江戸の昔、茨城県阿見町周辺の村々は、大半が『仙台伊達藩』の領地でした。常陸伊達領は、阿見を中心に一万石の知行地が設けられ、その本陣は、龍ヶ崎に置かれていた。
幕府は、大名領を一場所に集約させず、各地に飛び地として分散させた。今から400年前、慶長11年(1606年)、天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、伊達正宗に阿見町周辺(昔の信田郡大室の辺り)を、味方についた恩賞として与えた。しかし、徳川家康は、伊達正宗を『天下を狙う野望者』として危険視していたため、龍ヶ崎の本陣と、大室との真ん中にある位置、今の吉原周辺、交通の要所に幕府直轄の『天領』を配置した。この阿見町吉原には、『阿見プレミアムアウトレット』が平成21年7月9日にオープン。この村の歴史始まって以来の沢山の人々が連日、訪れているのだ。
□当時の歴史
1606(慶長11)年 伊達政宗は、常陸国に1万国の飛地を得る。
慶長11年12月 正宗の長女:五郎八姫、徳川家康の六男:松平忠輝が結婚
〃 18年 正宗は、支倉常長一行をスペインに使節団として派遣
〃 19年 大坂冬の陣
1615(元和1)年大坂夏の陣
元和2年 徳川家康が亡くなった。
〃 3年 日光東照宮の造営
後継ぎ:忠宗と将軍秀忠の養女振姫との結婚
〃 4年 仙台藩本領の見分を行った。
1625(寛永2)年飛地として拝領した龍ヶ崎領の見分を行った。
□伊達政宗の足取り
寛永2年8月15日 江戸にて、月見の連歌会を主催
21日 大御所秀忠、将軍家光より暇乞いの許可がおりる
23日 江戸を駕籠で出発、翌日、利根川を渡って龍ヶ崎到着
27日 領内の信太郡追原村(阿見町)の見分や鷹狩り。
9月 1日 霞ヶ浦沿岸の美浦村から舟に乗り潮来に着く。鹿島見物。
9月8~9日頃 江戸に戻った。
※正宗は、8月28日付の手紙を飛騨高山の藩主あてに送っている。その手紙によると、「鷹狩りを楽しみに行ったが、獲物がおらず、退屈であくびがでたよ」と書いてあった。(大阪城天守閣所蔵)
※8月27日前後に伊達正宗(60才のとき)追原村の真言宗蔵福寺に立ち寄ったという記録がある。この寺は、その後も、仙台藩との関わりは深く、代々の藩主は、参勤交代のおり休息所として立ち寄っている。
□蔵福寺
真言宗豊山派の寺院、開山は応永初年(1400頃)、現在の場所に再建されたのは、1660年。伊達家より松20本を拝領して再建したとの記録がある。
幕府は、大名領を一場所に集約させず、各地に飛び地として分散させた。今から400年前、慶長11年(1606年)、天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康は、伊達正宗に阿見町周辺(昔の信田郡大室の辺り)を、味方についた恩賞として与えた。しかし、徳川家康は、伊達正宗を『天下を狙う野望者』として危険視していたため、龍ヶ崎の本陣と、大室との真ん中にある位置、今の吉原周辺、交通の要所に幕府直轄の『天領』を配置した。この阿見町吉原には、『阿見プレミアムアウトレット』が平成21年7月9日にオープン。この村の歴史始まって以来の沢山の人々が連日、訪れているのだ。
□当時の歴史
1606(慶長11)年 伊達政宗は、常陸国に1万国の飛地を得る。
慶長11年12月 正宗の長女:五郎八姫、徳川家康の六男:松平忠輝が結婚
〃 18年 正宗は、支倉常長一行をスペインに使節団として派遣
〃 19年 大坂冬の陣
1615(元和1)年大坂夏の陣
元和2年 徳川家康が亡くなった。
〃 3年 日光東照宮の造営
後継ぎ:忠宗と将軍秀忠の養女振姫との結婚
〃 4年 仙台藩本領の見分を行った。
1625(寛永2)年飛地として拝領した龍ヶ崎領の見分を行った。
□伊達政宗の足取り
寛永2年8月15日 江戸にて、月見の連歌会を主催
21日 大御所秀忠、将軍家光より暇乞いの許可がおりる
23日 江戸を駕籠で出発、翌日、利根川を渡って龍ヶ崎到着
27日 領内の信太郡追原村(阿見町)の見分や鷹狩り。
9月 1日 霞ヶ浦沿岸の美浦村から舟に乗り潮来に着く。鹿島見物。
9月8~9日頃 江戸に戻った。
※正宗は、8月28日付の手紙を飛騨高山の藩主あてに送っている。その手紙によると、「鷹狩りを楽しみに行ったが、獲物がおらず、退屈であくびがでたよ」と書いてあった。(大阪城天守閣所蔵)
※8月27日前後に伊達正宗(60才のとき)追原村の真言宗蔵福寺に立ち寄ったという記録がある。この寺は、その後も、仙台藩との関わりは深く、代々の藩主は、参勤交代のおり休息所として立ち寄っている。
□蔵福寺
真言宗豊山派の寺院、開山は応永初年(1400頃)、現在の場所に再建されたのは、1660年。伊達家より松20本を拝領して再建したとの記録がある。