今日は土曜日。4月21日。春まっさかり。大切な思い出を語りたい。
私の人生の中で、大きな影響を受けた人が、何人かいる。
その中で、私だけでなく池さんという場所にも繋がる大きな存在の人。
湯浪のじいちゃんという人がいた。本名はもちろん違うけど、私は自分の母とあまり年が違わないこの人を勝手に「じいちゃん」と呼び、じいちゃんの住む地名とくっつけて「湯浪のじいちゃん」と呼んでいた。
最後の選挙の時、知人に集めてもらった後援会の名簿の中に、その人の名前があったのが出会いの最初。湯浪という場所は、その名簿の中で最も遠くにあった。私は名簿の住所を地図で調べながら挨拶回りをしていたが、初めてその地を訪れた時「なんて山奥なのだろうと」驚いた。
山を切り開いて、その人はシキビを作っていた。
「こんにちは」と初めて声をかけた時、その人は「お~!」と言いながら、90度に曲がった腰を伸ばすようにして、背丈ほどもあるシキビの間から顔を出して笑ってくれた。
初めて会った人なのに、初めて会った気がしなかった。まるでずっと前から知っていた人のように、私たちの話は弾んだ。
「遠くから嫁いだおなごのくせに、よう議員なんかするもんじゃ。」とあきれながら、その人は笑ってくれた。
何度か足を運ぶうち、すっかり山へ魅せられた私たちは、選挙運動期間中も山の中まで選挙カーを走らせて、「人のいない山へなんか行かずに、もっと街中を走れ!」と支援者に叱られたりしたものだ。
投票日。その人は、朝6時から投票所の前で待ち、おそらく一番最初に私の名前を書いてくれた。
選挙には落ちた。合併を挟んで5年半の私の議員生活は終わった。ただ理想の地域を作りたいと突っ走ってきた5年の月日が虚しく感じて、失意の中にいた私の所へ、その人は朝早く雨の中ボロボロの車を運転して、家まで来てくれたのだ。
そして笑いながら言ってくれた。「お金や打算が溢れる政治の世界で、あなたは綺麗な選挙をしたのだから、胸をはっていいのだと。胸をはるあなたの背中を、あなたの子どもは見ているのだと。」・・・言葉が心に沁み込んだ。
ただそのことを言いたくて、その人は私の家まで来てくれた。それまで全く見ず知らずだった人。
それ以来・・・その人は「湯浪のじいちゃん」として、ずっと私の心を支え続けてくれた。
家族で池さんを始めた時も、「頑張れよ」と笑って励ましてくれた。そしてオープンしてしばらく後、流木だったというでっかい木の根っこを綺麗に磨いて「これを家に持って帰れ。これは守り神じゃ」と言って私たちにくれた。じいちゃんは、いつも私たちのことを気にかけてくれ、仕事が軌道に乗るように願ってくれた。
春は必ず山菜を持って来てくれたし、柿やシイタケや手作りのお茶やコンニャクなど、いろんな自然の恵みを届けてくれた。
家族ではなかったけれども、私は自分の母より2つ年上のじいちゃんを頼りにしていたのだ。疲れた時や迷った時、現実から逃げたくなるような時、苦しい時にはいつも山へと向かった。じいちゃんは何も聞かずに、いつも「頑張れよ!頑張らないかんのんぞ!」と声をかけてくれたのだ。山の澄んだ空気とじいちゃんという人間に、私はいつも心を癒された。
じいちゃんが山で倒れているのを発見されてから、8か月がすぎた。
じいちゃんは意識もなくチューブに繋がれ、足はひどく拘縮してしまい・・・ただベットに寝ているだけだったが、確かに「生きていた」のだと、今改めて思う。
じいちゃんが亡くなったことを知ったのは、昨日。
じいちゃんは、14日に亡くなっていた。16日がお葬式だったらしい。
じいちゃんが倒れてから、病院へは何度も足を運んだが、湯浪へはどうしても行く気になれなかった。じいちゃんのいない湯浪は、今までの湯浪ではなく、私にとって全く違う場所になっていた。
なのに・・・15日の日曜日。 急に無性に行きたくなって、ヒイちゃんと一緒に本当に久しぶりに湯浪へと出かけたのだ。
湯浪の水汲み場にある桜が、見事に満開だった。タシッポもあちこちに顔を出していた。
ヒイちゃんと一緒に長い間、桜を見ていた日。タシッポを採った日。じいちゃんはもう「生きてはいなかった」
なぜか、本当になぜか、この日行きたくなった湯浪。
桜の咲く日。山には山菜が芽吹く頃。じいちゃんがもっともいきいきと見えた春。
夏に倒れてから入院生活の中で、じいちゃんは何度も何度も肺炎を患った。けれどいつも、奇跡的に回復した。そして・・・最後の時、じいちゃんは危篤状態になってから、たったの2分、たった2分で・・・逝ったそうだ。
きっと・・・
きっと・・・春が来るのを、山の桜が咲くのを待っていたのだろう。
春が来たら・・・桜が咲いたら・・・山へ帰ろうと・・・決めていたのだろう・・・そう思える。
桜が満開のこの日。「よし!帰ろう!」と旅立っていくじいちゃんが見えるような気がした。
いつものように、「お~!」と手を上げて。
私はまた、心の支えを失ったけれど、でもじいちゃんに教えてもらったことは、心の中にちゃんと刻まれている。
山で苦労して生き抜いたじいちゃんが、頑固に自分の生き方を貫いたじいちゃんが、その命をもって私たちに教えてくれたことを、心に刻んでこれからも生きていきたいと思う。
ネットで注文していた書籍が、たまたま本日届く。
偶然、最初のページにこんな文字があった。
「死は、積み重ねてきた努力の終わりを意味するのではない。精一杯生きた人生は、その次のより良き人生を導く」マハトマ・ガンディー
じいちゃんの生がどんなものだったのか・私たちの知らない人生が必ずあったと思う。そして、じいちゃんの死に方が、死にゆく姿がじいちゃんの望んだものだったのかどうか・・・それは、私たちにはわかるはずもない。
ただ・・・ただ・・・じいちゃんが残してくれた「私たちの知る人生と死」が、私自身の人生の指針になっていることは確かなことだ。
春。山の桜は、まだ咲いている。山菜も次々に顔を出す。
じいちゃんは、きっと今日も山を走り回っていることだろう。
私の人生の中での大きな転機となった時に、それからの新しい人生を歩む時に、私がじいちゃんから与えてもらった大切な思い出や時間を胸に刻んで。
春の日に。
心を込めて伝えたいと思う。
「ありがとうございました」