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池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

医療と介護

2012-10-30 21:21:30 | デイサービス池さん

例えば急に歩けなくなった人がいるとする。

まず家族は病院へ連れて行き、なぜ歩けなくなったかを知ろうとする。医師は検査を行う。そしてその原因を調べる。脳こうそくかもしれないし、足の病気かもしれないのだから当然の処置だろう。

けれども、原因を探しても歩けなくなる原因がわからないとしたら・・・どうだろう?

医療現場が、「とりあえず10日ほど入院して様子をみましょう」と言い、点滴などしながらしばらく様子を見ていくことを決めることも決して間違っているとは思わない。

そしてご家族が「お医者さんが言うから」と納得するのは当然のことに違いない。

けれども病気の原因がわからないからといって、ずっと寝かせた状態のままで安静を求めることは明らかに間違っていると再び強く言いたい。

 

私たちは、こうしてあっという間に筋肉が拘縮して首を上に向けてのけぞったようになり、せん妄(意識混濁を伴った幻覚や錯覚など)を起こして意味不明のことをしゃべりはじめ、点滴を無意識に抜くからという理由で手や足を縛り(あるいはミトンをはめて行動を制限し)、必要な栄養量を摂取できないからという理由で経管栄養を行った結果・・・「人」として生きてゆけなくなってしまった人たちを、たくさん知っているのだ。

その人たちは、病院で確かに生かされていた。けれども「人」としては生きてはいなかった。

 

 

「原因が見当たらない」のなら、とりあえず「安静にして点滴」ではなく、とりあえず「起こしてみる」ということをなぜ思いつかないのか・・・いまだに不可解な医療現場。

 

妄想や幻覚なんて、どんなに元気な人でも真っ白い病院の部屋で天井だけを見て10日も寝ていたら、出現するに決まっている。筋力も衰えるに決まっている。しかも相手は老人なのだ。あっという間に「廃人」になるだろう。

 

とりあえず、歩けないなら車椅子に座らせて、首が後ろに引っ張られて筋肉が硬くならないようにちゃんとした座位をとらせ、少しでも刺激を与えられるよう部屋から連れ出して、話しかけ、コップでお茶を飲ませて、ご飯も口から食べさせる努力を続けていく・・・これが私たちの発想。

 

 

どんなことがあっても、人として生き切って欲しいと願う私たちの立ち位置。

「病院」という名の正義。

家族の信じる正義。

 

 

「生活行為に勝る訓練なし!」と三好さんは言った。

医療と介護の発想の違い。

 

 

「病院」と「介護事業所」の隔たり。

 

 

いまだに続く、どうしようもない葛藤と苦しみ。

 

家族に届いてほしい私たちの願い。

 

 

 

 

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紅葉を見に・・・

2012-10-25 20:58:28 | デイサービス池さん

池さんのじいちゃん・ばあちゃんたちは認知症と診断されている人がほとんどだけれども、この認知症という言葉は「くせもの」だといつも思う。

世間では認知症という診断を受けたら「大変」だとか「もうおしまい」などという思い込みが蔓延しているようだが、そうではない。

「認知症」は、いろいろな認知機能が障害を受けていると一般に理解されているが、決して全てのことが分からなくなるわけではない。

時間や場所の見当がつかないこともあるし、物事を組み立てたり順序がわからなくなることもあるが、概ねそういうことに障害があったとしても、適切なフォローやケアさえできれば日常生活を続ける上で、全くどうにもならないということはないのだ。

そしてこの認知機能は、ある一定の事柄について全く理解できなくても、他の点では全く問題がないという結構複雑な特色を持っている。

つまり、自分の年や家はわからなくても日常会話は普通にできたり、聞いたことをその場で忘れても人の間違いは指摘できたり、服を着る手順がわからなくても野菜の育て方をちゃんと言えたりするわけで。

で、今紅葉の真っ盛り。

「紅葉を見に」と誰かが言えば、「いこうよう」と即座に受け答えることができる能力を持っているのだ。(あっ、これ「行こうよう」と「紅葉」をかけているわけね。)

「紅葉をどこへ見に行くか」という話になれば、石鎚山の方に行くと綺麗だとちゃんと分かっているばあちゃんたち。

ご飯を食べたかどうかは覚えていなくても、紅葉を見るのは石鎚山と理解しているのだ。

 

そして、あっという間に車に乗り込む。

足が悪いだとか、ふらつきがあるだとか、そんなことはお構いなし。

車椅子だろうがなんだろうが、行きたけりゃ誰でもすぐに連れ出す。

そういう動作は超早い。

スタッフも年寄りも!

