアムアウトレット』が平成21年7月9日にオープン。この村の歴史始まって以来の沢山の人々が連日、訪れているのだ。
□当時の歴史
1606(慶長11)年 伊達政宗は、常陸国に1万国の飛地を得る。
慶長11年12月  正宗の長女:五郎八姫、徳川家康の六男:松平忠輝が結婚
〃 18年     正宗は、支倉常長一行をスペインに使節団として派遣
〃 19年     大坂冬の陣
1615(元和1)年大坂夏の陣
元和2年      徳川家康が亡くなった。
〃 3年      日光東照宮の造営
          後継ぎ:忠宗と将軍秀忠の養女振姫との結婚
〃 4年      仙台藩本領の見分を行った。
1625(寛永2)年飛地として拝領した龍ヶ崎領の見分を行った。

□伊達政宗の足取り
寛永2年8月15日 江戸にて、月見の連歌会を主催
      21日 大御所秀忠、将軍家光より暇乞いの許可がおりる
      23日 江戸を駕籠で出発、翌日、利根川を渡って龍ヶ崎到着
      27日 領内の信太郡追原村(阿見町)の見分や鷹狩り。    
    9月 1日 霞ヶ浦沿岸の美浦村から舟に乗り潮来に着く。鹿島見物。
    9月8~9日頃 江戸に戻った。
※正宗は、8月28日付の手紙を飛騨高山の藩主あてに送っている。その手紙によると、「鷹狩りを楽しみに行ったが、獲物がおらず、退屈であくびがでたよ」と書いてあった。(大阪城天守閣所蔵)
※8月27日前後に伊達正宗(60才のとき)追原村の真言宗蔵福寺に立ち寄ったという記録がある。この寺は、その後も、仙台藩との関わりは深く、代々の藩主は、参勤交代のおり休息所として立ち寄っている。
□蔵福寺
真言宗豊山派の寺院、開山は応永初年(1400頃)、現在の場所に再建されたのは、1660年。伊達家より松20本を拝領して再建したとの記録がある。     
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塙・お不動様

2009-12-09 19:49:11 | 閑話休題
阿見町の名所百選に選ばれている「塙の不動堂」は、阿見町追原の真言宗蔵福寺に所属し、「生延山塙不動尊」と言われ、本尊は不動明王座像です。境内のタブノキの大木は町指定文化財。
むかし、この辺りは、池や潟(かた)で、交通の難所、犠牲者も多かったため、池の辺を鎮護する目的で創立されたとのこと。不動明王は、降魔(こうま)や延命(えんめい)のご利益があるからです。
言い伝えによると、お不動様の住職は、安心して子供を生み育てることが次の世代の繁栄であると固く信じ、人々の安産を祈願し、荒行の火渡りなど苦行を重ねてお不動様のご加護をお祈りしました。近世では、安産・子育て不動として、女性の参拝者に人気。今でも、元旦には蔵福寺のお坊さんが来て、護摩修行を行い、お祈りをしている。
お不動様の吊り鐘のお話・・・
お不動様の住職は、お不動様の教えを信徒に教え、村々にひろめていきました。お不動様が吊り鐘を鋳造するという話が、村々にひろまったとき、みな、我先にはせ参じました。信徒たちは、真っ赤に溶けた炉の中を見つめながら、我が身につけていたカンザシなど金具をその中に投げ入れ、一心にお祈りしました。傍らでは、お坊さんの読経が続き、すばらしい音色の鐘が完成しました。
  「しずかさや 鐘をはなれて かねのおと」 (詠み人しらず)
この吊り鐘は、残念ながら太平洋戦争のとき、兵器製造という目的で徴発されてしまいました。
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