厚生労働省は8月、要介護高齢者の自立支援で成果を上げた介護サービス事業所への報酬を加算するよう方針を固めたらしい。
要介護度が軽くなるほど報酬が低いため、介護事業所が自立支援に後ろ向きになっているとの現実に対する見直しらしい。
見直しでは、心身機能の訓練によって要介護度が改善したり、日常生活動作ができるようになった場合、報酬が増えるそうだ。
これは費用のかかる介護度の重い人を減らすことで、介護保険の費用の抑制につなげる計画なんだとか。
更に、自立支援に消極的な通所介護の報酬は引き下げることで、支払いにメリハリをつけたい考えらしい。
らしい・・・らしい・・・と書いたけど、昨今の介護保険の行方など、結局のところ誰にもわかりはしないのだから・・・。
所管の担当者に何かを聞いても、「とりあえず今年はこうなっているので、来年のことは自分たちにもわからないので、とりあえずあ~やって、こ~やってください。」みたいな返事しか帰っては来ないのだから。
たびたびの報酬改定や法律の改正にしても、結局一体この介護保険制度がどこへいくのか、どこを目指しているのか、スタートして17年で、年を重ねるごとに不明になってゆく制度なのだから。
一つだけ確実にわかっているのは、高齢化の進行により介護の総費用は年10億円を超え、2000年にスタートしたこの制度自体が将来像の見えない制度になってしまい、政府はその費用をどうやって抑制していくかということしか机上にはないという現実。
団塊の世代の高齢化に伴い、更に増加するであろう介護費用について、どうやって抑えるかだけを考えている現実。
長期的な方針などなく、4年に一度の見直しが最近では毎年のようになんだかんだと改正になり、そのたび現場も所管も右往左往している現実。
またまた、どこへ行くのか介護保険。
最近では、予防・予防と言い続け、早いうちから機能維持のためのデイサービスなんかにお金を出し、年寄りたちは精を出し、でっかいバスで超元気な年寄りたちを迎えに行き、井戸端会議にお付き合い。
介護を予防するための介護予防デイは、元気な年寄りが行くわけだから、もちろんデイから帰ると普通の生活が待っていて、自分で車を運転して夕飯の買い物に行ってたりする。
「今日はデイサービスでおしゃべりしてきた」と嬉しそうに話しながら、刺身にしようか肉にしようかと迷っている年寄りを見て、介護保険とは何ぞやとでっかい声で叫びたくなる。
若年性アルツハイマーで要介護1でも、自分の家さえ分からず一人で暮らせない年寄りは、機能訓練したところで介護度が軽くなったりするわけもなく、報酬低くて経営的には事業所好みではないから、大きな施設から追い出され、結局のところ改善する見込みのある人しか事業所は預からなくなっていくってか!
個別の対応などと謳いながら、結局見やすい人しか預からなくなっている現実は、毎日ひしひしと感じている。
どこも対応してくれなくて、なんとかお願いできませんか・・・というケアマネの訴えをどれほど聞いていることか。
「自立」とは何か?
「自立支援」とは何か?
「自立支援成果」とはなんぞや?
自立とは他からの助力を受けずに存在することだそうだが、そもそも他からの助力を受けずに人は存在できるのだろうか。
まして年をとり身体機能が落ちてゆく中にあって、一人で誰の力も借りずに生きて行けることが「目標」にされるのだとしたら、そんなことは馬鹿げていると声を張り上げたい気分になる。
自立しなければ、人は人でないというのだろうか。
訓練によって排泄、着替えができるようになったら「自立」したというのか?
介護保険とは、状態を「改善するため」のものなのか?
17年前、介護が必要になった人が安心して老い生きてゆけるように介護保険ができたのではなかったのだろうか。
たとえ不自由になろうと、たとえボケようと、いろんな人に支えられながら、ヘルパーさんに助けられながら、適切なサービスを受けながら、最後まで地域で暮らせるように考えてゆくための制度ではなかったのか。
加齢と共に、人は一人で生きることが難しくなっていく。
誰かの助けや支援が必要になる。
機能低下は当たり前。
誰かの助けを借りて生きてゆかなければならなくなるのだ。
誰もが老いてゆく。
誰もが。
自立を目指す介護保険制度改正を前に、どうやら安心して老いてゆける世の中は遥か遠くになりつつあるらしい。
介護保険はどこへ向かうのか。
社会はどこへ向かうのか。
一体どこへ。
新学期が始まり、秋風も吹き始めた今日この頃。
明日からまた中学校の授業で子どもたちがやってきます。
夏休み明けの子どもたちと会うのは楽しみです。
多感な年ごろ、思春期を迎える中学生たち。
この子たちもまた日々、「自立」へ向かって歩んでいます。
人は一人では生きられないのだから、人生を生きる中で誰かの手を感謝して素直に借りながら、手にできる沢山の選択肢の中から必要なことを選び取り、たとえ失敗したとしてもその経験を次にきちんと活かし、自分自身の自分にしかない人生をちゃんと歩いて行けることこそが「自立する」ということだと誰かが言っていたことを思い出します。
子どもたちの将来と、わたくし自身の老後にも続いてゆく自立という言葉。
自立の意味をもう一度、社会に問うてみたいと思う気がする今宵です。