 

池さんは介護度の低い人が多いわけではない。元気な人が多いわけでもない。

普通に会話し、普通に過ごし普通に出歩く人たちを見て、要介護4や5の認定を受けている人たちだと言うと誰もが驚くのだけれど、池さんではこういう風景は日常のこと。

決して特別のことではなく、まさに日常そのものの風景。

 

そして、今日も皆は遊びに出掛ける。

「紅葉を見に行こうよう!」と笑いながら。

 

 

 

 

 

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腱鞘炎

2012-10-23 21:50:33 | デイサービス池さん

もらいものに頼る池さん。

今年は栗を沢山いただいた池さん。

ワタクシは嬉しくなって、栗の渋皮煮やら甘煮やら、栗ご飯用のムキ栗を作ったり、お正月のきんとん用の栗まで・・・剥いた剥いた剥いた!

で、気がつけば腱鞘炎!

トホホ

今日はいつものハリの先生の所で、温灸とハリ治療。

「栗だけが原因じゃないと思いますけど・・・」

と先生は言ってたけど。

 

「ありがたや~ 栗貰いすぎ 腱鞘炎」

 

さ、栗をゲットして、今年のお正月は地元産オンリーでのお節料理に、また一歩近づきますよ~~~!

できる限り地元産の材料でお節を作るのが、お正月料理に命をかけるワタクシの夢なのであります

今年も美味しいおせち料理を作りますよ~

 期待しててくださいな。

 

 

 

 

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秋晴れの日に

2012-10-21 21:23:30 | デイサービス池さん

雨のお祭りも終わって、うって変わった秋晴れの週末。

大頭の畑ではサツマイモが収穫を待っている。

秋ナスやピーマンもまだまだたわわに実をつけていて、心が穏やかになる秋の日。

 

まあちゃんは、いつものようにご飯には目もくれずに、饅頭を手に嬉しそうに休みの日を過ごす。ヒイちゃんは、掘りたてのサツマイモで、いつものように酒を飲む。

穏やかな日常がある。

 

先日、県からアンケートの提出を求められた。

昨今、介護保険外でお泊まりを行う施設が増えてきたが、「お泊まりデイ」を行っているか否か、という内容のもの。

「お泊まりデイ」とは、なんともおかしな呼び名だと思う。

そもそも、「お泊まり」は夜だから「デイ」ではないだろうし、「お泊まり」と「デイ」をくっつけるとんでもない造語に、おもわず笑ってしまう。

県が言いたかったのは、「デイサービスの後、そのままお泊まりサービスを介護保険外で行っているのかどうか」ということだったのだと思う。

県の監査で、重箱の隅をほじくりまわすような不快な経験をした直後だったものだから、私たちはちょっとこだわって、「行っていない」という回答を提出した。

私たちが行っている自主事業は、決して「お泊まりデイ」などではない。不特定の人を相手に行う「お泊まり付きのデイサービス」ではない。

在宅の生活を続けるために、デイサービスだけではどうにもならない時にのみお泊まりをするための自主事業であって、決してお泊まりサービスなどではないのだ。

この違いを、法律と言う枠組みの中でのみ考えている介護保険担当者に理解してもらえるのかどうかは不明だが、この違いは決して小さなものではなく、介護保険の考え方の基本になるものだと思うから、あえてこだわっていきたいと思っている。

 

「施設から在宅へ」というテーマで介護保険は改正されてきた。

 

だとするならば、在宅を続けるために必要な支援は、例え利益に繋がらなくてもどんなことがあってもブレることなく行っていきたい。

それは池さんを利用してくれる人や家族が、安心して家での介護を続けられるために必要な支援なのだ。

決して「サービス」という枠で考えることはできない。

 

「支えること」が、「介護サービス」になった時・・・

「サービス」を継続するために、人件費や経費を考慮して「利用者を集める」という本末転倒の結果を招いてしまうことになるだろう。

そこには、「介護」を「お金」に替えてしまう現実が生まれる。

 

もともと、「介護」ということ自体、人の最もデリケートな部分に携わる最もデリケートな行為ではないだろうか。

本人にとっても家族にとっても、その家の最も密な部分を他人に任せるという行為に違いないのだ。

それが、「介護」なのだ。

決してお金やサービスでは、計ることなどできない。

 

