例えば急に歩けなくなった人がいるとする。
まず家族は病院へ連れて行き、なぜ歩けなくなったかを知ろうとする。医師は検査を行う。そしてその原因を調べる。脳こうそくかもしれないし、足の病気かもしれないのだから当然の処置だろう。
けれども、原因を探しても歩けなくなる原因がわからないとしたら・・・どうだろう?
医療現場が、「とりあえず10日ほど入院して様子をみましょう」と言い、点滴などしながらしばらく様子を見ていくことを決めることも決して間違っているとは思わない。
そしてご家族が「お医者さんが言うから」と納得するのは当然のことに違いない。
けれども病気の原因がわからないからといって、ずっと寝かせた状態のままで安静を求めることは明らかに間違っていると再び強く言いたい。
私たちは、こうしてあっという間に筋肉が拘縮して首を上に向けてのけぞったようになり、せん妄(意識混濁を伴った幻覚や錯覚など)を起こして意味不明のことをしゃべりはじめ、点滴を無意識に抜くからという理由で手や足を縛り(あるいはミトンをはめて行動を制限し)、必要な栄養量を摂取できないからという理由で経管栄養を行った結果・・・「人」として生きてゆけなくなってしまった人たちを、たくさん知っているのだ。
その人たちは、病院で確かに生かされていた。けれども「人」としては生きてはいなかった。
「原因が見当たらない」のなら、とりあえず「安静にして点滴」ではなく、とりあえず「起こしてみる」ということをなぜ思いつかないのか・・・いまだに不可解な医療現場。
妄想や幻覚なんて、どんなに元気な人でも真っ白い病院の部屋で天井だけを見て10日も寝ていたら、出現するに決まっている。筋力も衰えるに決まっている。しかも相手は老人なのだ。あっという間に「廃人」になるだろう。
とりあえず、歩けないなら車椅子に座らせて、首が後ろに引っ張られて筋肉が硬くならないようにちゃんとした座位をとらせ、少しでも刺激を与えられるよう部屋から連れ出して、話しかけ、コップでお茶を飲ませて、ご飯も口から食べさせる努力を続けていく・・・これが私たちの発想。
どんなことがあっても、人として生き切って欲しいと願う私たちの立ち位置。
「病院」という名の正義。
家族の信じる正義。
「生活行為に勝る訓練なし!」と三好さんは言った。
医療と介護の発想の違い。
「病院」と「介護事業所」の隔たり。
いまだに続く、どうしようもない葛藤と苦しみ。
家族に届いてほしい私たちの願い。