池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

使者

2012-11-28 22:22:58 | デイサービス池さん

現在公開中の映画 「ツナグ」をご存じだろうか?

原作は直木賞作家辻村深月さんの同名の小説だが、もともと私は「映画より本」派。

映像だとどうしても演じる人のイメージが先行してしまうけど、本だと自由に想像を膨らませることができるから、人物も思い通りに作れてしまうのが結構好き。

映画化されたりドラマ化される物語には、ほとんどが原作があるわけだから、話題の映画やドラマは本で読むことが多い。

 

ちょっとだけ紹介すると、「一生に一度だけ、死者との再会をかなえてくれるのが「使者」(ツナグと読む) ツナグの紹介で再会する何組かの死者と生者。誰を想い、何を想い、その後の人生を生きてゆくのか・・・という感じの内容だけど、オカルト的でもなく、幻想的でもなく、ただ素直に私の心に入り込んでくる気がした本だった。

 

帯の言葉にはこんなふうに書いてある。「自分ならば誰と会うことを願うか。自分が生者の場合。自分が死者の場合。そしてたった一度しか使えないチケットを、自分は本当に使うかどうか。」 私には主人公の青年が「使者」の能力を引き継ぐまでに考えていく言葉に共感する部分が多くあった。物語の最後で、主人公と祖母が語り合う場面がある。

 

 

「歩美は迷っていた。使者って何なのか。死者は生者のために存在してしまっていいのか。死者に会いたがるのは、すべて生者の勝手な都合なのではないか。・・・失われた誰かの生は、何のためにあるのか。どうしようもなくそこにある、逃れられない喪失感を、自分たちはどうすればいいのか。」

「・・・それは確かに、誰かの死を消費することと同義な、生者の自己欺瞞かもしれない。だけど死者の目線に晒されることは、誰にだって本当は必要とされているのかもしれない。どこにいても何をしてもお天道様が見ていると感じ、それが時として人の行動を決めるのと同じ。見たことのない神様を信じるよりも切実に、具体的に誰かの姿を常に身近に置く。あの人ならどうしただろうと、彼らから叱られることさえ望みながら、日々を続ける。」

「それが生者のためにものでしかなくても、残された者には他人の死を背負う義務もまたある。失われた人間を自分のために生かすことになっても、日常は流れるのだから仕方ない。残されて生きる者は、どうしようもないほどにわがままで、またそうなるしかない。それがたとえ、悲しくても、図太くても。」

「だけど、それでも死者が抱えた物語は、生きて残された者のためであって欲しい。」

解説の中で、「死を書くのは難しい。とくに現代の日本で書くのは難しい。」と書いてある。多くの日本人の死や死後に対するイメージは、とらえる人によって多様で、同じ人の死でも、お星様になったり、幽霊になったり、千の風になったり、ただの灰になったりすると。

「死者は使者の手を借りて一晩だけこの世界に舞い戻る。生者のように鮮やかに振る舞う死者を前に、生者は茫然と立ち尽くす。生と死の彩りが逆転したような束の間の邂逅のあと、生者は生者の世界へ戻り、死者は死者の世界へと消えていく。そのとき、生者の胸に残る感情は一色ではない。前向きな希望もあり、止めどない悔恨もある。感嘆もあり、悲嘆もあり、落胆もある。ただ、どの死者も等しく残していくのは、圧倒的な喪失感である。あるいは、不在のとてつもない存在感と言えばいいだろうか。

 

文中の言葉でないと表現が伝わらないといけないので、引用が長くなってしまったけど・・・。私は私流にいろいろと考えてみる。

「死」も「死者」も、後に残って生きる人にとって、「どうなのか」という点で大きな意味を持つのだと思う。

「不在の存在感」という言葉に思わず頷いてしまうが、「あの人がいなくなった」という感覚は、いなくなったからこそ感じる存在感そのものだ。

どんな「生」を生きたのか、何を残したのか、生きた人の歴史は刻まれ、次の世に受け継がれていく。決して有名だとか大きな仕事を成し遂げたとかいうことではなく、平凡に世の中の片隅で生きた無名の人であったとしても、子どもがいるならその子どもに受け継がれているDNAが存在し、それはその人の身体が消えた後も、次々と受け継がれていくはずのものだろう。