そう考えてゆくと・・・

やはり私たちの行っている自主事業は、「お泊まりデイ」などというサービスなどではなく、「必要に迫られている時のみに利用することができる緊急時のお泊まり」として常にある。

ケアマネによっては「お泊まりの空きがあれば、利用したい」という問い合わせがあることもあるが、私たちは原則お断りしている。

お泊まりには空きはない。

けれども、利用してくれている人の家族の都合で、どうしようもない時にはどんなことをしてもお泊まりを受け入れる。それは必要があるからだ。どうにもならない理由があるからだ。決して空きがあるからではない。

 

老人とその家族を支え、家族の日常を支えることが私たちの役目だと思う。

日常を支えることができれば、老人は年を重ねても家で暮らすことができる。

その日常を不自然に変化させることもなく、生きて行ける。

 

 

そろそろ・・・

もうそろそろ、国も担当者も、介護保険の本当のあり方をもう一度出発点に戻って考えてみてもいいのではないだろうか。

なんのための介護保険なのか。

だれのための介護保険なのか。

改正を重ねることが、利用する人にとって本当に良いものに変化しているのかどうかを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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リハパン事件

2012-10-18 22:23:14 | デイサービス池さん

日曜日から始まったお祭り週間も幕を閉じた。

15日16日は、だんじりが池さんを訪問。

ばあちゃんたちは目を輝かせて、だんじりに手を合わせ、それ以外の時間も皆は車に乗ってだんじりを探して市内をうろつき、秋川雅史さんとも記念写真を撮ったりして大満足で帰ってきた。

17日はいよいよ町内の祭り。でも今だかつてないほどの大雨。土砂降りの中で、氏神様のお神輿が池さんに到着すると全員起立してお迎えし、丁寧にお祓いをしてもらってお神酒も頂いて大満足。

来年のお祭りは何曜日で、自分は利用日なのかどうかを今から心配するばあさんたち。

90歳過ぎて、来年に生きる楽しみがあるなんて最高だと思ったりする。

 

話は変わって、今日の題名の「リハパン事件」

リハパン、つまりリハビリパンツで、ちょっとしたおもしろ事件に遭遇したお話。

ある日、私は買い物に出かけ、そこで一人のおばさんに出会った。

レジの近くの椅子に座って話をしていたおばさんは、健康維持のために週に5日もプールに通っているそうだ。

私はまあちゃんのためのリハパンを購入しようと思っていたので、レジへと大きな袋を持って行ったその時、レジの近くの椅子に腰をかけていたおばあさんが私の持っていたリハパンを見てこう言った。

「こんなもん使うようになったら、おしまいじゃね!」と。

そして、自慢げにどれだけ健康に注意しているかを話してくれた・・・のだが、なんかちょっとイラッとした私は、おばさんに向かってこう言ってさしあげた。

「これ、わたしの!」

「・・・・」おばさん口を開けて、絶句!

というお話。

 

昨今の健康第1主義。

そして老いを極度に拒否するアンチエイジングの人たちは、ひたすら健康維持にお金をかけて、介護予防などという至れり尽くせりの制度を最大限使って老年を生きる。

老いない自分に価値を見出そうとする人が、ひとたび老いの事実に直面した時・・・絶望し、生きる意味を見いだせない人になる。

老いてゆく自分を受け入れることができる人は、緩やかに老いへの道のりを歩んでゆくことができる人になる。

健康維持の目的が、いつの間にか生きる目的にすり変えられてしまっていることにすら気づかない。

そんな思い違いを刷り込んでいく今の時代の「健康志向」

 

健康を維持する努力をするのは、もちろん大切なことに違いない。

けれども、「健康でなくなったらおしまい」と思いこむことは、全くない。

病気になっても、介護が必要になっても、ボケようと、オシッコを漏らすようになろうと・・・「それで人生がおしまい」と考える必要は全くないのだ。

 

(決して若くはならないのに)ひたすら健康になるように、毎日一生懸命プールで泳ぐおばさんより、リハパンを履いてお神輿を見てキャーキャー大騒ぎしているまあちゃんの方が、「人間臭くていいな」と思ったリハパン事件。

