今月初め亡くなった永六輔さんの事を書いた文を目にしました。
2013年に加藤登紀子さんへ送った詩。
「淋しさには耐えられる 悲しみにも耐えてみよう 苦しさにも耐えてみて 耐えて耐えて
耐えられないのは虚しさ 虚しさ 空しさ 虚しさが耐えられるのは ともだち あなた 戦う心」
加藤さんは「この歌は、永さんがつらさを感じている人たちに寄り添っていると受け止めることができる。いつか2番をつけて完成させ、大切に歌っていきたい」と話したと結んでありました。
永さんがこの詩に込めた想いとは一体何だろうと考えて、自分に置き換えてみます。
私自身も、淋しさや悲しみや苦しさには時間がかかっても、きっと耐えることができるだろうと思うのです。
今まで経験してきたいろいろな出来事の中で、淋しさや悲しみは時間が癒してくれたり、きっとどこかで誰かが見ていてくれたり、苦しみの中にあっても、歯を食いしばっていれば出口が見えるであろうことを知っているつもりだから。
でも、やっぱり虚しさという感情は、自分の力ではどうにもならない出来事だったりするわけで。
自分が頑張れば済むことだったり、自分が我慢すればいいというレベルの事柄ではなく、目に前の問題に対して、自分があまりにも無力に感じて空しかったり、切なかったりどうしようもないということは確かに存在するのだと思います。
永さんのこの虚しさを埋めてくれるものが、「ともだち・あなた・戦う心」というのなら、永さん、私も同感です。
どうしようもなく虚しさを感じた時、周囲の大切な理解者(ともだち)が助けてくれたり、大切な人が助けてくれたり、何かに向かって突っ走る力強い気持ちが自分を助けてくれたり・・・きっとそうなのだと思います。
振りかえってみれば、私自身もそうだったと思います。
現実の社会の中で、実際の生活の中で、様々な感情の揺れ動いた中にあって、自分自身を見失わずに来れたのは、きっとこの虚しさに耐えて来れたからなのかもしれません。
その時、いろんな人たちにささえられ、大切な家族と共に考えることができ、理想を実現するために一生懸命戦って来ることができたから、今の池さんという場が存在しているのかもしれません。
それは仮想社会ではなく、どろどろとした紛れもない現実の世界なのです。
目をそむけることなく、背を向けることなく、これからも耐え続けていきたいと思います。
現実の社会だからこそ、人が生きている社会だからこそ、多くの悩みや苦しみや淋しさや悲しみがあるのだと。
そこで生きているからこそ、人と繋がる喜びや、家族に愛される幸せや、何かに向かう気持ちが生まれてくるのだと。
スマホの画面に夢中になって、仮想社会の遊び熱中するあまり、現実の社会を見失ってしまってしまうのではないかと、少々心配したりする老年期を前にしたワタクシです。
今の若い人はとか、都会ではとかいうつもりはないけど、こういう社会の流行が、新聞の一面を飾り、トップニュースになることこそが心配の種ではないかと思うおばさんの想い。
スマホに夢中になっている都会の公園を多くの人が徘徊している時間帯、BSで原爆投下後の広島に救援に向かった特攻隊の人たちの証言を綴った番組を放送していました。
せっかく生き残った命でありながら、さまざまな苦しみや葛藤を抱え、静かに沈黙を続け、自らを語らずに生きてきた人たちの言葉は、胸に刺さるような激しさを伴い、この証言をすることで自らが生きてきた人生を揺り動かすことになるかもしれないと思いながらも、後の世のために語ってくれた人のことを想い、涙を流しつつ番組を見ました。
歴史は現実の世界です。例え間違った道であったとしても、のちの検証で間違いであったとされたとしても、その時代に生きた人にとっては紛れもない現実の社会。
逃げることも反抗することもできず、ただ静かに生きてゆくしかなかった多くの人たちの心を想像する時、今の世の中が、これでいいのだろうかと、先人たちに胸を張れる世の中だろうかと思わずにいられません。
仮想社会で生き、その楽しみのために生きる人を映像で見るにつけ、永さんの言ったように、虚しさに耐えるためには、戦うしかないような気がします。
ならば、何と戦えばよいのでしょうか。
考えてみると・・・それはきっと、「自らの心」なのかもしれません。
虚しさにつながる現実を、「よし」とする現代のわれわれの心なのかもしれません。
社会現象といわれるできごとを、「これでいいのだろうか」と立ち止まってもう一度振りかえることができる賢さをもった人になる戦いです。
ゲームをしたいからと深夜子どもを抱いて、公園を徘徊する若い母親に考えてほしいと思う戦いです。
延々と流されるニュースをただそのまま受け入れるのではなく、自分の考えを持って、社会の動きや流行に惑わされることなく判断できる、知恵のある人になりたいと思います。
社会の在り方に、ニュースや流行の在り方に、疑問を感じる今日この頃です。
年をとったからなのでしょうか?
どうも、こういうことが気になって仕方ない年頃です。