8年前の12月23日、朝。
私たちがみよちゃんを見送った日。
池さんが最初の看取りを経験した日。
人を見送ることの大きさに出会った日。
人の命のありかについて考え始めた日。
その日から今まで、私たちは、いろんな人たちと出会い、同じ時間を生き、最期の時を共に過ごしてきた。
8年後の、今年の12月23日、朝。
同じ日の同じ朝。
私たちは、やよえさんを見送った。
出会いからわずか1年半。
最後の時までやよえさんは、やよえさんらしく自分の命のありかを決めて生き、そして逝った。
みよちゃんと、やよえさん。
2人の死に向かう姿と家族のありようは、私たちに多くのことを教えてくれた。
かつてみよちゃんの生き様と死にざまを、心に刻んだように、今私たちはやよえさんの生き様と死にゆく姿を心に刻みたいと思う。
8年前と同じ日に、偶然にも訪れた大きな経験は、おそらくこれから先の池さんと、ここで生きる皆の指針になるに違いない。
今月に入って調子が良くなくて、食事や水分も不足していたし、持病の発作さえも起きなくなって、ひょっとしてこのまま下降していくかなと思っていたし、数日前にお風呂の介助をした大ちゃんが、「あ~たぶん死ぬんやな。と確かに感じた」と話してた。だから先週の月曜日に、大ちゃんが髪を切ってあげた。21日には呼吸が安定しなくなったけれど、それでも22日に姉弟が来てくれた時には、しっかり目を開け顔を見て、無言の会話をかわしていたやよえさん。
翌23日朝、一番大事にしていた孫が東京から到着するのを待って、はっきりと目を合わせ、一番近い家族だけに囲まれて、呼吸が変わってからわずか10分ほどであっさりと旅立っていった。
執着心のないやよえさんらしく、でも可愛い孫にきちんと別れを告げて、娘たちに囲まれて、あっという間に逝ってしまった。
老いた故ではなく、かといって病によるというわけでもなく(もちろん持病はあったものの)ただ、自然に自分の人生に幕を引いたという感じの死を前に、あまりの潔さに心が震えた。
娘二人と、可愛がってきた孫に看取られるように、逝くまでの時間を、自らが整えたに違いないと思った時、身体が震えた。
メメントモリ
人は、これほどまでに、見事に潔く、自らの死を選べるものなのかと、ただただ感動した。
私との最後の会話。
土曜日、ほぼ酸素も入らず、呼吸も浅くて昏睡に近い状態だったけれど、
「水飲む?」と聞いた私に、やよえさんは明らかにはっきりと小さく首を、2回、横に振った。
「いらんの?」と重ねて確認した私に、やよえさんは頷いた。
翌日、一番会いたかった孫の到着を待ち、きちんとお別れを伝えて最後の息を終えるというやよえさんに、「見事でした」と言うほかない私がいる。
大切な人がたくさんいる。
大切な人たちの後ろには、たくさんの家族の人たちがいる。
人と人の出会いは、必然だと思っているものの、だからと言って誰とでもずっと繋がっていけるというわけではないと分かっていて、現実には切れてしまう糸もたくさんあって、寂しくなることもたくさん経験してきた。
出会ったのだからずっと繋がっていないといけないと思っているわけではなくて、ただ気持ちの中で、残された家族を前に、私たちは、本当に共に生きたのかと自問自答することがあるのだ。
おそらく介護施設という枠組みに留まらない「宅老所」という曖昧な場所だからこそ、「一緒に生きている」という特有の感覚の上にこそ成り立っている日常を生きているからかもしれない。
一人よがりではなく、深い所で繋がれていたのだろうかと。
大切な人が亡くなっても、ずっと今でも、池さんに足を運んでくれて、いろんな意味で池さんを支えてくれる家族がいる。
14年という歳月を続けてこれたのは、支え続けてくれる家族の想いがあるからこそだと思う。
ここで出会って、いつもここを想ってくれる人たちとの出会いの必然に、感謝という薄っぺらな言葉しか思いつかないけれど、この必然があったからこそ、私たちはここを続けていくことができた。
私たちの想いや、池さんの理想や生き方や、命のとらえ方や、その意味や、命の姿やありかや、死のありようを、私たちと同じように理解してくれる人たちと出会えたことに、その出会いを与えてくれたやよえさんという人の生き様に、その死に様に、改めて感謝。
令和元年という記憶に残る時間の中で、8年前のみよちゃんから繋がっていた糸を見つけた気がして嬉しくなるような不思議な感覚は、決して辛いとか悲しいだけの感情ではなく、暖かくて穏やかな気がする、そんな12月最後の出来事。
令和元年も、もうすぐ終わり。
雨が続いています。