少なくとも、リハパン履いたら、それで人生がおしまいなのではない。

そんなことで人生のあり方が変わるはずはない。

リハパン履こうと、ウンチを一人で始末できなくなったとしても、人生が終わることはない。

ただ、そうした老いへの変化を理解してくれる人が周囲にいさえすれば、人は人でいられるはずなのだ。

 

健康に大きな幻想を抱き、健康を失った時に、絶望の淵に立たされるような、そんな人がなんと多いことか。

 

絶望の淵に立つことはない。

「健康」も「生」も「死」も、本来自分自らのものなのだ。

 

老いとは、本来そういうものなのだから・・・。

誰もが・いつかは・必ず・老いてゆくわけだから・・・

 

 

 

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治療とは

2012-10-15 21:45:49 | デイサービス池さん

「病気」と「医療」

 

私たちは再び出会った。

95歳の人。

面接時、おうちの方が言った。

「父の弟は、長い間チューブに繋がれて病院で生きました。父はずっと、弟のようには生きたくない。自然のままに逝きたいと。私たちもそう願っています。よろしくお願いします。」

「もし、そう願っておられたのなら、きっとお力になれると思います。自然のまま、限られた時間を大切に生きることを願われるのなら、私たちは全力を尽くします。」

 

その人は利用日の前日、高熱を出し・・・ご家族は救急車を呼んだ。

高熱の原因を病院で探すうちに、疾患が見つかった。

 

そして・・・入院することになった。

きっと・・・治療のために今頃、チューブに繋がれているだろう。

 

利用はなくなった。

 

元気な時、ご家族は思っている。

「絶対にチューブに繋ぐようなことはしたくない。自然のままに死を迎えて欲しい。」

 

でもいざ熱が出たり吐いたり、容態が急変すると心配になって救急車を呼び、願わなかった病院での最後を迎えることになるのだ。

 

最後の時間を病院のベットでチューブに繋がれ、生活者としてではなく治療の対象者として生きていく。

治療のために拘束され、そして投薬が行われる。

たとえ疾患が治ったとしても、95歳になった身体は決して元へは戻らないだろう。

 

それでも、疾患を完治することが優先されるのだろうか?

 

 

これが今の医療の現実。

 

95年間を立派に生き抜いた人に対する医療の平等という現実。

 

疑問だらけの医療の現実。

 

 

 

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お祭り開始!

2012-10-14 20:46:10 | デイサービス池さん

金木犀の花がいい香りを漂わせる頃、秋祭りの始まり。

そして、初めての子どもを授かった日。

この地で生まれた子どもたちには、お祭りのDNAが受け継がれている。

太鼓の音と共に身体に刻まれたリズム。

この地に伝わる歴史と共に、守りたいこの地の文化。

 

この地方の祭りは、2日間行われる。

今日は、大頭の周辺の祭りの日。

 

神輿が大頭の池さんに来てくれた。

「お祭りやか、どうでもええ!」と言っていたまあちゃんが、一番最初に手を合わせる。

もちろんヒイちゃんは、お祭り大好きなので、本当に嬉しそうに手を合わせる。

本日利用のたっくんも、皆を見て手を合わせる。

 

神様の前で手を合わせるという行為を、私たちは昔から行ってきた。

豊作を願い、家族の健康を祝い、家内安全を祈って、手を合わせてきた。

神様の前で、手を合わせる。

そして、心を込めて祈る。

 

日本人の心に流れる日本の心。

 

ヒイちゃんも、まあちゃんも、たっくんも、手を合わせる。

穏やかな秋祭りの夜。

 

 

池さんの男たちは、祭りに参加中。

ただ今、明日の夜中に始まる宮出しに出席中。

どうぞ、無事に明日の仕事に帰って来れますように・・・。

 

ワタクシの心配は・・・明日の勤務だったりするわけで・・・

 

 

 

 

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秋ご飯

2012-10-10 21:28:55 | デイサービス池さん

「頂き物」で生きる池さんの夏が終わった。

 

って?

つまり~、キュウリやトマトやゴーヤが貰えなくなったってこと!

っで、何食べるの?

決まってるし~、秋の貰いものに頼るわけで~

 

まっ、どっちにしても頂き物なわけ!

