池さんで働くおばさんの日記

デイサービス「池さん」の大ちゃんママのブログです。

秋の日に

2020-09-22 18:06:50 | デイサービス池さん

秋です。

お彼岸過ぎました。

夏があれほど暑かったからとか関係なく、やっぱりお彼岸が近づけば彼岸花が咲きます。

お祭りがくる頃には金木犀が香ります。

柿が色づき、栗がはじけ、銀杏が落ち始めます。

サトイモやサツマイモが顔を見せ始めると、食欲の秋。

河原で芋炊き、秋の風物詩満載です。

いつの頃からかコロナの話題が影をひそめるようになり、ひっそりと小さな声で「今日の感染者数」と、どこからか聞こえたりすると、「あ~こうやって世の中移り変わってゆくのだろうか」と何だか寂しい気がしたり。テレビで流れる「世の中」は、あくまでもマスメディア主導の「一方的な世の中」でしかないのかもしれないと、改めて思ったりする今日この頃。

 

夏から秋へ。

自然の移り変わりが教えてくれるのは(食べ物や草花だけでなく)過ぎ去ってゆく「時間」

多方向にアンテナを巡らせていないといけないと思う。

早すぎる時間の流れの中で、確かなものを見つけられず安易に与えられる一方向の一面だけで判断してしまっているのではないかという不安にとりつかれる自分がいる。

 

半年余りの制約された生活は、いろんな意味で世の中を変えてしまった。

変化の中には望むべきものもあれば、涙をこらえつつ変化を受け入れるしかないものもあるだろう。

未来へ向けて希望の光となるものもあるし、長い歴史に終止符をうつものもある。

大きな見出しのニュースから消えたとしても、このウイルスが世の中を変えてしまったこの事実はなくなることは決してない。

人と人の距離を遠ざけ、交わりを拒んだ事実が、マスクをつけた表情のない社会が、消毒液にまみれた人々の姿が、これから先の時代にどんな影響や変化をもたらすのか、子や孫たちの時代がどんな時代になるのか。

「国家」のあり方や「社会」のあり方や「家族」のあり方はどうなってゆくのか。

完全な安心や安全は存在しない。

常に限界がある。

経済の発展や医療の進化にも、必ず限界点は存在する。

どこまでも追い求めすぎる人間の慢心を、どこかで振りかえってゆかないと取り返しがつかなくなる気がする。

地球や国家や社会、その先にある自分たち小さきものの命。

全てを含めて、ニュースから消えた物事にも心を向けてゆくことを忘れてはならないような気がするのだけれど。

 

秋の夜長に読む本は、禅の「空」(くう)について書かれた本。

「満たす」ことより「空にする」

「得る」ことと「手放す」こと

本当に必要なものが一体何なのか、大切なものは何なのか、心をどう保つのか、

暑い夏にはどうしても読む気がしなかった本だけど、

秋の夜にぴったりの気がして手に取ってみる。

 

暑さで毎日ヘロヘロになった夏を過ぎて、じっくり考える時間を持つことも必要かもしれません。

明日は、連休明け。

今週は水曜日スタートです。

池さんは、いつもと変わらず、

ここにあります。

 

 

 

 

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しなやかに

2020-09-16 21:06:55 | デイサービス池さん

しなやかに生きることは難しい。

柳みたいに、風が吹いてもゆらゆらと、でも決して折れたりせずに、自分らしく生きてゆく。

そんな風にいつも生きていたいものだと思うけれど、気がつけば、ポキポキと簡単に折れる枯れた枝のごとき自分に気づき、ふと心に気が滅入りそうになる。

 

身体が悪くなれば笑って仕方がないと受け入れたいし、年をとれば誰もが同じだと笑って受け入れたいし、家族のことで悩むことも笑って仕方がないと受け入れたいと、そうありたいと、いつも思う。

イラつく自分の心に向かい、なんて小さいのだろうと自らを蔑みながら、

ふと目の前のカレンダーの文字が目に留まる。

「自分のあり方に痛みを感ずるときに 人の痛みに心が開かれる」

 

年と共に成熟すると思っていたけれど、どうもそうではないらしいと、池さんでの年寄りたちを見ていて思う。

自意識が、客観的な事実に追いつかないばあちゃんたちをたくさん見ている。

まだ、今も、自分は、できる、という思いが強すぎて、家族を困らせ続けていることに気がつかない。

上手にしなやかに年をとることができるばあちゃんたちは、できなくなった事実を素直に受け入れ、しなやかに自然に誰かの手に自らをゆだねることができる。

決して、まだ、と言わず、今は、もう、できないと受け入れ、自分も、年をとったと素直になることができる。

パットを使うことも、人に手を引いてもらうことも、お風呂の手伝いをしてもらうことも、ごくごく自然に当たり前だというかのように、いつからか、自然に移行することができる。

