さだ・とし信州温泉紀行

続編;茨城パートⅡ

稲葉ゼミ三河ツアー(3)~長篠の戦い

2013-12-14 07:31:07 | 稲葉ゼミ




国指定史跡 長篠城址
住所:愛知県新城市長篠字市場22-1

長篠の戦いは、「織田の鉄砲隊vs武田騎馬隊」の決戦で日本の歴史が大きく動いた戦であった。
その歴史
□1573年(元亀4年) 野田城攻め~武田信玄最後の戦い~
 武田信玄は野田城を落としたが、直後喀血。軍を甲斐に引き返す道中で死す。信玄を失い、勢力が弱まった長篠城を家康が支配下にいれた。
□1575年(天正3年) 長篠の戦い~武田軍1万5千の猛攻に耐える~
 長篠城奪回を目指した「武田勝頼29才」は、1万5千の軍で包囲。亀山城から移った新城主の「奥平貞正21才」以下500が危機に瀕して落城寸前となった。
 鳥居強右衛門(すねえもん)が伝令として、夜半に抜け出し、岡崎の家康に急を告げることに成功。織田信長3万、家康8千の援軍が設楽原に到着、陣を張った。
武田軍の軍議で、信玄の頃からの重臣たちが、敵軍が優勢なことから撤退するよう進言したが、激論の末、勝頼はこれを却下。決戦の意志が強く出撃が決定。設楽原が主戦場となった。
□1575年(天正3年)設楽原の決戦~織田・徳川軍の歴史的大勝利~
設楽原に進撃し、連吾川(れんごがわ)に沿って陣地を築いた連合軍は、「火縄銃」という新兵器を使用、「馬防棚(ばぼうさく)」と鉄砲隊という戦術で圧勝。
長篠の戦いは、斬新さ・合理性を追求した信長と、伝統に固執した勝頼との激突であり、新時代と旧時代の対決であった。
その意味で、「関ヶ原の戦い」「小牧長久手の戦い」とともに日本史史上大きな意味を持つ。
※「小牧長久手の戦い」・・1584年(天正12年)に、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。結果は、豊臣軍の戦略的勝利。徳川・織田連合軍の戦術的勝利。
※「関ヶ原の戦い」・・・安土桃山時代の1600年(慶長5年)関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われた。東軍の勝利(徳川家康、他)、 西軍の石田三成ら斬首

□1576年(天正4年)新しい城「新城」~奥平信昌が城主になる~ 
長篠の戦いで功績を挙げた長篠城主・奥平貞正は信長から「信」の一字をもらって、「信昌」と改名、家康からは長女「亀姫」をめとり、「新城城」を築城した。これが新城市の由来。


鳥居強右衛門(とりい すねえもん)磔刑(たくけい)の図
1575年5月14日、武田軍が総攻撃をしかけた、城中の食料はあと4,5日分だけ。その夜、救援を求める使者として、城を抜け出た鳥居強右衛門は、岡崎に走った(長篠~岡崎50Km。家康、信長に城の危急を訴えることが出来た。使命を果たして、長篠城の対岸まで戻ったところで、厳重な警戒中の武田軍に捕らえられる。
武田軍より、「援軍はこない。城を開け、武田は厚くもてなしてくれる!」と叫べと説得されたが、鳥居強右衛門は「援軍は来る。この眼で見てきた。あと2,3日!堅固に守れ!」と叫んだ。・・・・・武田軍は、彼を磔にした。彼の行動は、三河武士の模範として、今も語り継がれている。




当時の様子が再現された馬防棚




火縄銃
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