ある朝、いつものように池さんに来ていたおばあさん。
なんだか違うな~と思いつつ、何が違うんかな~とか思っていたら、下の入れ歯がないじゃぁありませんか!
おばあさんの顔の骨格はもともと下の顎が出ているものですから、下の入れ歯がなくてもほとんど目立ちません。
おばあさんは下の入れ歯を忘れたことをちっとも気にせず、いつもと同じようにお菓子を食べ、いつもと同じようにスパゲッティーを食べ、いつもと同じようにウインナー入りのポトフを食べて帰りました。
帰ってから家族に入れ歯を忘れたことを伝えたら、家族の人も入れ歯がないことにやっと気がついたほどでした。
次の日、おばあさんは入れ歯を入れてやってきました。
「入れ歯を外したことなど一度もなかったのにどうしたんでしょう?」とご家族は言いました。
たぶん年を重ねたせいで入れ歯が合わなくなり、気になるのかもしれません。
入れ歯があってもなくても、おばあさんの見かけにも食事にもほとんど変化はないのですが、ただ、せめて寝る前は入れ歯を外して洗ってもらいたいな~と弱弱しく思ったワタクシでした。
ご飯を食べた後(今日はヒジキがメニューにあったので)ニカッと笑ったおばあさんの入れ歯がヒジキだらけだったのを見た時、思わずお箸を置いてしまったワタクシです。
あ~おばあさんが病気知らずで元気な理由がわかったような、そんな気がする今日でした。
知覚過敏になった歯を治療中のワタクシです。
歯医者さんから帰って来て急いで昼ご飯の支度をしようとお味噌汁の味見をしたとたんに、治療したばかりの歯茎に目が飛び出るほどの痛みを感じて、お腹は空いたけれど昼ご飯を食べるのもためらっていた時におばあさんの「ヒジキ入れ歯」を目撃した衝撃を、どう説明すればよいのでしょう。
長寿万歳!
ヒジキ入れ歯万歳!
ってな気持ちですが、歯医者の待ち時間で久しぶりに読んだ吉本隆明の親鸞。
「人間が行いうる善や悪や力は、小さく不完全な規模でしかない」という解釈。
大いなる流れの中にあっては、常に小さな存在のワタクシたち。
ちっぽけなプライドや情けない意地もヒジキだらけの入れ歯も、
すべては我が計らいにあらず。
阿弥陀如来は色も形もない「無」、知恵の「光」なり。
さてさて、毎日いろんな出来事がある中で自分の様子を客観的に観察してゆくと、
実は「無」ではなく煩悩の塊だったりすることにふと気づいた時のかっこ悪さや、
時間の流れにごまかされたふりをして実は自分の気持ちをごまかしていたりするちっぽけさや、
光りを探しつつ、光を見まいと目を閉じている弱さや、
心の中に内在するあまたの自己欺瞞に誠実に向き合えと言われた気がする久しぶりの吉本隆明。
ツバメたちは今日も卵を大事に温めています。