人は死ぬ。命は永遠ではない。

亡くなった後に、残される人に後悔や憎しみを残したくはない。できることなら希望や夢を伝えたいと思うし、想いを残さないために「感謝」を伝えたいと思うし、更に言うなら・・・いや、これこそが煩悩そのもの。生きている私自身の驕りなのかもしれない。

どんな人も、残る人に「物語」を残すだろう。

ただ、残してくれた「物語」に気づくことができない人は結構多いのかもしれないと思う。

生きているものが亡くなった人のことを、あれこれ理由付けして語ることは自分勝手なのかもしれないが、でも確かに「その人の物語」を受け止めて引きつぎ、語っていきたいと思う。

所詮、生きていくということ自体、自分勝手で傲慢で、煩悩に満ち溢れ、どうしようもないものなのかもしれないのだから。

・・・といろいろ考えてみたけれど、私の中で、この主人公の青年がとても素敵に輝いて見えて・・・この本が好きになった理由の一つが、想像上の主人公の青年の利発さとしなやかさとかっこよさだったなんて、この年のこのおばさんには・・・大きな声では言えましぇ~んがな あしからず!

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろんなこと

2012-11-26 21:23:09 | デイサービス池さん

先週末は、超珍しいことに4日も夜勤なし。

もちろん土曜日はデイがあるので仕事はしていたのだけど、夜、家にいることがこんなに続くと、結構溜まっていたことを片付けたりビール飲みすぎたりして、いつものペースとは違う時間を過ごしてしまって、今日は口の中が口内炎だらけで頭まで痛む。

なかなかよくならない右手の腱鞘炎のせいで、身体の右半分が傷み、口内炎も右に集中していて、どうもこうもなりません!

とはいっても、先週はいろんなことがあった。

いろんなことを考えさせられた1週間だった。

 

毎日同じように見える日常だけど、決して同じなのではなくて、想いも現実も、常に移り変わり変化しているのだと。

ばあちゃんたちもじいさんたちも日々老いていて、胸にトゲが刺さったように、切なく苦しくなってしまう。

家族が体調を崩して、やむなくショートへ行かざるを得なかったじいさんは、「家へ帰る」という行為を忘れたかのように苦しそうに顔をゆがめ、自らの老いを認められないばあさんは、家族に当たり散らし、死にかけたばあさんや入院してしまったばあさん。季節感のない施設の一室で生きるしかない老人。

 

いつものように雑然と散らかり放題の部屋の中で、一日が終わる。

 

平凡だと言えば平凡だけど、一日とて同じ日はない。同じ人もいない。

 

週末から別の人格が出現したまあちゃんと、私は顔をしかめながら話を続ける。

「口が痛いんよ」という私にむかってまあちゃんが優しく言う。

「まあ、それはお困りですね~!そんな時は、口を押さえて食べてみたらいかがでしょう?私はいつもそうするんですよ!」と。「おホホホ」と。

違う!これはまあちゃんじゃない!

「もうばかじゃ!! パ~!!」といつものように叫んでほしいと心の隅で思いながら、

やっぱり、同じなわけなどないかと納得したり。

 

とりあえず、私は私の日常を刻み、

相変わらず酒臭いヒイちゃんと、オホホに変身したまあちゃんと一緒に、

久しぶりの大頭の夜を過ごす。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生きざま

2012-11-21 21:20:21 | デイサービス池さん

「人は生きてきたように老いる」

というか、「生きたようにしか、老いることはできない」のだと改めて思う。

しっかりもので、一生懸命に働き、家族に尽くしてきた人。

だからと言って、達観して老いてゆけるわけではない。

その人の心の中には、ずっといろんな思いが隠されていたのだ。

元気な時にはかろうじて理性という仮面によって隠していた本当の気持ちは、老いてボケ始めた時からその顔を表しはじめる。

でも、考えてみれば、気丈に生きてきた人なのだから、もともと強い人だったに違いない。

本当は強くて頑固な人だったのだ。

家族は、そんな老人を前に、戸惑い悩む。

 

老人が老いてゆく過程は、家族にとっても苦しい日々に違いない。

 

老人と、どう折り合いをつけてゆくか。

家族は悩む。

老人のボケにどう向かい合うのか、

家族は苦しむ。

 

そんな家族を前に、どう支えればいいのか、私たちは悩む。

 

