立秋を過ぎた。
暑い暑いと毎日文句ばっかり言ってる間にも、季節は少しずつ変わり始めているような気がしないでもない今日この頃。
ほんの少し、夜明けが遅くなったし、ほんの少し、日の入りも早く感じる。
風も時折心地よく感じることもある。
でも、まだ、ほんの少しだけ。
あまりの暑さに、草木も野菜も、秋に収穫する里芋さえ、枯れ始めている。
・・・
「池さんの季節行事について」
池さんは創立以来、イベントとしての派手なクリスマス会やひな祭りや夏祭りなんかは行っていない。職員が頑張って練習したり、みんながやらされてる感が強いイベントや、年寄りがお客さんになる催しは、まあいいかな、、、という感じがする。
そのかわり、地域に伝わる季節の行事はできるだけ大切にしたいと思っている。
麦刈りの頃には蛍かごを編む。
梅の季節には丁寧に梅仕事をする。
石鎚のお山開きには感謝を込めてお参りする。
七夕は月遅れで。
8月には特攻隊の関さんの記念館を訪れる。
秋祭りには氏神様にお祈りする。
昔からばあちゃんたちが日々の暮らしの中で伝え続けてきたこうしたいろんなことを、その意味や心を、みんなで話しながらずっと伝えてゆきたいと思っている。
例えば、この地方には、「たのもさん」という行事がある。地域限定の行事らしく、愛媛県でも東予地方だけらしい。(ちなみに私は倉敷出身なのでこの行事は自分は経験がない。この土地で暮らし始めて地域の子ども会の行事に参加して初めて知った。)
「たのもさん」とか「おたのもさん」と呼ばれ、八朔(旧暦8月1日)に豊作を願い、米粉を蒸し色をつけた団子を使って、神様や動物やお人形や花を作る行事のことをいう。
この行事を伝えるときに、まず、8月1日をなぜ八朔というか、、、というところから説明がいる。八朔は果物のことではなく、旧暦八月朔日(ついたち)だから縮めて八朔というそうだ。現在では九月上旬ごろにあたるので、稲が実る頃になる。
たのもさんという言葉は、「田の実」のという言葉が変化したものらしい。
田の実は稲を指す。稲の実りが豊かであるよう願いをこめたのが田の実の節句。
稲の豊作を祈願するために、米粉で小さな人形などを作って床の間に飾り、翌日これを焼いて食べると暑気あたりの薬になるという言い伝えもある。
で、8月1日、池さんの「たのもさん」の日はこんな感じ。
朝からこんな会話。
今日から八月やね~、日が経つのは早いねえ~、と話が弾む。
そういえば、昔は8月1日は八朔言うんよ。
八朔って果物の?(違うような気がする~)
八朔食べる日?(夏は八朔はないよね~)
そうだ!八朔買いに行こう!(ちょっと違う~)
じゃあ、なんで?(さあね~)
8月1日は、「たのもさん作って過ごしたよ~」「そうそう、作った作った!」とばあさんたちの話が広がり、やっと、たのもさんの話になる。
でも、新しい職員はたのもさんを知らないから、まずたのもさんという行事のいわれや歴史を調べたり、その説明から始まる。
で、興味津々で、作ろう~作ろう~ということになり、さっそく何人かで米粉を買いに行く。
(正確には米粉をこねて蒸して作るけど、蒸す時間や手間が時間かかるから、こねて色粉を混ぜるだけにする。)
もっと柔らかいほうが、、、とか、柔らかすぎたら形ができん、、、とか、ばあちゃんたちに言われながら、それでもめげずにこねこね。こねこね。
赤・黄は、色粉で色を付け、白はそのまま、3色の団子をこしらえて、ばあちゃんたちの前に置く。
あっという間に、あちこちからばあちゃんたちが集まってくる。
どうするん?とか聞くこともなく、「懐かしいね~」「こうやって昔作ったよね~」とか言いながら、あっという間に3~4㎝ほどの小さな神様がいっぱい誕生。
神様の人形の座布団を作ったり、着物を着せてあげたり、、、花や動物つくる人もいて、90歳超えのばあちゃんたちの記憶力と経験値に、みんな感動しきり。
並べて飾って、みんなでお祈りして、たのもさんコーナーまで出来上がって、しばらくの間、この話題で盛り上がる。
ばあちゃんたちが生きてきた歴史やその歩みに想いを馳せ、大切にしてきたものを聴き、感じてきたものを知ろうとすること。
ばあちゃんたちの昔の話を聞きながら一緒に過ごすこの時間こそが、大切にすべき時間なのだと、それこそが、池さんの季節の行事の意味だと、新しい職員に語っていく。
こんな時間が大好きだ。
ばあちゃんたちの話の中には、かつての「日本人が大切にしてきた心」が映し出される。謙虚に自然に向かい合い、農作業に精を出し、質素に生きてきた人たち。戦争に翻弄され、厳しい毎日を過ごし、我慢や辛抱だけの時代を生きてきた人たち。今の時代に生きる私たちには想像すらできない過酷な時代を生きた年寄りたちと同じ時間を過ごせることが嬉しい。
すべてのものに神が宿る。
かつて、人々は、自然のすべてに神を感じて、手を合わせ、祈り生きてきた。
すべてに神を感じるからこそ、大切に思い、奢ることなく、謙虚に生きてきた。
ただ一つの神ではなく、どこにも、そこにも、ここにも、神様が宿っていると信じるからこそ、自然を大切に想い、大切に生きることができるのだと思う。そうやってかつての日本の人たちは生きてきた。
季節を大切にし、自然に敬意を払いながら、生きてきた。
その人たちの心や想いを、大切に感じながら生きていきたいと思う池さん。
こうして自然に祈りを捧げながら、謙虚な心で生きてゆけば、
争いや報復もなく、優しくて寛容な世界になるんじゃないかと思うけれど・・・。
映像の中の、崩壊した灰色の塊の空間しか目にしない子どもたちの未来を想うとき、胸が押しつぶされそうな気持になる。
平和な社会の、平和の祭典は・・・終わった。