老いてゆく自分を客観的に見ることができる人たちは、まあ仕方がないと、人に頼ることが自然にできるようになり、最期の時間を穏やかに生きてゆくことができるのだろう。

あ~だ、こ~だ、と言い続ける人は、せっかく与えられるかもしれない老いへの穏やかな時間を、自ら投げ出して、荒ぶる状況へと自ら身を投じているのだろう。

 

自らのあり方を問い続ける自分でありたい。

その自分の姿のありようの痛みに気づくことこそが、やがて誰かの心の痛みに気づくことができるはずだと信じて、想像力をかき立てて、より成熟した自分になりたいと、しなやかで大きな自分になりたいものだと、

思ったりする初秋の夜。

虫の声と、そよぐ風に、長く辛かった夏を想いながら、過ごす夜。

孫の誕生日。

大きくなっただろう離れて暮らす孫の顔を思いながら、過行く時間に心を動かされつつ、自らのありようを思い返す夜。

 

 

 

 

 

 

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秋の風

2020-09-10 20:55:01 | デイサービス池さん

もう秋は来ないのではないかと心配になるほど暑かった夏。

玄関前連日40度を記録し続け、息も絶え絶えのスタッフ尻目に、毎日意気揚々と元気にやってくる要介護老人たち。

じいちゃんばあちゃんたちの体感温度は常に適温で、「暑くない?」と聞くと「風が吹いて寒い!」とのたまう。(それ、扇風機の風ね!)

熱中症が恐ろしすぎて、麦茶をせっせと作り、エアコンガンガンかけて、それでもそんな苦労などお構いなしでばあちゃんたちは汗かきながら「寒い」と不機嫌になる。

まあ、そんなこんな猛暑を抜けて、気がつけばセミの代わりにいつからか虫の声。

コオロギの声を聞きながら、エアコンを切ってみると、どこからか吹く涼しい風が身体に心地よい。

気がつけば秋の色。

本日、今年初のメニュー「芋炊き」

たっぷりと野菜を入れて、うどんを入れて、秋らしく(汗かきながら)大鍋を囲む。

あの人も、その人も、この人も、うどんをフ~フ~言いながらすする。

秋。

もう秋。

どんなに温暖化になろうと、どんなに地球が変わろうと、季節は忘れずに変わってゆく。

自然のなせる業。

もうすぐ、銀杏や栗が実を落とし始める頃。

夏の終わり。

 

 

 

 

 

 

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いろんな人の人生を想う

2020-09-06 18:10:48 | デイサービス池さん

私と同じ年の人がいる。

日常生活のすべてにおいて介護が必要な人。

薬の影響もあり、眠り続けてどうにもならない時もあるけれど、でもいつもそうではなくて視線がちゃんと合ってとてもクリアな感じの時がある。

「おはよう」と声をかけると「あ~来てくれたん」と笑ってくれる。

「アイスクリーム食べる?」と聞くと「ありがとう。ひとつ貰おうか」と笑顔になる。

「おしっこ行く?」と聞くと「行かん。バカバカ」という時もあるし、「行くよ」という時もある。

タイミングよく視線や会話がつながったな~と感じる時は、本当に嬉しくなる。

記憶を失い、言葉を失い、感情すら失いかけているからこそ、ほんのちょっとした言葉や動作に反応してくれたら、ただそれだけで本当に嬉しくなる。

いつも思う。

どんなふうに家族と生きてきたのだろう。

どんな話をしていたのだろう。

どんな人生を生きてきたのだろう。

私が知っている僅かばかりの時間の中の人生ではなく、それまでの長い長い時間をどう生きてきたのだろうと。

 

施設から来ている人がいる。

家族がいないわけではないけれど、その人は施設で暮らしている。

介護の必要度が増すにしたがって、不機嫌になり介護への抵抗が増してゆく。

入浴や排泄が困難になり、離床さえ難しくなってきた。

施設では薬剤の追加や調整が行われてゆくけれど、介護抵抗は増すばかり。

そして、薬剤調整のための入院措置。

こういう事例は今までたくさん経験してきた。

通所の限界を目の当たりにする時、家族の在り方や施設の在り方を考える時、いつも思う。

この人はどんな人生を歩いてきたのだろう。

これからの時間をどう生きてゆくのだろう。

 

命の最後の瞬間に近づいた人がいる。

高齢の奥さんが介護を続けている。

最初にここに来始めた時、その人はわずか1秒もじっと座れないほどの混乱の中に生きていた。

家族はいろんな葛藤や悩みや苦しみを感じながら8年という月日を生き、今最期の時に向かっている。

骨だけになった痩せた身体を見ながら、ここまで痩せてもどこも痛んでいない綺麗な身体を見ながら思う。

どんなふうに生きてきたのだろう。

どんな夫婦だったのだろう。

どんな父親だったのだろう。

 

どの人も元気だった。

どの人も若かった。

おそらくどの人も、その人なりに人生を一生懸命生きたはず。

いろんな人の人生の最終章を見ながら、

いろんな人生のあり方を、

思い続ける日々。

 

 

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