老人と、家族と、そして私たち。

皆がそれぞれの想いを抱えて、

一緒に悩む。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

待ち時間

2012-11-19 20:30:41 | デイサービス池さん

歯医者へ行く。

なかなか時間が取れずに、時々しか行けないので、全部の治療にも相当な時間がかかる。

その上、私の通う歯医者はいつも混んでいて、予約していても待ち時間が長い。

 

実は・・・私はこの待ち時間が結構好きなのだ。

好きな本を読みながら、待合室で順番を待つ時間は私にとって苦痛ではなく、楽しみな時間。

 

本日。

「山頭火」の句集を手に、待合室へ入る。

 

「まっすぐな道でさみしい」  

実はワタクシ、寂しさも感じないほど、曲がりくねった道を歩いているような気がするわけで・・・。 人が生きてゆく道は、あんまりまっすぐすぎてもさみしさを感じるのかな~でも、曲がりくねりすぎた道もしんどいよな~と思ったり・・・。

 

「だまって今日の草鞋履く」

自分の生き方が本当にいいのかどうか、疑問をもちながら生きているのは皆同じなのかもしれないな~。でも疑問を持ち続けて迷っているばかりでは、何も始まらないしな~。ただ、与えられた場所で、一生懸命自分の役目を果たすために、今日も黙ってわらじをはくわけで。そして今日一日を精一杯生きるわけで・・・。あ~そうだよな。

 

「ぬいてもぬいても草の執着をぬく」

いくら抜いても草は生えてくる。私の煩悩や執着も、いくら振り払おうとしてもまるで夏の雑草のように後から後から生まれてくるわけで・・・。草を抜きながら、ワタクシ自身の執着も抜いてしまいたい・・・そんな気がするな~。というより、草引き苦手だしな~ってか?

 

・・・「池内さ~ん」と呼ぶ声!

えっ?もう?

というわけで、本日3ページ読んだところで、好きな「山頭火」さんとお別れ。

 

で、その後ワタクシは、奥歯を抜くことに。

草と一緒に煩悩を抜く予定だったワタクシが、草じゃなくて奥歯を抜く?・・・・・・・・・・ 

あ~情けなや情けなや~~~。

 

ギシギシと奥歯を抜かれる感覚は、

「松はみな枝垂れて南無観世音」ではなくて

「涙鼻水みな垂れて南無観世音」の心境に近し・・・・・南無~~~

 

 

PS,山頭火の句の解釈は、ワタクシ流ですのであしからず。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘年会

2012-11-17 23:06:53 | デイサービス池さん

本日、ちょっと早い忘年会。

池さんでは例年、忘年会と周年を祝う会を一緒にすることにしている。

今年の参加者は、約40名なり。

もともとスタッフと近い人での内輪の会だったけど、応援し隊員や物好きな人たちが集まって、段々賑やかな会に成長していくのも、本当に嬉しい限り。

「池さん」という場所に集う人たちが、年に1度、まあいつものように騒ぐのも、池さんらしくていいなと思うこの日。

もちろん、池さんの住人のヒイちゃんは、挨拶が始まる前からビールを飲み始めて、最後まで飲み続け、皆も笑顔の心地よい会だった。

あっ!ワタクシは、ヒイちゃんとの夜勤で、今年もノンアルコールね!

 

ヒイちゃんは、

「あ~いよいよ(とても)、賑やかでよかった。人が集まるのは、ええことぞい。人が来てくれるのは幸せぞ。」

「酒もうまかったの!」と私が言うと、ヒイちゃんは、

「?わしゃ、酒はよう飲まん。お父はんが、酒飲みで苦労したけん、わしゃあ酒は飲まん事にしとる!」

と、言い切られた。

 

たくさん酒を飲んで、一杯食べて、満足したようにヒイちゃんは眠りにつく。

 

こうして、好きなように生きて欲しい。

命を生き切って欲しいと心から願う。

 

池さん7周年

おバカなことばかりしているけど、

皆の気持ちの奥深くには、

それぞれが葛藤を抱えながら、目の前の人に向き合っている毎日がある。

 

そのことを、私は誇りに思っている。

 

スタッフと、スタッフを支える家族と、

そして応援してくれる人たちと、

支えてくれる人たちと共に、

また新しい1年を、8周年に向かう毎日を、

かけがえのない毎日を、

大切に紡いで行きたいと、

思う。

 

こんな小さな場所だけど、

私自身にとっても、

大切な場所、

池さん。

 

ありがとう。

池さん。

そして、

みなさん。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7周年です!

