3月だった。
ケンイチさん夫婦と私たちは出会った。
ケンイチさんは、夫婦二人で暮らしていた。子どもはいない。仲の良い夫婦だった。
ケンイチさんは重度の難聴。奥さんは認知症。
二人とも年をとり、二人だけで暮らすことは困難になっていた。
ヘルパーなどを利用しながらなんとか暮らしていたけれど、それも困難になって二人は近くのケアハウスへと移り住んでいた。
多くの人が暮らすケアハウスの生活は、ケンイチさんにとって心休まる場所ではなかった。
少しずつケンイチさんは混乱するようになり、夜中に物音がすると事務所へ訴えたり、大声で怒鳴ったりすることが増えていった。
ケアハウスという場所は、ケアをしてもらえる場所ではない。ケアが必要になれば、ほとんどの場合、退去を迫られる。理由は、他の住人から苦情が寄せられるからだ。
夫婦は行き場を失った。
ずっと関わってきたケアマネは、いろいろな場所を探した。
仲の良い夫婦をバラバラにすることなく、安心して暮らせる場所を探した。
けれども、認知症の妻とほとんど聴力のない夫が一緒に暮らせる場所は見つからない。
そして、池さんに。
「どこにも受け入れ場所は見つからない。何とかお願いします。夫婦をバラバラにしたくない。本当に仲のよい夫婦です。一緒に看てもらえませんか?」
受け入れたくても、大頭は一杯で部屋もない。
行き場のない老夫婦に退去をせまるやり方にも腹が立ったし、二人を離れ離れにしたくないというケアマネの心情にも心を動かされ、私たちは悩む時間さえない状況の中で、即座に決心するしかなかった。
二人を引き取るために、新しい宅老所を建築するということを。
宅老所が完成次第必ず引き取るということを条件に、それまでの期間ケアハウスから退去させないということを了承してもらい、新しい宅老所の建築に取り掛かった。
馴染みの関係をつくるために、デイも週3日の利用が始まった。
時間がなかった。
銀行からの借り入れや住宅会社との交渉など、やるべきことは山のようにあった。
約束の9月までに。
難聴のせいで孤立していたケアハウスの生活。
デイに通うようになって、ケンイチさんは落ち着いてきた。
私たちは一生懸命ケンイチさんと会話しようと努めた。
最初は筆談だったが、時間がたつにつれて、不思議なことに会話が成立するようになった。ケンイチさんの言葉も聞き取れるようになったし、ケンイチさん自身も、私たちの言葉を聞きとることができるようになっていった。心と心が通じあうように。
それから3ヵ月。
春のあいだじゅう、花を見に行ったり、山へ出かけてタケノコをとったりワラビをとったり、二人は池さんを楽しんだ。
ケンイチさんはいつも奥さんを気遣い、「しんどくないか?」「寒くないか?」と優しく案じた。
建築中の家を見ては、「立派じゃ!たいしたもんじゃ!楽しみじゃ!」と笑ってくれた。
池さんのスタッフと自宅へ行って、自転車や鉢植えや、くわなど少しづつ持って帰り、大頭へと引っ越す日を本当に楽しみにしてくれていた。
週3回、二人は仲好くやってきて、仲好くケアハウスに帰っていった。
7月はじめ、ケンイチさんが転倒し頭に怪我をしてやってきた。
体調も戻らないまま、翌週再び転倒。
容態は急変し、ケンイチさんは亡くなった。
残された奥さんは、今ショートステイをつないで、なんとか暮らしている。
出会ってからわずか3カ月あまり。
でもケンイチさんとの出会いは、私たちに新しい宅老所の建築という大きな転機を与えてくれた。
二人が楽しく暮らせるようにと、夫婦部屋を南に、ケンイチさんのために部屋の前は畑になるように、時々家にも帰ったらいいねと、いろんなことを考えて過ごした3月からの日々。
池さんにとって、この転機は限りなく大きい。
ケンイチさんが亡くなっても、残された奥さんが笑って暮らせるように、予定通りスケジュールをこなしていくつもりだ。
宅老所の完成の時は、きっとケンイチさんもどこかで見てくれるだろう。
「ありゃ~、こりゃすごいわ~!」「すごい!すごい!」と言って手をたたいてくれるに違いない。
ツルツルの頭を撫でながら、
「わあ~!!!」と歓声を上げてくれるに違いない。
「ばあちゃん、よかったねえ!」と、奥さんに微笑みかけてくれるに違いない。
そんな気がする。
ケンイチさんが持ってきた自転車が、今も池さんの前に止めてある。
ケンイチさんが庭から持って来て植えたヒマワリには、種ができ始めた。
たくさんの鉢植えも、暑さの中元気に池さんの玄関前にある。
ケンイチさんのこと。
奥さんのことを、本当に大切に思っていた。
奥さんが安心して暮らせるように、
池さんという場所を見つけることが、
ケンイチさんの人生の最後の仕事だったのかもしれない。
ケンイチさんのこと。
優しくて、大きな、「人」だった。
おちゃめで、魅力的な「人」だった。