 

池さんの食卓は、夏の野菜が消えて秋の献立に変身です。

 

本日の献立

(主食)ホカホカ白ご飯・・・を食べるつもりが、横綱が「のどが痛い」と言ったので、大頭でとれたサツマイモ入りのおかゆを炊いたら、皆「おいしそ~」と言って、おかゆの方が人気だったりする。

(汁)小うどん・・・味噌がなかったので、夏の残りのソーメンがあると思ってお出汁をとったら、ソーメンの箱だと思ったのは、たこ焼き器の箱だったので、にゅうめんにならずに乾麺のうどんになった。本日はスダチで香りを楽しみました。

(主菜)サバの塩焼きにミョウガとキュウリの酢の物・・・25年使っている池さんの台所の魚焼き機が寿命に近づき、時々ガスのバーナーが魚の上に落ちてくるので、魚の皮は焦げ付き気味。ミョウガは近所の伊藤さんにもらった秋にできるもの。キュウリはれいこさんの実家の山でできた地這いキュウリ(スイカのように畑を這ってできるもの)これを甘酢で味付けした酢の物。

(副菜)茄子のピリ辛炒め煮・・・大頭の畑の秋ナスが順調に育ったので、同じく大頭のピーマンと人参でピリ辛味に煮付けた。

(おまけ1)間引き菜のおかか和え・・・大頭の大根の間引き菜と近所の人に貰ったからし菜の間引き菜を茹でて、おかかであえました。

(おまけ2)間引き菜の漬物・・・大頭の大根の間引き菜を、タツエさんが塩でもんでくれて漬物を作ってくれました。

(おまけ3)キュウリの黒糖漬・・・これは池さんの定番のつけもの。夏に沢山つくって保存してます。

(デザート)渋抜きの柿・・・柿は、ここらあたりの特産品。このあたりでは、甘ガキよりも渋柿の渋を抜いたものが一般的。名産品です。ドライアイスや焼酎で渋を抜いた柿は、結構美味です。

 

・・・というわけで、本日購入した品は・・・

サバ

だけ!

 

秋は実りの時。

夏の野菜が消えて、今は栗・かぼちゃ・冬瓜・柿・菜っぱを頂けるようになりました。

今年は栗を沢山貰いました。栗は栗ご飯やおやつになってます。渋皮煮や甘煮にして保存食にします。そして、野菜などを頂いた時のお礼の品にもなります。

冬瓜は冬までもつので、ゆっくり味わいます。

夏の間、口に入らなかった青菜は、とても美味しく感じられます。漬物にもなるので助かります。

サツマイモも今年は豊作です。

もうすぐ、大根も育ちます。

 

秋の食卓は、食欲をそそります。

 

こうして毎日、生命のエネルギーに溢れた素晴らしい食材を口にできることに、心から感謝しています。

 

栄養価や食材の豪華さではなく、季節の食材を丁寧に調理して、皆で楽しく頂くという食事こそが、池さんパワーの源だと思っています。

 

栗ご飯やサツマイモご飯。

知り合いのお豆腐屋さんのお豆腐の味噌汁。

大根の煮物に、菜っぱのお浸し。

漬物も佃煮も梅干しも、全部自家製。

ぶどうに柿にミカン。

 

貰いものも含めて自給自足率、高いです。

食材の顔見知り調達率、高いです。

昔から食べられてきた和食のバランスの良さを、改めて感じます。

 

 

自然の恵みに溢れたこの土地と、いつも食材をくださる人たちに、感謝です

 

 

 

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別れ

2012-10-08 21:24:05 | デイサービス池さん

いろいろな家族と出会う。

 

ほんの少し、わずかの想いの伝え方のすれ違いで、結ばれていたと感じた糸が、切れてしまうことがある。

そして、その糸は永遠に、再び結ばれることはない。

 

 

想いを伝えるのは、

難しい。

 

そして、想いを受け止めるのも、

難しい。

 

 

想いを受け止めることができないまま、

私自身の心の中に、

後悔という2文字を残したままで。

 

 

お互いを語り合えないままで。

 

 

近くの施設へ入所が決まった最後の日。

その人は私に言った。

「私はもう、死んでしまいました。」

 

 

今生きている時間が、死に向かう時間だと一緒に考えることができたなら、

私たちは強い糸で結ばれたかもしれない、と思う。

 

 

私の中の後悔は、

死にゆく人と、死にゆく時間を共に生きることができなかった

ということなのかもしれないと、

別れた今、思い返す。

 

死を迎えるまでの大切な時間、

その時間の意味と重さを、

伝えきることができなかった自分への、

後悔なのかもしれない。

 

 

 

 

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心と身体の関係

2012-10-04 20:51:17 | デイサービス池さん

監査後、どうしたわけか身体中が痛い!