2012-11-14 20:27:51 | デイサービス池さん

今日も無事に一日が終わり・・・そして7年が過ぎました。

明日で、池さん7周年です。

まあよくぞここまできたというか、よく潰れずにここまできたというか、そんな感じかな?

それぞれの年に、いろんな思い出があるけれど、7周年の今年は特に深い1年間だったように思います。

もちろん大きな出来事もいっぱいあったけど、それらのことを全部ひっくるめて「深い」という言葉がピッタリする感じです。

横に広がると言うよりも、下へ掘り下げた感じ?(一体どんな感じやねん!)

ワタクシ自身も、少しだけ成長したように思うけど、まあいつもと一緒のドタバタだと言われれば、そんな気もするし・・・

いろんな出会いがあって、いろんな別れもあって、結構めまぐるしく移り変わった感じもするし、そうでなかったような気もするし・・・

ひたすら突っ走ってきた頃から比べると、ずいぶん大人になったような気がするし、まだまだ幼い気もするし・・・

いろんな想いが交差する7周年。

応援してくれた方々、本当にありがとうございます。

全国にほんとうにたくさんの応援し隊員の方々がいてくださって、折に触れていろんなお便りをくださって、ありがたいことです。

感謝です。

言いつくされた言葉だけど、感謝です!

正直なところ、「もっと大きくなりたい」というよりも、「深くて豊かな場所になりたい」と、7年たった今、思いますな。

ま、どうか皆様、嫌いにならんとこれからもお付き合いくださいませませ。

池さん物語、まだまだ続きまっせ~!

・・・たぶん、たぶん、たぶん・・・潰れなければ・・・って・・・超弱気・・・

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「言葉」へのいざない

2012-11-13 20:54:57 | デイサービス池さん

家族が風邪でダウンして、急な泊まりが入る。

いろいろあって、大ちゃんと二人で、2か所に別れての泊まり受け入れ。

安心して休んでもらうために、どうしてもこの選択は譲れないと思った。

おかげで、混乱もなくゆっくりと朝まで寝ているじいさん。

代わりに、今週4連続夜勤。

ここが経営者の強み。どんだけ働いても、縛りはないのだから・・・。

 

そして、じいさんの寝た夜。

「言葉」を感じたくて、谷川俊太郎の本を開く。

私は「言葉」が大好きだ。

「言葉」は、いろんな時にいろんな状況にある私を、励ましたり癒したり力づけたりしてくれる。

常に自信を持って生きているわけなどなく、いつも迷いながら生きている私に、「言葉」は力強く、「生きること」を教えてくれる。

ブログを見てくれているあなたにも、「言葉」を届けようと思う。「言葉」の深みを、ぜひ感じて欲しい。

 

「自分のこころはもしかすると他人のこころよりも分かりにくい。ましてこころの奥にあるたましいなんてものは、もっと分かりにくい。分からないまま日々私は生きている。」

 

「その一瞬の自分だけが本当の自分だとも思わないが、そこでやはり自分が試されることは間違いがないからだ。」

 

「大変な自分と出会うまでは、ほんとうに自分と出会ったことにならないんじゃないかな。」

 

「自分というものがいつかは消滅すると分かっているから、生きることに一生懸命になれるのかもしれない。」

 

「何ものにも、何ごとにも出逢いたくないと思っても、私は私を避けることができない。めざめれば私は私に逢う。」

 

 

世界が問いである時

答えるのは私だけ

私が問いである時

答えるのは世界だけ

 

 

晩秋の夜、ぜひ言葉と遊んでみてください。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メッセージ

2012-11-12 20:00:38 | デイサービス池さん

ご家族にメッセージを送る。

 

「決して無理をしなくてもいいよ。疲れたら、いつでも思いだしてくれますように。池さんという場所を。一生懸命に毎日介護しているあなたの横に、私たちがいることを。」

「いつでも、困った時は、私たちに相談してほしい。必ず力になれると思う。」

 

そして、そのメッセージを受け取ってくれて、毎日の介護を頑張ってくれたら、うれしい。

 

私たちは、ただ昼間預かるだけの場所などではない。ただのサービスを行っているわけではない。

 

「どうしようもない」と心を痛め、「未来が見えず」頭を抱えている家族を、決してほうり出したりはしない。

 

