道路に面した一軒の家の庭にある見事なビワの大木。
家の前を通るたびに、立派な鈴なりの実に、いつも見とれてしまう。
「誰か~美味しいから食べてよ~」と言わんばかりの黄色い大きな実。
まるで誰かを呼ぶかのように風に揺れている。
でも、だれもその実をとる人はいない。
家の主は、少し前に亡くなった「その人」
2月末に亡くなった「その人」の家の庭に育つビワの大木。
ここらあたりはあちこちにビワの木があるから、いつもは気にならないけど、不思議と目に留まる。
寂しそうに実をつけたビワが、目に留まる。
主のいなくなった家で、ひっそりと、誰かが見つけてくれないかと言うように溢れるほどに実をつけたビワは、ここに「その人が暮らしていた名残り」を示すかのよう。
ここにいたよ~と言っているようなビワの実。
忘れないでよ~と言っているようなビワの実。
雨に打たれて揺れる沢山のビワの実は、誰かを待っているようで、心に沁みる。
あれから3か月が過ぎた。
あれや、これやの、6月。
5月の半ば、夫と一緒にお見舞いに出かけた夫の義兄が亡くなった。
残り少ない時間と知っていた。
お見舞いに行った時は、意識もクリアで手で夫の頭を撫でて話もできたけれど、
半月が過ぎ、亡くなった。
病院のベットで点滴や機械に囲まれ、以前よりは緩やかになったものの面会も限られた中で最期の時間を生きた義兄の心を想う。
おそらくごく当たり前の治療が行われたに違いない。
けれども、果たしてその道しかなかったのか、その最期しかなかったのだろうか。
そんなことを想う6月。
大頭のメンバーもそれぞれの時間を生きる。
覚悟を決めて大頭に帰ってきた人も、危ういステージを生きる人も、一時危機に陥った人も、それぞれの6月を生きている。
身体を起こし、食べれる時に食べれるものを口にし、温かいお風呂に入り、皆の中で過ごす一日。
笑い声や話し声の中にいる。
皆がいる場所に、いる。
命の行方は不明だし、危機は常に近くに存在するけれど、
人が人として生きるために、人としての最期を生きるために、残りの時間を豊かに生きるために、
人としての視点と生活という視点を大切に時間を紡いでゆけたらと想う。
それぞれの人と、それぞれの人生のあるべき姿と、それぞれの最期を想う。
蒸し暑かった昼間が嘘のように、ちょっと冷え冷えとする6月芒種(ぼうしゅ)の夜。
芒種は田を耕し、水を張り、固い稲の種を撒き、田植えの目安とする日。
昔から人は自然と共に生き、自然を敬って生きてきた。
大切に想い、怖れ、敬意を払って生きてきた。
梅雨の雨とは程遠い災害レベルの雨が降る今日この頃。
地球は怒り、自然も怒り、驕り高ぶる人間に牙をむく。
争う人たちは、そんな自然に敬意を払うことなく、自らの過ちに気づくこともないだろう。
季節は巡り、時は過ぎる。
万物に神が宿ると信じたこの国の先人たちの心を受け継ぎ、梅雨の日を生きたいと思う。
雨が豊かな実りを与えてくれるように、人の心も豊かでありたいものだと心から思う。
もう6月。
いろんなことを考えながら、過ごす6月。