実は、大ちゃんも同じ症状。

親子だから一緒・・・は関係ない。

二人とも、監査の連絡を受けてから10日間、嫌いな書類の点検に明け暮れたことが理由なのだと思う。

大ちゃんは若いから、監査の翌日「全身が痛い!」と言った。

私は少し遅れて、今日は朝から身体中の痛みで、どうもこうもならん!

なんていうか・・・これって年取ったから、筋肉痛は2日後にでる・・・ってか?

 

親子で過激な運動をしたわけではない。

筋肉痛の原因で思い当たるのは、ただ一つ。

「監査への緊張感」⇒「身体の硬さ」⇒「身体の痛み」

これしかない!

 

きっと自分自身が思っている以上に、身体と心が緊張していたのだと思う。

緊張して、あちこちの筋肉が酸素不足に陥っていたというわけ。

自分で感じる以上に、身体がストレスを感じていたということだと思う。

 

そして気がついた。

身体って、やっぱり心と連動するもんだと。

緊張や不快を感じれば、自然と身体は固くなって自分を防衛しようとするだろうし、反対に心がリラックスすれば、身体も柔らかくなって物事を柔軟に対応できる用意ができるだろう。

リラックスして過ごす空間や環境は、おのずと精神の状態にも優しい作用を及ぼし、きっとプラスの栄養を与えてくれるに違いない。

 

 

監査の時は感じなかった身体の変化。

でも、事務所のある2階の部屋から皆のいる1階へ降りたとたん、

私の身体は弛緩して、緊張から解き放たれるような気がしたのだ。

 

皆の顔を見たとたん、ヨシコサンが「お疲れ様。はよ昼ご飯をお食べませ。」と言ってくれた瞬間、私も大ちゃんも、緊張感でガチガチにこわばっていた全身の筋肉が、癒されて優しく溶けていくような気がしたのだ。

ヘロヘロヘロと。

まるで、コマ―シャルにあるトロトロプリンのお父さんのように・・・。

トロトロトロ・・・・・と。

 

 

池さんのある空間は、そんな緩やかなのんびりした空間。

ダラダラと過ごせる、雑然とした空間。

年寄りがいて、子どもが騒ぎ、拾ってきたネコが誰かの服の中で居眠りをし、長々と昼ご飯を食べ続け、ゴミやらおもちゃやらが散らかった、ごくごく当たり前の生活がある空間。

 

 

5年ぶりの監査終了後の今日、身体中は筋肉痛。

介護の現場を知ることもなく、法律と言う正義を振りかざす人への腹立たしさや、一律に法で縛ろうとすることへの虚しさや、法を守るたびにわけのわからない書類がどんどん増えてゆく現実への抵抗や、いろいろなことを考えれば考えるほど身体は固く閉ざされてゆく気がする。

「介護は書類で行われているんじゃない!介護は現場で、年寄りと共に日々あるのだ!」と、古びたトレンチコートを着てマイク片手に叫びたくなるような、そんな気がする今日の筋肉痛。

 

そして今日の心の状態は、トロトロプリン状態。

こだわってこだわって作ってきた空間の中で、

7年たつ今も、決して変わらずにあるその空間の柔らかい空気の心地よさに、

こわばった心が弛緩してゆく、眠気を誘う心の状態?

 

 

?・・・・・っていうか~、

 

ただ、眠いだけ???

 

いや~今日は、本当に昼間、眠かったもんで・・・

鼻をズルズル言わせるワタクシを心配したスタッフが、「アレルギーですか?」と聞くけれど、実はあくびをしすぎて、涙と鼻水が溢れ出るようなひどい顔だったわけで・・・

 

 

昼間、睡魔に襲われたワタクシの、ものすごく言い訳っぽい今日のページ。

お代官様・・・・・どうか、ご勘弁を・・・・・

心を入れ替えて、明日はしっかり働きま~す

 

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アメリカ人お遍路と監査

2012-10-02 21:15:16 | デイサービス池さん

5年目の監査。

10日前に届いた県の監査の通知。そして4日前に届いた市の通知。

したがって、この10日間、私たちは監査書類の準備に大忙しの毎日。

 