一緒に考えて行きたいと思っている。

 

どうすることが、「今のその人」にとって、もっともよいことなのか・・・

どうすれば、少しでも肩が軽くなるのか・・・

 

一緒に、考えていきたいと思っている。

 

「サービス」という枠組みにとらわれることなく、

介護保険という法律にしばられることなく、

 

今、必要なことを、一緒に考えていきたいと思う。

 

私たちは、いつでも、その準備をして、頑張っている家族を、応援している。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

素顔

2012-11-08 21:12:52 | デイサービス池さん

入院生活を送っていた人が帰ってきた。

 

いつも、真っ白に入念にお化粧をして、真っ赤にでっかく口紅を塗って、眉毛をまんまるの半円に描いてきていたのに。

少し痩せて、素顔にうっすらと眉をひいただけで、

やってきた。

 

素顔がきれいだった。

こんなに綺麗な人だったかと、思った。

 

老いていく中で、ボケていく自分を隠したいという気持ちが、オーバーなお化粧に繋がっていく。

似合わない真っ赤な口紅に繋がっていく。

真っ白なファンデーションに繋がっていく。

 

素顔は綺麗なのだ。

隠すことなどない。

そのままで、今のままで、十分美しい。

 

ボケた自分を恥ずかしがる必要などない。

 

そういう自分を受け入れた時の方が、明らかに美しい。

 

いろんな苦しみがあると思う。

でも、いつも私たちがそばにいる。

安心して、素顔で来て欲しい。

あなたのままで、来て欲しい。

 

そのままの方が、

素顔のままの方が、

私は好きだ。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そして、ヨッシーのノート

2012-11-06 20:15:10 | デイサービス池さん

そして、今日もヨッシーは元気にやってくる。

素直に老いを受け入れて。

今日、到着するなりヨッシーはバックからノートを取り出す。

その小さなノートには、見開きになったページにちょっと震えたヨッシーの字で、たくさんの文字が綴られていた。

そして隣に座った私にこう言った。

「ここへ来だして3ヵ月たったのに(正確には8カ月だが)、まだ皆の名前を覚えきらん。名前を覚えるのはいよいよ(とても)苦手で、どうもなりません。」

小さなノートの最初のページに、綺麗な線が引かれていて、上の段に特徴が書かれていた。

いつも綺麗な服をきている方・昔先生をされていた優しそうな方・いつも寝ている方・今治から来ている方・頭がぐりぐりだけど笑うとかわいい方・眼鏡をかけていておもしろい方・66歳のおばさん・97歳の方・(もちろん、名前を知っている人のことは書かれていない。)

下の段に名前を書き込むようになっていたページ。

ヨッシーは、私に聞きながら、名前を書き込んでいく。

下のページは職員のことが書かれていた。

同じように線を引いてある上の段には、大ちゃん・大ちゃんママ・そして介護員・介護員・身体の大きい人・今井君・さちおさん・・・

下の段には、れいこさん・ももちゃん・・・・・などと。

 

見開きになったページ。

最初のページが職員なのではない。

最初のページは、池さんの利用者なのだ。

ヨッシーが覚えようと思うのは、スタッフよりも利用者。

ここにヨッシーという人の深い想いを見た様な気がした。

「皆の名前を覚えたい」と。「皆を名前で呼びたい」と。

 

ヨッシーの家は昭和初期の香りのする、今どきめずらしい古い生活スタイルを守っている家。

暗い台所で火鉢にあたりながら、一生懸命に定規を使って綺麗に線を引き、池さんに集う顔を思い出しながら、皆の特徴をノートに書くヨッシーの様子を想い受かべ、私は再び泣きだしそうな感動に襲われた。

 

「誰かの行為に」「人の想い」に、心を揺さぶられるとは、こういうことを言うのかと素直に思う。

 

一生懸命、大切な記憶を残したいと願うヨッシーに。

ここの人たちに想いを込めるヨッシーという一人の老人に。

 

ヨッシーにとって、この場所が今、かけがえのない場所になっている。

そして、ノートの空欄を一つづつ震える文字で埋めて、声に出して名前を呼んでみるヨッシーの老いた心の中に、皆の顔が確かに存在するという事実に。

 

