殉国七士廟(じゅんこく ななし びょう)
愛知県西尾市の三ヶ根山山頂にある廟。東京裁判判決に従い、死刑執行されたA級戦犯の七名を祀っている。
七氏は、昭和23年12月23日未明、米国・英国・中国・ソ連の連合国代表が立ち会って、東京巣鴨で絞首刑を執行された。
12月25日夜半、東京裁判の弁護士を務めた三文字正平氏らが、骨捨て場から空き缶で拾いあげ、ひそかに持ち出し、遺骨は、万一を考え三文字氏の甥の名前で、熱海の興亜観音に安置された。
それから、約10年後、昭和35年に三文字弁護士らによって廟と墓碑が建立されたもの。
※靖国神社には、戦死者の遺骨は納められていない。神社は神霊を祭る社であり、靖国神社では国のため戦争・事変で命を落とした戦没者、およびその他の公務殉職者の霊を祭神として祀っている。
※1978年(昭和53年)A級戦犯も靖国神社に合祀された。2001年(平成13年)当時首相であった小泉純一郎が靖国神社に参拝したことをきっかけに靖国神社のA級戦犯分祀論が注目を集めている。
□ 被祀者(カッコ内は大東亜戦争期の肩書)
軍人
(1)東條英機(首相・陸軍大将)
「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」
辞世の句は、
「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」
(2)土肥原賢二(陸軍大将)
対中国の情報・謀略の中心人物、特務機関。満州事変当時に天津の土肥原(賢二)機関は溥儀(ふぎ)の脱出工作を行った。
上海,北京,南京,天津など各地に特務機関を配し,日中戦争による占領地の拡大にともない,占領地の政治工作,行政指導,経済謀略など暗躍。
(3)板垣征四郎(陸軍大将)
関東軍高級参謀として満州事変を決行、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官として終戦を迎えた。
※満州事変・・・1931年(昭和6年年)9月18日に中華民国奉天郊外の柳条湖で、関東軍(満洲駐留の大日本帝国陸軍の軍)が南満州鉄道の線路を爆破した事件に端を発し、関東軍はわずか5ヶ月の間に満洲全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めた。
この軍事衝突を境に、中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化。満洲国の建国により中国市場に関心を持つ米国他の列強との対立も深刻化した。
※第7方面軍・・・所在地シンガポール
(4)木村兵太郎(陸軍大将)
昭和19年(1944年)8月、ビルマ方面軍司令官。 昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマ防衛が危機に直面したとき、木村は恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺、作戦指導はほぼ不可能な状態に陥ったと言われている。
4月23日、木村は幕僚とともに飛行機でラングーンを脱出、木村はこの逃避行の後に陸軍大将に昇進している。
木村を含めたビルマ方面軍司令部の唐突なラングーン放棄により、方面軍の指揮命令系統は大混乱に陥った。イラワジ河西部でイギリス軍と激戦中だった第28軍は敵中に孤立してしまい、のちに脱出する過程で半数以上が死亡するという大きな犠牲を払うことになった。ビルマ戦役における日本軍の戦死者は約14万4千人に達するが、悲惨を極めたと言われるインパール作戦における戦死者は1万8千人と12.5%であり、戦死者の約52%がこの最終段階で発生している。
(5)松井石根(陸軍大将)
名古屋市出身。陸軍士官学校、陸軍大学校(18期首席)を卒業。
松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける。
中国共産党は松井を南京事件の責任者、日本軍による非道の象徴的人物と位置づけている。
(6)武藤章(陸軍中将)
1944年(昭和19年)10月に第14方面軍(フィリピン)の参謀長に就任した。これは第14方面軍司令官に任命された山下奉文の希望によるもので、フィリピンの地で終戦を迎えた。山下らが起訴されたマニラ軍事裁判では、逮捕起訴されないどころか、弁護人補佐として出廷し山下らの弁護につとめた。
東京裁判で捕虜虐待の罪により死刑判決を受けたが、武藤はフィリピン現地での、捕虜虐待などを取扱ったマニラ軍事裁判に訴追されることなく弁護人補佐としてかかわっており、この死刑判決はきわめて矛盾していると指摘されている。
辞世の句は、
「散る紅葉 吹かるるままの行方哉」
(7)文官
広田弘毅(首相)
東京帝国大学法学部政治学科、大学卒業後の1905年(明治38年)に外交官試験を受けたが、英語が苦手で失敗、翌年1906年(明治39年)、首席で合格して外務省に入省した。同期に吉田茂らがいる。
広田は55の訴因で訴えられていたが、そのうち「侵略戦争の共同謀議」、「満州事変以降の侵略戦争」、「戦争法規遵守義務の無視」の三つの訴因で有罪と判定された。
初期の日中戦争について、「広田はこれらの計画をすべて十分に知っており、そしてこれを支持した」「外交交渉で日本の要求が満たされるに至らないときは、武力を行使することに終始賛成していた」とした。また南京事件に関しては「かれがとることができた他のどのような措置もとらなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった」と指摘し、「彼の不作為は、犯罪的な過失に達するものであった」としている。
※城山三郎『落日燃ゆ』
広田弘毅が外相・首相を務めた期間は、日中が散発的な衝突を繰り返しつつ、やがて全面的な戦争に突入していく時期と重なっている。広田が強硬な大陸政策を取る軍部の方針に反対でありながら抵抗出来ず、東京裁判で文官でありながら唯一絞首刑となった点をとらえ、悲劇の外政家としての側面を描き出した。広田弘毅に対する同情的な見方が広まるのに一役買っている。
「お町も日本の女でございます。此の目玉の黒い間は、あながたを滅多に餓死させるものではありません。お町は唐人お吉ではございません。お町には国府も八路もございません。日本人の為に生き、死ぬばかりでございます。時を経て、一顧だにされないだろうことは覚悟の上でございます」
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