そのさなか、ちょっと事情があって、アメリカから一人でお遍路をしている人が我が家に宿泊。

しかも台風のために足止めになって、2泊することになったわけで。

金曜の夜はスタッフも参加して急きょ、国際交流パーティー。土曜日はデイがあったので、年寄りと日勤のスタッフたちと一緒に昼ごはん。

異国の人がいる感じなどなくて、ただ普通に当たり前にジェームズが、まさこさんの横でご飯を食べている光景は、なんかすごく素敵な感じ。まさに池さんそのもの。

竹村ばあちゃんは「ハロー」と言った後「私はこれしか知らんがね」と笑い、名人はジェームズのタトゥ―を見て「グー」のサインを出し、まさこさんは話しかけられない様にわざと横を向き、でもシャイクハンドはニコニコ顔。

日本語は話さない人なので、美香ちゃんにも応援頼んで、賑やかな時間。

いろんなことを話した私たち。と言っても、どっちも片言。

単語を並べて、身振り手振りで、私は和英辞典片手に、彼は英和辞典片手に・・・でも、本当に沢山のことを話した2日間。楽しかった時間。

 

いろんなことを思いました。

 

たとえ言葉は通じなくても、同じ気持ちの人っているもんだな~って。

スピリットの同じ人は、なんか通じるもんだな~って。

無農薬の野菜や、山や神。信仰や人生論や、農業や、日本の文化。歴史や戦争や竹島のこと、テロや保存食、日本の文化・・・話せば話すほど、お互いの考えの近さに感動。

国も違い、人種も違い、言葉も違い、育った環境はもちろん全く違うのに、想いや願いや生き方は重なる偶然。

彼は短い時間しか池さんにいなかったのに、心地よい風を吹き込んでくれました。

彼は池さんが「縁」を大切にしていることや、人と人の繋がりや、介護の本質について、不思議なくらいに正確に理解してくれたのです。

「池さんのスピリットが何なのか」「池さんと言う場所がどんな場所なのか」「なぜ私たちが、自分たちの暮らしの全てをかけて、池さんを作ってきたのか」「人を大切に思うのか」・・・

感動するくらい、心が震えるくらい、

彼ははっきりと、そして正確に理解してくれました。

この日私たちは、見知らぬ外国からの青年に、池さんの全てを理解してもらった嬉しさで、心温かく過ごすことができたのです。

 

金曜日の夜来たジェームズが日曜日に帰ってから、またまた私たちは書類と格闘。

そして迎えた本日の監査当日。

 

「居宅」を持っていない通所施設の池さん事業所としては、不正請求などできるわけもないけれど、そんなことはお構いなしに、大きな施設と同じように、全ての書類の整合性を見極める監査。

で、本日午前中の3時間をかけて、無事に終了。

まあ、監査に関しては、文句を言っても仕方がないか。

保険を使う仕事をしているわけだから、法律にのっとることは当たり前のことだし。

でも、でも、でも、書類を徹底的に合わせている人たちの横で、直立不動の姿勢で言われる書類を出し続けている私は、いろんなことを思いました。

事務的に、パラパラパラパラめくられる書類たちを見ながら、いろんなことを。

 

「この書類には、いろんな思いがこもっているのにな~」

「スタッフが、悩みながら苦しみながら、見つめ続けた毎日なのにな~」

「居宅計画書で、由美子さんのことわからないのにな~」

「毎日当たり前にしていることを、書類に残せと言われてもな~」

な~んてね。

 

監査は、書類をチェックするもの。

だから、どんな介護をやってるかは、関係ない!

監査は、チェックするためのものだから、こちらの話は心に届かない!

在宅をどう支えているのか、関係ない!

イエスかノーか、聞かれたことに返事するだけ。

法律にあっているかどうかが全ての基準。

 

計画書の文章を全て読み、内容ではなく誤字脱字を指摘され、なんか寂しかったな~。

 

狭い池さんの目の前にいる年寄りを全く無視して(年寄りが挨拶しているのに)施設基準を満たしているか部屋中を調べ回る人たちは、この日、明らかに池さんの年寄りから見ると、不審者でした。

 

アメリカ人と監査と。

 

金曜日からの5日間。

私は、いろんなことを考えました。

 

池さんの柱と、介護のあるべき姿。

人間の生き方、本質を見ることの素晴らしさ。

 

ジェームズと話すことで、監査を受けることで、

見えてきたいろんなこと。

 

クリアーに整理された私の頭の中。

 

今日の大頭は、秋の夜。

虫の音が、聞こえています。

 

 

 

 

 

 

 

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