ヨッシーの心の中にある様々な想いに気づき、深く寄り添うことができる私自身でありたいと思う。

ヨッシーという人の魅力にますます引きこまれていく自分自身に驚きつつも、人間の大きさという点で大きな尊敬の心と、深い愛しさを感じている私が・・・今日もいる。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間の大きさ

2012-11-01 20:33:23 | デイサービス池さん

器のでかい人がいるものだと、ヨッシーという人をみていつも思う。

 

「老い」は誰にも訪れるものだが、「老いてゆく自分」を受け入れることはなかなか難しいものだと皆を見ていて思う。誰でも、自分が老いてゆくことに少なからず不安や葛藤を抱くはずなのだ。

戸惑い・うろたえ・あがき・悩み・昨日までできていたことができなくなるということに、打ちのめされる。

ボケているからとか、ボケていないとか、そういうことではなくただ「年をとった自分をすんなり認めることがいかに難しいことか」  この頃、私自身が年齢を重ねるほどに、その苦しみが理解できるように思うのだ。

毎日その過程にある人たちを前にして切なく感じたり、愛おしく感じたりを繰り返している私自身がいる。

 

多くの人は、「自分はまだボケていない」と思い、忘れたことや間違いを誰かに指摘されると、怒り暴れる。あるいは自分を守るために、殻に閉じこもったりする。

「オシッコを漏らすようになったらおしまいだ」と思い、パンツが汚れても気づかないふりをし、悪臭を放つ汚れたパンツを履いたたままで、それでもそのことを指摘されることに抵抗をし暴れ、暴言を吐き散らし周囲を困惑させる。

歩きにくくなって誰かに手を引いてもらうという行為は、誰でもすんなり受け入れることができるに違いない。

けれどもそんな次元とは比べようもないほど、「排泄」に関する老いの変化はデリケートなことに違いないのだ。

おそらくどの人にとっても。

そして家族や介護者は、「自分のパンツは汚れていない!」と言い張るプライドの塊の人を前にして、どうやって汚れたパンツを履き換えてもらうのか真剣に悩んだりするのだ。

 

 

ある日、ヨッシーがトイレに行った後、靴下が濡れていることにスタッフが気づいた。

さりげなく、「トイレが汚れていたかもしれないからごめんなさい」と言って着替えを促す。そしてヨッシーは何も言わずにすんなりと靴下を替えた。

その次の利用日は、4日後。

ヨッシーは尿ケア用のパットをつけてやってきた。

そして入浴の時に、スタッフに言ったそうだ。

「この前帰ってから、どうして靴下が濡れたのかをよくよく考えてみたら、もしかしてオシッコで濡れたのかもしれんと思った。新聞に尿ケア用のパットの広告があったけど、これを頼んでもいつ届くかわからん。それでお嫁さんに頼んで買いに連れて行ってもらった。これで大丈夫だろう。今日はたぶん大丈夫でしょう。」と。

 

その話をスタッフから聞いた私は、再びヨッシーという人間に圧倒される思いがした。

 

誰もが抵抗を覚え隠したがる尿漏れという現実を、真正面から素直に受け入れ、お嫁さんに話して一緒にパットを買いに行くという行為に。

自らの老いを、自らがきちんと淡々と受け入れていく素直さに。

そして、そのことを包み隠さず信頼するスタッフに話せる大きさに。

老いてゆくヨッシーに戸惑いながらも、きちんと向き合っている家族の大きな支えに。

 

ヨッシーは思っているのだ。

「家のことも何もかも、若いものに任せたから、手出しも口出しもしない。私はこれから今まで知らなかった楽しい世界を十分に生きてゆこう」と。

ヨッシーにとって、尿漏れのパットは確かに「老いた証」なのかもしれないが、決して絶望的な現実ではなく、これからの人生を楽しむための安心の道具なのだ。

 

ヨッシーという人間の大きさに、「自分を知る」ことの重さに、私は深く感動する。

 

そして今日もヨッシーは今までとなんら変わらず、買ったばかりの洋服を着て、日に焼けた顔に、顔色が悪く見えるほどファンデーションを塗り、ピンクの口紅を塗って、花柄の帽子をかぶり世の中を楽しむために、「ここ」へやってくる。

 

「今日もしっかり遊びましょ」と張り切って。

「ガハハ・・・」と大きな声で笑って、皆を笑いの渦に巻き込みながら。

4日前のヨッシーと何一つ変わることなく。

いつものでっかい声のヨッシーのままで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする